09 高揚
最後のカップラーメンを平らげ、すべての食料が底を突いた昨夜から半日強が過ぎた昼下がり。空腹を調味料であるマヨネーズとケチャップでなんとか紛らわした煌希は、サンダルを履いた両足で玄関の靴脱ぎ場を踏みしめていた。代金を支払い、受領伝票にサインをする。口から心臓が飛び出る思いで手渡されたものを受けとった。商品がどっさりと詰め込まれたLサイズのレジ袋をふたつ両手に携える。表情筋の引きつりを怪しまれないように自然な愛想笑いを取り繕うも、発声はどもりぎみで滑舌が悪く、微妙に震えていた。「ど、どうも……」
それに対し、若い男性配達員は快活な声を響かせた。「ありがとうございました! またのご利用お待ちしています」
頭を下げて一礼したあと、機敏な足取りで配達員が立ち去っていく。その背が鉄骨階段を下りだすと、煌希は扉を閉めて素早く施錠した。
サンダルを脱ぎ、よろめきながら玄関から後退する。床にそっと荷物を置いた。次は床ではなく、腰を抜かすように宙にへたり込んだ。
鼓動が痛みを伴うほど爆音を放っている。全身が熱い。どすんと音を立てるように、そのまま空気のベッドに倒れ込む。
計り知れない進展を遂げた。閉ざされた未来が開かれる瞬間だった。ネットスーパーの受け取りに成功したのだ。
思わず感極まる。目の潤みを感じ、一筋の雫が目尻からこぼれた。男がこんなことで泣くなよ、みっともない、と涙声でつぶやきながら指でそれを拭う。
身体を横に向け、はち切れんばかりに詰め込まれたふたつのレジ袋を眺める。補充された食料品の存在に、いくばくかの安らぎを胸に覚えた。
これを機に、すべての事態が好転していくに違いない。まだ解決していない問題は山積みだったが、いまの煌希にはそう思えてならなかった。負の呪縛から解き放たれたかのように、心がふっと軽くなっていく。
次第に気分が高揚してくる。微笑みが止まらず、いつしか含み笑いが高らかな独り笑いへと発展を遂げた。ついには身体がひとりでに宙を踊りだす。煌希は思いのままに舞いだした。
上へ、下へ、右へ、左へ、ひと呼吸。上へ縦回転、下へ縦回転、右へ横回転、左へ横回転。ついでに、後方抱え込み三回宙返り、前方伸身宙返り三回ひねり、深呼吸。
勢い任せに繰り返すこと三回、そしてフィニッシュは宙で着地のポーズ。あまりの爽快な達成感に歓喜の声があがる。「決まった。最高だ! いやっほおお!」
体操競技ならぬ、思いつきのアクロバット運動だった。やれば意外とできるものだ。
昔から飲み込みは早いほうだと言われていた。いや、ただ早食いを褒められただけなのかもしれない。練習なしでここまでの完璧な動きをするとは、きっと並外れた才能があるに違いない。
するとそのとき、和室の壁を叩きつける音が耳に響いた。地鳴りのような鈍く重い振動が空間に広がる。
野太く、いきり立った男の声が、壁の向こう側から飛んできた。「こっちは夜勤明けで寝てるんだ! 静かにしろ!」
これぞ、正真正銘の壁ドン。隣人の独身中年男、森山の怒声だった。
冷めやらぬ興奮が、一斉放水を受けたかのごとく鎮火する。すみません……、と身を縮こませながら、煌希は和室に向かって頭を下げた。
少しばかり調子に乗りすぎたか。嘆息混じりに、床に置かれたふたつのレジ袋を見下ろす。いつまでも放置しておくわけにはいかない。仕分けして片付けなければ。
重いレジ袋をゆらゆらと冷蔵庫前へと運ぶ。冷蔵庫を開け、食料品を次々としまい込んだ。レジ袋のなかが減っていくうち、おやと怪訝に思い、手が止まった。なにかを買い忘れていることにふと気づく。しかし、それがなにか思い出せない。何度も首を傾げた。必要なものはひと通り買ったはず。たぶん思い出せないぐらい、つまらないものだろう。
すべての収納を終え、冷蔵庫に背を向けたとき、煌希の動きは硬直した。思いがそこに到達し、この不条理な現実に掻き消された記憶が息を吹き返す。頭に空き缶を投げつけられたような衝撃が走り、とある女性の後ろ姿が脳裏に浮かびあがった。
女が振り返った。一瞬、母かと思ったがそうではなかった。垂れ目が特徴的な会社の先輩、岡田だった。岡田と記憶のなかの煌希が肩を並べて会話をしている。
岡田が吹きだすように笑った。「まさかビールとピーマンを一緒するなんて。上之君っておもしろい」
「え、だって苦味が旨いんでしょ。だったら同じ理屈なんじゃないでしょうか」
「まあ、確かにあのホップ独特の苦味が美味しいのよね。でも、ピーマンと違って大人にしかわからない旨さがあるの。いわゆる大人の味ってやつね」
「はぁ。そういうもんなんですか」
「それに」岡田がにやりと、さも意味ありげな顔でささやいた。「苦い物を飲み続ければ、いつかは『苦み走った男』に近づくかも」
落雷が脳天を貫く。そんな衝撃が全身を襲った。煌希は思い出した。自分が思っていたことを人生の先輩が口にした。それは決定事項だった。苦み走った男作戦。肝心要の必需品を買い忘れていたのだ。
「ああっ! そうだ!」煌希は大声で叫んだ。「ビールを買わなくっちゃダメじゃないか!」
間髪入れずに和室の壁が隣室側から叩かれる。激昂したようすの森山の声が吠えた。「うるせえつってんだよ。このタコがあ! 静かにしやがれ!」
亀のように首を引っこめて、煌希は萎縮した。ごめんなさい、小声でそうつぶやいた。
すぐさま気分を切り替え、森山に怒鳴られた件は即刻、脳内の隅へ払いのける。ビール問題を大々的に取りあげた。
宙であぐらをかき、腕を組む。ダイニングルームの空間を右往左往とうろつき回った。
先ほど利用したネットスーパーは、合計金額が五千円以上で配送料が無料になる。缶ビール一本のために再び五千円の買い物をするのは、あまりにも非効率すぎるし、これ以上は冷蔵庫に入りきらない。
では断念するしか道はないのか。煌希は熟考を重ねた。ひとつの可能性が脳裏を去来する。
ひらりと床に降り立ち、ダイニングテーブルの周りを執拗に周回する。抑制に意識を払いつつ、歩行動作にも神経を集中した。ふむふむと顎に手を当て、洋室へと方向転換をする。今度は部屋の中央にある座卓の周りを入念に歩き回った。
決意が固まりつつある。無謀かもしれないが、挑戦してみるしかない。姿見の前で立ち止まり、鏡像を見据える。碧眼の男と対峙していた。彼がうなづく。煌希もうなずいた。
やってみよう。パンドラの箱はすでに開かれてしまったのだ。もう進むしかない。




