08 孤軍
金曜日の無断欠勤をまず一番に謝罪し、上司である係長の清水に病欠の旨を伝える。それは、土日が過ぎた月曜日の朝のことだった。清水は訝ることもなく、快く許可してくれた。ちゃんと治してから復帰するように、お大事に。その言葉が、耳もとに当てたスマホのスピーカーから聞こえる。
お辞儀をしながら向こうが先に切るのを待ち、煌希は通話終了のアイコンをタップした。
夏のインフルエンザ。季節外れだがありえなくもない。これにより、自動的に、一週間の有給休暇を取得したのだった。むろん罪悪感を抱いたことに違いはない。言うまでもなく、仮病である。
スマホを短パンのポケットにしまい込む。ほっと緊張から解かれると、煌希は洋室の宙であぐらをかいた。全身は、浮遊特有のふわふわとした微細な揺らぎを放っている。
傍らにある姿見をちらと眺めた。豹変した、超常的ともいえる自分の姿に畏怖の念すら覚える。青い瞳はいまだ馴染めず、強い違和感が否めない。ミディアムヘアがそれを顕著に現しているのだろう、生まれつき栗毛色の頭髪にも、ふわりと逆立つ微弱な浮力が認められる。
がっくりとうなだれながら、内心、皮肉なつぶやきが漏れた。会社員から、まさかの妖怪・浮かびあがりに転職か。
母は秘密にしろと念を押していた。至極当然だ。こんなこと誰にも言えるはずがない。
もしこの事実が世間に知れ渡れば、自分はいったいどうなってしまうのだろう。新たなる人類として歓迎されるのか。はたまた、脅威の化け物として迫害を受けるのか。
信頼のおける高校時代の友人であっても、絶対に他言しないという保証はない。口の軽い先輩社員の関根など論外、もってのほかだ。
恐ろしい事態になっていくさまが目に浮かぶ。ハリウッド映画のミュータントものでよくありがちな設定が、頭のなかを埋め尽くしていく。きっと自分も彼らと同様に、政府から研究の対象として捕獲され、永久に実験動物として監禁される羽目になるのだ。
こめかみに青筋が立つような苛立ちがあった。もうどうすることもできない、もどかしさもあった。母はなぜ秘密に関わる遺書を残さなかったのか、という疑念がこの三日間募るばかりだった。あの言葉は冗談であったのか。そう考えることもできる。冗談がたまたま現実になってしまった。仮にそれが正解だったとしよう。ならば、母は天国で悲しんでいるのか。それとも、当ててやったりとほくそ笑んでいるのか。後者であれば、憤怒に値する。
スマホをポケットから取り出した。ストップウォッチのアプリを起動し、スタートボタンをタップする。半ば憤然と、煌希は宙からフローリングへと降り立った。
姿見に目を移す。急速に生じる宙への浮上欲求と疲労感をよそに、萎えるように頭髪の逆立ちがおさまっていくのが見えた。姿見から視線を逸らし、室内をぐるぐると周回を始める。
いま自分がなにをすべきなのかは言うまでもない。制御訓練だ。体内の浮力を掻き消せば、歩行が可能になり、髪の逆立ちも鎮めることができる。浮上欲求を完全に抑制し、それに伴う体調不良を軽減できるようになれば、この妖怪状態から解放され、あの平穏な社畜生活を取り戻せるのだ。
床を踏みしめるごとに、内面に響く本能の叫びを黙殺する。息が弾みだしていた。早くも呼吸が乱れてくる。一瞬、足が絡まりかけ、よろめいたのは、めまいが生じたためだった。水分を摂ったばかりなのに、異常なほどの喉の渇きに顔をしかめる。
鈍重な疲労が次々と押し寄せ、足取りが牛歩と化す。なおも歩き続けた。
なぜ自分がこんな酷い目に遭わねばならないのか。なにも悪いことはしていないのに。歩を進めるたび、そんな思いが駆け巡る。
ストップウォッチの経過時間を一瞥する。スマホを持つ手が震えていた。低音で響いていた耳鳴りが、めまいとともに唸りをあげる。ぴたりと足が止まった。強烈な不快感に耐えきれず、その場でうずくまった。
乖離していたはずが、すでに支配されていた。渇望と懇願が入り交じり、心の咆哮は同調する。煌希は欲した。浮かびあがりたい、と。
全身が弛緩する。すべての不調が一気に吹き飛び、胸に喜びが満ち溢れる。多幸感に包まれたのは、浮力が発動した証拠だった。手足を投げ出し、宙で仰向けになる。呼吸を荒らげ、ただ浮遊するに身を任せた。
ぼんやりと思い出す。劇的変化は見られない。三分十五秒だった。脳内に酸素が行き渡り、しだいに明瞭となってくる。煌希はゆっくりと思考を巡らせた。
少しずつではあるがタイムは伸びている。それだけが一縷の望みだった。浮力抑制限界時間はいまのところ、三分間だ。
発現の原因は不明だが、この浮力の正体を暴きつつあった。妖怪というのは比喩だ。映画や小説のその通説とは違う。念動力といわれる超能力を用いて、自身の肉体を宙に持ち上げ、浮かせるものとは別物ということだ。浮力を使用することに、体力も気力も消費しない。その証拠として、浮き続けるという行為自体に疲労はまったく生じない。無意識下の睡眠時も浮遊したままだからだ。
宙に浮かび続けるのを好む、地に降り立つのを拒否した肉体の誕生。海中のクラゲと同義、生きた浮遊体だ。これをあえて超能力や異能力と分類するならば、浮揚状態がデフォルトである、常時発動型の空中浮遊能力ということになるのだろう。
上体を起こし、足を組む。煌希は宙であぐらをかいた。腕を組み、わずかに上昇する。空間に身を漂わせ、うーん、と唸った。
壁時計を眺める。短針が正午、十二時を指した。避けたい現実だけに焦りが生じる。
由々しき事態が目の前に立ちはだかる。頭を悩ますのは、なにも浮力のことばかりではない。
ダイニングに移り、煌希は冷蔵庫のなかをそっとのぞきこんだ。上から下まで、なにも置かれていない半透明の棚が見える。綺麗さっぱり、すっからかんのようだ。そっと扉を閉じる。キッチンシンク下の収納扉を開け、米びつのなかも確かめる。一粒の欠片さえも存在しない、無の谷底がそこに広がる。
すべて把握していた事実だった。ひょっとしたら、いつのまにか増えているかもと、ありもしない妄想にすがっていたのだ。
米びつの横に積まれた、四つのカップラーメンのひとつを取りあげる。朝食の冷凍ピザ一枚が、冷蔵庫内にある最後の食料だった。残るはドアポケットにある、いくつかの調味料だけになる。
ヤカンに水を入れ、ガスコンロ前にふわりと移動し、湯を沸かし始める。再びあぐらをかいて腕を組み、静かに宙にたたずんだ。
唸る声が自然と強くなる。カップラーメンの残りは、あと三食。このさい朝食は抜く。どう凌いでも明日が限界か。
事は深刻で急を要する。食料が底を突きかけているのだ。
引き籠もり生活に突入した現在、食料の補充にはどう対処すべきなのか。考えられる選択肢はふたつあった。ひとつめは、人目を忍んで買い出しを決行すること。ふたつめは、ネットスーパーに頼ることだ。
リスクを考慮すれば、言わずもがな、後者の一点に絞られる。だが安心はできない。そこにもまだ不安要素は潜んでいる。配達員の存在だ。玄関に降り立ち、浮上することなく地に足をつけ続け、商品の受け取りに応じなければならないのだ。
そんなことは可能なのか。自分自身に問いただしてみる。
煌希は何度か小さくうなずいたあと、ややためらいながら首を傾げた。限界時間は三分間だ。いけなくはないが、万が一ということもある。ハイリスクハイリターンの命懸けの博打だ。
頭を垂れて、またしても唸る。焦燥という強風に背後から煽られていた。失敗は許されないだけに、決断しかねる。優柔不断な歯がゆさが、全身を小刻みに揺らす。壁時計の針が進んでいくのを見れば見るほど、いまにも玄関を飛び出し、行きつけのスーパーマーケットに直行したくなる衝動に駆られる。
そうこうしているうちに、甲高い音を響かせ、ヤカンが鳴った。コンロの火を止め、ヤカンを手にダイニングテーブルの上に移る。カップラーメンに湯を注ぎ、じっと三分間が経過するのを待った。
眼下のテーブルを眺めていると、卓上の宙で食事を摂ろうとしている自分にふと気づく。三日前なら想像もつかない、マナー違反ともいえる非常識かつ非日常的な行為だ。
いらいらと頭に血がのぼってくる。好きで宙に浮いているわけではない。椅子に座り、テーブルにつくという自由が奪われた。この怒りはいったい誰に向ければいいのだろう。
壁時計に目を向けても、何分に湯を注いだのか記憶が吹っ飛んでいた。スマホのタイマーアプリも起動すらしていない。カップの蓋を取り払い、もう何分でもいいやと思いながら、箸を突っ込み、ぐるぐるとかき混ぜる。
いただきます、そうつぶやき、箸をいったんカップの上に置く。少しばかり宙を後退し、煌希はテーブルにおさまった椅子を引いた。椅子の座面めがけて降下をする。尻が座面に触れた。煌希は怫然と椅子に座り込んだ。
冗談じゃない。自分は普通の人間だ。いままで通り、椅子に座ってテーブルで食事をしてやる。
箸を掴み、カップラーメンを手にする。問題はない。限界時間まで三分もある。ふうふうと息を吹きかけ、麺をすする。熱さを和らげる、冷ます工程が加わるため、思ったよりも箸が進まない。醤油味だが、醤油の味がしなかった。というより、味がわからない。味覚に気をまわせなかった。浮力制御と早食いの同時進行。三分間で完食するのは、ぜんぜん余裕ではないことが早急に判明した。
しかし次の瞬間、急激な疲労感が背筋を這いあがった。カップのなかに麺を少し吐き出し、むせ返る。ばかな、と煌希は愕然と思った。約束が違う。まだ三十秒も経っていないはずだ。
うろたえながらも、また箸で麺をつまみあげ、ラーメンを食べ進める。味がしないことなど、もはやどうでもよかった。なんとしてもテーブルにて完食をするのだ。麺を大量につまみあげる。深呼吸をし、盛大な息を繰り返し吹きかけた。急冷されたであろう麺の塊を大きく口に頬張る。咀嚼をほぼしない勢いで飲み込もうとしたその瞬間だった。
黒板を爪で引っかいたような金切り声の絶叫が、鼓膜を内側からつんざいた。煌希は目を剥き、口に含んだ麺をテーブルへと盛大に吐き出し、ぶちまけた。
心臓の鼓動が爆音を立てるなか、なにが起こったのか理解するのにしばし時間を要する。テーブル一面に散乱した麺をただ呆然と眺めた。己の肉体が椅子に留まるのを諦め、宙へと浮きあがっていくのを肌で感じる。
いまのは現実に生じた声ではない。脳内における精神世界、煌希の内面に反響した発声だった。拭いきれない拒絶感が全身に渦巻く。自我とは別の感情が拮抗している。これは、癇癪持ちさながらの、本能のヒステリーだ。地に留まる以上に、そこまで椅子に座るのを許せないのか。
意気消沈にがっくりと肩を落とす。キッチンシンクから持ってきた布巾を片手に、テーブルにぶちまけた麺を仕方なく片付け始めると、視界が勝手に揺らぎだした。
本能へと語りかける。酷い。酷すぎる。ちくしょう、とテーブルを拭きながらつぶやいた自分の声が、涙声だった。
テーブル上の宙で、一割にも満たない残りのラーメンをおとなしくすする。もう麺の一本すらも、食料を無駄にはできない。一瞬でつまむ麺がなくなった。完食した。容器の底で残りのスープが最後の選択を待っている。今後の生活を思うと、自ずと答えは出た。残さず、すべて喰らい尽くす。煌希はスープを飲み干し、空になった容器をゴミ箱に放り投げた。
満たされぬ空腹に、またしても腹が立ってくる。と、その感情とは裏腹に、いまになってようやくわかったような気がしてくる。腹の虫の抗議を抑え、煌希はぐっと怒りを堪えた。
本能の拒絶反応に背く行為だった。むろん、それに見合う代償は払わねばならない。それがこの不本意な疲労感と不調なのだろう。
深く長いため息をつく。ひとりつぶやきが漏れた。「これからどうすんだよ。マジで……」
空腹を紛らわすため洋室を漂ううち、明日の夕食分で残りのカップラーメンがなくなり、調味料であるマヨネーズとケチャップから栄養補給をしなくてはならない最悪の事態が脳裏に急浮上した。とてつもない危機感と究極の選択が、眼前に立ちはだかる。
深呼吸を繰り返し、心を落ち着かせる。フローリングに足を向け、煌希は降下を開始した。ひんやりとした感触とともに、床に両足がつく。渇望には耳を貸さない。自分は地上人だという強靱な気持ちを維持する。ふんと息巻き、煌希はフローリングの上で仁王立ちをした。
三日間の鬱屈した長考の果て、導き出される答えはいつも同じだった。浮上欲求を抑制し、地に留まることができなければ、人との接触、外出はおろか、会社への出勤はまず不可能。
一択だった。やるしかない。
煌希は歩き出した。歩行動作に意識を集中する。同時に起動していた、スマホのストップウォッチの経過時間を眺めた。数十秒の時間が流れ、そして一分が経過した。
右足を持ち上げ、一歩前に出す。左足を持ち上げ、さらに一歩前へ出す。しばらく洋室をぐるぐると回ったのち、和室に移り周回を続行した。
全身に汗がじわりと滲み出す。徐々に耳鳴りが大きくなり、頭痛が引き起こされる。顔をしかめ、それでも前進した。めまいでふらつき、倒れそうになる。吐き気も襲ってきた。鈍重な疲労感で足取りが緩慢になる。足裏に鉄の塊でもついているようだった。ストップウォッチを見やる。浮上欲求に抗う精神力を振り絞り、最後の一歩を踏み出した。
宙に浮きあがり、ぐったりと仰向けになった。タイムは三分二十三秒だった。絶望感と憤慨が混ざり合い、虚空にひたすら視線が漂う。
孤立無援。早くも人生の崖っぷちに立たされた。そう思うと、自嘲の笑いがふっと鼻から漏れた。朦朧としてくる意識のなか、まぶたが自然と落ちる。
だが煌希は、やがて目を開け、虚空を睨みつけた。いや違う。どうせ背水の陣ならば、もっと勇ましく孤高と掲げ、足掻くべきだ。
孤軍奮闘。いまの僕にはそんな言葉がよく似合う。




