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07 克己

 医療技術の飛躍した進歩と豊かな食生活により、人の平均寿命は右肩上がりに伸び続けている。八十年以上にも及ぶ長い人生だ、摩訶不思議な現象や不可解な出来事に遭遇することもときにはあるのだろう。

 だがこれは、あまりにも常軌を逸している。想像の範疇を凌駕していて、思考がいっこうに追いついてこない。

 上之煌希は、頭上を見上げた。視界一面に白い壁紙が広がっている。視線を正面に向けてみる。祝儀敷きの六畳間に、白いシーツの敷き布団が敷かれている。その傍らには、タオルケットが投げ出されていた。

 自宅アパートの和室に間違いない。顔の真横には見慣れた和風ペンダントライトが、前方へ向かってぶら下がっていた。天地逆転の錯覚に見舞われる。背中に天井の板が触れ、みしりと軋む音が鈍く響く。

 いや、錯覚などではなかった。これは現実だ。煌希の肉体が床を離れ、宙に浮きあがっている事実に、もはや疑いの余地はなかった。

 動悸が激しく、脈拍が耳のなかで唸りをあげる。呼吸が乱れ、酸欠のようにとてつもなく息苦しい。手足の震えもいまだ止まらないありさま。だが体内の奥底には、えもいわれぬ解放感が漂う。どうしてこうなったのか。原因などわかるはずもなく、頭が錯乱を引き起こしていた。

 表情筋がぴくぴくと痙攣し、引きつり笑いが自然と漏れる。煌希は首を横に振って否定してみせた。やはりこれは夢だ。人間が宙に浮くなんてあるはずがない。

 自分の頬をつねってみる。痺れるような痛覚が伝わった。きつい冗談はやめてくれと思いつつ、頬を平手打ちしてみる。笑えるほど痛かった。

 額と首筋に発汗を覚える。瞬く間に冷や汗が雫となり、ぽたりと畳床へ落下した。

 泥沼のようにどんよりと濁りゆく思考のなか、もうひとりの自分が制してくる。とりあえず下に降りて、いったん落ち着こう。なにもそんなに慌てることはない。地に足をつけて一歩ずつ確実に。人はそうやって生きるものだ。じっくりと時間をかけて検証すれば、このイリュージョンのトリックも、きっと見破れるに違いない。

 ひとりうなずきながら、煌希は天井から離れた。人が階段を下りるのと同様に、宙を降りるイメージを強く抱く。誰かから操作法を教えられたわけではなかった。そうするのがごく自然であると、昔から知っていたような気がする。体内の浮力を操作し、下降へと転じる。すると身体が畳へと近づいていった。

 メーターの針をゼロに持っていくイメージで、浮力を意識的に抑え込み、完全に停止させる。そう思念を巡らせる。足裏が畳の上をぴたりと踏みしめた。息を潜め、しばし様子を窺う。

 再浮上しないかびくつきながら、足と畳が密着しているのをじっと眺める。悪夢は消え去ったのか。半信半疑ながらも、部屋中をゆっくりと見回す。しんと静まり返った、なにごともなかったかのような静寂が舞い降りる。

 ごくりと唾を飲み込む。身構えていただけに、肩透かしを食らったような気分になる。

 天井を仰ぎ、深呼吸をする。頭の整理ができていない。動悸もまだおさまってはいなかった。焦ることはない、と自分に言い聞かせる。いずれにしても、ここは冷たい水でも飲んで、ほっとひと息つこうではないか。煌希はそううなずくと、ダイニングルームへと歩き出した。

 一歩二歩と両足を交互に前に出す。一瞬ふらっとよろけたが、ぎこちない足取りであっても毅然として前へ進む。しかし、あまりのぎくしゃくさに、以前の自分がどのように歩いていたのか記憶が曖昧になり、足がもつれ、倒れかかる。ダイニングルームの冷蔵庫に間一髪でたどり着き、慌ててしがみついた。

 冷蔵庫が大仰にぐらつく。その天板に据えられた電子レンジが落ちそうなほど揺らぎ、また大慌てで押さえる。それでも煌希は、ポーカーフェイスを崩さぬよう平静を装い続けていた。

 冷蔵庫から天然水のペットボトルを取り出す。いつもならコップに注いで飲むところを、キャップを外し、ダイレクトに直飲みでごくごくと喉を鳴らす。ぷはっと息を漏らし、濡れた唇を手で拭う。大丈夫だ。なんら問題はない。このまま平常心を保つのだ。

 キャップを閉めようとしたそのとき、うまく閉められないことにふと気づく。キャップをペットボトルの口部に嵌められない。手が震えて始めているからだった。

 違う。動揺などしていない。手の震えを強引に抑え込み、ペットボトルのキャップを閉めてみせた。どんと力強くダイニングテーブルの上に置く。あんなありえない異常事態に遭遇したのだ。自分だけじゃない、常人なら誰だって、歩き方を忘れてしまうぐらいの衝撃を受けたはずだ。

 もう一度確かめるべく、ダイニングルームを抜け、隣りの洋室へと移る。油の切れたロボットのような奇妙な歩調で、フローリングの上をただやみくもにうろついた。右足を持ち上げ、一歩前に出す。次は左足を持ち上げ、さらに一歩前へ出す。この動作を交互に繰り返すだけの単調な二足歩行。足裏から伝わる感触に神経を研ぎ澄まし、以前の自分の歩調と歯車が噛み合い、戻っていくさまを強くイメージしつつ、練り歩いた。

 だが、なにかがおかしいと煌希は思った。額から頬へと伝う汗は、減るどころか増していくばかり。首筋から、じわり全身の毛穴へと、発汗の感覚が押し寄せてきた。

 喉の渇きにも似た、胸を掻きむしりたくなる衝動が内面に生じている。煌希はとっさに頭を抱えた。危険だ。その思考はとてつもなく危険だ。やめろ。そんなことは微塵も思っていない。

 頭の隅に追い払い、谷底へ蹴落とそうとも、それは何度でも這いあがってくる。身体の全細胞の共鳴が、狂ったような咆哮が、反響する耳のなかで揺さぶりをかける。抑えつけようとする意志をはねのけ、煌希の心は絶叫を発した。

 浮かびあがりたい、と。

 宙への浮上欲求が膨れあがり、巨大化する。解放しろ、いますぐに。抗うな、浮かびあがれ。脳内に満たされていく声に、煌希は(かぶり)を振って抵抗した。

 そのとき、尋常ではない不快感とともに、唐突な吐き気が襲いかかってきた。やばいと思い、口を押さえながら洗面台へと駆け込む。洗面器に顔をうずめると、逆流してきたものが勢いまかせに放出した。

 喉に焼きつく胃液の酸味に激しく咳き込み、肩で息をしながら顔をあげる。すると次の瞬間、急なめまいにくらっとふらついた。洗面台に手をつき、身体を支える。

 なんなんだこれは。煌希は思わずうろたえた。げっそりと痩せ細るような疲弊感が、足もとから背筋へと這いあがり、視界を霞ませていった。

 がくがくと膝が笑い、全身がぐらつく。封印した浮力が漏れ出しているに違いない。両脚にかかる体重の負荷が徐々に減少していくのがわかる。

 我慢しようと奥歯を噛み締めても抗いきれない。欲求が殻を押し上げ、ヒビを入れる。頑強な力で突き破り、表層に姿を現す。意思とは無関係に、いや、むしろそれは、故意的に体内から解放されたのだった。

 重力に逆らい、ふわりと両足が床を離れる。その光景が洗面台の鏡に映しだされていた。

 まるで毛髪一本一本に生命が宿るように、頭髪がゆっくりと舞いあがり逆立ち始める。禍々しく、神々しくも思えた。十センチほどの上昇のあと静止し、宙に身を漂わす。空の色を含有した碧眼の青年は、微細な揺らぎを全身に纏い、恍惚とした表情を浮かべていた。

 時間の流れが緩慢になる。鏡に映る自分の姿を傍観していた煌希は、朦朧とする意識のなかで既視感を覚えた。魔物感が半端ない。幼少期にアニメで観た敵キャラに酷似している。これは、妖怪・浮かびあがりだ。

 ふっと鼻で笑った瞬間、ぞっと全身が総毛立つ。意識が現実に戻り、すぐさま洗面台から後ずさった。宙を滑り、ダイニングへと離れ、いま抱いたおぞましい感情に蓋をする。

 浮力を消そうと躍起になった。脳内のメーターイメージの針を、一気にゼロへと降下させる。が、それ以上の頑強な力が押し戻し、もとの位置へと針を上昇させていく。疲労がまだ回復していない、まだ宙に浮かび続けていたい、と陶酔感に浸りきる本能が、煌希の意志を強引にねじ曲げた。

 為す術もなく屈伏する。手足を投げ出して、宙で大の字に横たわった。重いまぶたがゆっくりと閉じていく。

 拒絶し、平穏に戻りたいと思う反面、体内を満たす浮力という解放感の快楽に、心までもが支配されていくようだった。当てもなく宙を漂う。脱力しきった身を、ただ心の赴くまま浮遊するにまかせる。

 時間の感覚などあるはずもなかった。安眠に等しい陶酔境のなか、やがて誰かの存在を身近に感じた。もしも将来……、と切り出す女性の声が聞こえてくる。

 煌希はおもむろに目を開いた。それが幻聴だとすぐに気づいた。洋室の宙に漂っていた。言わずもがな、この部屋には自分しかいない。

 窓から差し込む斜光が室内を照らしている。すでに窓際に浮遊していた煌希は、仰向けの状態でちらりと視線を動かした。レースカーテン越しに上空が透けて見える。さしてなんの感情も湧かず、再びまぶたが自然と閉じる。

 急にざわめきが胸に渦巻きだす。なにかが心に引っかかった。無意識にも上体が起きあがる。煌希は宙で立ち上がると、少しばかり下降したのち、窓に正面から向き直った。おずおずと触れ、だが力強く、両開きにレースカーテンを開け放った。

 空を仰ぐ。その光景を見たとたん、たちまちに目を奪われた。昨日までの曇天から一変、突き抜けるような清々しい青空が広がっていた。雨雲の姿はどこにもない。小さなわた雲がちらほらと浮かんでいるだけだった。梅雨らしからぬ見事な晴天。母が誇らしげに語っていた夏至の空が、そこに存在していた。

 目を大きく見開き、本日の重要事項に気づく。今日は二十六日の夏至。自分の誕生日だ。

ついに成人を迎えた。記念すべき二十歳になったのだ。

 もしも将来……、とまた語りかけてくる女性の声に驚き、はっとして後ろを振り返る。

 誰もいない。誰もいないが、そこには見紛うことなき幻影が浮かびあがっていた。鈍器で頭を殴られたような衝撃ともに、脳裏に閃光が走る。忘却の彼方にあった遠い記憶が瞬時に息を吹き返した。

 幼児期の煌希が、温かい膝枕で頭を撫でられている。横にしていた顔を上に向け、母の顔を見上げる。人差し指をそっと唇に縦に当て、上之由佳(ゆか)は冗談めかして柔らかく笑みをこぼした。

 ふわっと全身が軽くなって、鳥のように大空を飛べるようになっても、そのことは決して誰にもしゃべっちゃだめよ。これは秘密ね。ふたりだけの秘密。

 そう告げた彼女の残像が、泡のように脳裏から消える。驚愕のあまり、口がぽかんと開く。そこから魂が離脱するかのごとく、意識が肉体を離れ、空間を茫然と漂う。

 秘密。他言無用な極秘事項。とんでもない謎をひとつ残して、彼女は天国に旅立ってしまった。

 窓際から自然と離れ、身体がゆっくりと宙を滑り出す。拒絶しても抗えない。意思と重力を無視する望まぬ反重力が、肉体を天井へと上昇させた。

 首筋から顎へと伝う冷や汗がぽたぽたと、フローリングへと落下する非日常が展開されている。天井の板を背に、煌希はひとり首を横に振った。

 いや違う、これは夢なんだ。苦笑とも引きつり笑いともつかない笑いを浮かべてみせる。

 はは……。冗談がきつすぎて、なにひとつおもしろくない。

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