06 紅潮 M
すべてが混沌に飲み込まれていく。悪夢を回避する術はない。安息の日々はすでに忘却の彼方だ。
待って、捨てないで。両親の背中が遠ざかる。いつもうなされる光景だった。
近衛真妃は白昼夢から目覚めた。キーボードに這わせた指が、びくっと我に返る。
通路側から室内が一望できるガラス張りの一室。真妃は辺りを一瞥した。壁際に数十台の解析機器が整然と並ぶ。空間を埋め尽くすのは、絶えることを知らない彼らの唸り声、微少な解析音の集団だった。
真妃はその一角にあるデスクにおさまっていた。朦朧とした意識が回復しつつある。ぼやけた視界がしだいに明瞭さを取り戻していく。眼前のPC画面を埋め尽くす文字の羅列が見えた。さまざまな生物名が無数に織り混ざる。ため息をつき、それを眺めた。今後の方針にも直結しうる、研究材料の候補たちだった。
総称は、アンノウン。日本のみならず、世界中から極秘に情報収集された未確認および希少生物たちの存在。UMA、妖怪、悪魔、超能力者、と呼び名は様々であるが、そのなかから最も有用なアンノウンを選定し、住処、居所を特定する。そして、自ら捕獲に乗り出す。真妃自身が望んだ仕事のひとつでもあった。
じれったさが身中を突く。真妃は爪を噛んだ。おもしろくない、そう思った。
謎は、その肉塊にメスを突き立てることから解明の幕が上がる。憤然と椅子の背に身を預けた。
幼少のころからこの組織に身を投じてきた。あらゆる生物の腹を切り裂き、まさぐり、むさぼった。むろん工学にも精通している。真妃のことを狂科学者と呼ぶものもいる。
表向きは遺伝子研究所となっているが、実態は全世界に拠点を持ち、法網をすり抜ける非公開科学研究組織。好奇心と欲望を解放するにはうってつけの舞台だった。
だがしかし、それでもまだ足りない。飽和を超え、全身が破裂爆発を起こすほどの知的興奮に身を沈めたい。
ふと靴音が聞こえた。自動ドアが開いたことに気づかなかった。真妃はそれをちらと見やった。
痩身で背の高い男が、白衣の裾を揺らしながら近づいてくる。細面で鼻が高い、いかにもなハーフ顔。黒の地毛のくせに金髪に染めているところが憎たらしい。真妃よりも四つ上の二十八歳で、実際に日本とアメリカのハーフだった。
「やあ」飄々とした雰囲気を纏った城本一閃が言った。
真妃は城本と視線を合わせることもなく、無言でPC画面を見続けた。
「スマイルと返事が欲しいところかな」城本は皮肉めかしたようにつぶやくと、白衣のポケットに手を突っ込んだ。小箱を取り出し、真妃の手もとに置く。「はい、これ。今月分ね」
透明なプラケースに無針注射器の薬剤カートリッジがぎっしりとおさまっている。真妃はそれを左手の甲でデスクの端に押しやりながら、ぶっきらぼうに応えた。「どうも」
城本は不満げに肩をすくめると、真妃のPC画面をのぞきこんだ。「及第点にも満たない。腰を浮かすにも至らない。めぼしい対象が見つからないようだね。やり尽くした感が身体から滲み出てるよ」
いちいち気に障る男だった。真妃は無言で奥歯を噛んだ。
「まあ、慌てずゆっくりいこうよ」城本が真妃の耳もとでささやく。「そのうちまた突飛したのが現れるさ。総本部だって馬鹿じゃない。日本の狭さをよく理解してる」
真妃の胸中に苛立たしさが蔓延した。組織の中枢であるアメリカ総本部。真妃もいずれその中核となるのだろうが、それはいまではない。この日本支部で更なる功績をあげる必要がある。
「そんなこと」真妃は睨むように城本を見据え、再び目を逸らした。「わかってる」
「ほんとにわかってるのかなぁ。また暴走しそうで気が気でないよ」
「なに暴走って。そんなのしたことないわよ」
真妃はマウスを滑らせた。リストを淡々と流していく。報告にあがった情報に、目が留まるものなどない。幾度もループしたからだった。
「クスリはもらった」真妃は傍らにたたずむ城本に言った。冷めた気分が深みを増す。「まだなにか用?」
「そんな冷たい言い方、酷いな」城本が突然すり寄り、真妃の左手に自分の右手をそっと重ねた。「本当は僕のことが好きなくせに」
「なによこの手は」真妃は城本の手を振り払い、怒鳴った。「触らないで!」
城本がすくみあがるように慌てた。真妃をなだめるように手のひらを向け制してくる。「わかった、悪かったよ」
憤怒が噴きあがる。呼吸を荒らげるなかで、おぞましくも真妃は思った。この男は好意を抱いている。それも一方的な。常に真妃の肉体を狙い、その行為にありつこうと機会を窺っているのだ。快楽だけを求め続ける猿も同然に。
「今日は退散するよ」顔面をこわばらせた城本が踵を返し、自動ドアへ向かった。そしてわずかに距離が開くと、あっけらかんとした口調で捨て台詞を吐いた。「だけど、薬だけは切らさないでおくれよ。あれは、僕の好みじゃないからね」
自動ドアを抜け去った城本の背に、真妃は舌打ちをぶつけた。この糞野郎が。
溢れ出る嫌悪を押し殺し、天井を仰ぐ。目を閉じ、ゆっくりと深呼吸を繰り返した。
解析機器のさえずりが血流の高鳴りを鎮めていく。冷静を欠くなんて私らしくもない、真妃はそう自分に言い聞かせた。
血圧の低下を鼓動で感じる。まぶたの闇のなか、残光の明滅とともになにかが浮かびあがった。意識をそれに集中する。両親の後ろ姿だった。真妃は目を見開き、頭を振った。もう顔すらも思いだせない。写真とともに記憶からかなぐり捨てた。それなのに、去りし姿だけが想起される。いつもそうだ。
真妃はマウスに手を伸ばした。仕事に没頭し、雑念を頭から追い払おうと躍起になった。
新着のリストを開く。さしてメスを入れるに堪えない生物名ばかりが延々と連なっている。嘆息が自然と漏れる。
そのときふと、マウスを握る右腕に意識が向いた。はっとして視線を移す。肌が薄紅がかった乳白色に変わりつつあった。すぐさま卓上の手鏡を掴み、のぞきこむ。変色した自分の瞳が見返してくる。
慄然と目を背け、真妃はデスクの引き出しを開けた。小型拳銃に似た、無針注射器を取りあげる。プラケースからカートリッジをひとつ抜き取り、震える手で装填する。外界で生きていくためには必要なことだ、いつも儀式のようにそうつぶやいていた。無針注射器を首筋に当て、スイッチを押す。微少な発射音と衝撃が首を通り抜けた。
力なく無針注射器をデスク上に放り投げ、真妃は椅子の背にもたれかかった。こんな身体じゃなければ、両親も私を見捨てなかったに違いない。哀感が激しく胸を痛めつけてくる。薬剤が体内を巡るとき、脆い自分が目を覚ます。哀しみには耐えられない。ゆっくりとまぶたを閉じた。
夢と現実の狭間を行き来している。そんなふわふわとした感覚だった。
どのくらいの時間が過ぎたのか判然としない。解析機器の電子音が耳に届いた。急速に意識が浮上していく。真妃はぼんやりと目を覚ました。
デスクの置き時計に視線を移す。記憶と照合し、三十分の経過を知った。両腕を見つめる。健常な肌の色が戻っていた。
しばし身体を落ち着かせてから、真妃は室内の自動ドアを抜けた。問題はない。強い自分をひしと感じる。研究所の長い廊下を毅然として歩く。左右のガラス張りの部屋からは、多様な研究風景が顔をのぞかせていた。
いつものように歩の数だけ、陰鬱が募っていく。傍らを通り過ぎる男性研究員たちは、一様に真妃を振り返り、恍惚の表情を浮かべた。真妃はそのたびに心のなかで悪態をついた。この猿どもが。
エレベーターに乗り込み、最上階のボタンを押す。鈍い重力を発し、ひとりを乗せた金属の籠が動き出した。
苛立ちがぶり返してくる。うとましい奴らばかりだった。城本を筆頭に、すべての男が腹立たしい。
エレベーターを終え、屋上に足を踏み入れた。初夏の日差しが降り注いでいた。屋上の床には草花が道をつくるように配置されている。閑静な公園をイメージして構成されており、研究員らの憩いの場になっていた。
真妃は花に縁取られた道を通り、屋上の中央まで足を進めた。
上空を仰ぎ見る。積雲が成長発達したのだろう、雄大積雲とおぼしき雲が見てとれる。梅雨が明ければ積乱雲へと変貌し、傍若無人に雷雨を撒き散らしていくのだ。
空を眺めるのは嫌いではなかった。太陽光より大気中で拡散された青の波長が、上空に満ちて空の青さをつくる。理屈はそうであっても、現実はその事実を圧倒する魅力がある。
空をじっと眺め続ける。まだ無邪気だった幼年期に、よく夢想したものだった。天空から私のもとに天使が舞い降りる。それは可愛い男児だった。
ふっと真妃は口もとを緩ませた。暗く沈んだ胸のうちを柔らかな光芒が照らしだす。
空想の真妃は、天使を家に連れて帰った。強固に施錠し、ふたりきりになる。真妃は、天使の羽をもぎ取った。
毎晩、添い寝をして本を読んで聞かせた。飛べなくなった天使を抱きしめ、将来の夢を語った。真妃は彼の耳もとで優しくささやいた。私はどこへも行かないよ。ずっと、ずっといっしょだから。他愛もない子供のころの夢だった。
感情から穏やかさが唐突に途絶えた。素に戻った自分の顔を悟る。冷気にも似た焦燥が肌を撫でていく。全力で駆け出し、屋上から身を投げ出したい衝動に駆られる。
真妃は歯を食いしばり、拳を握った。いまは待つしかない。じっと耐えるしかない。
辺りを見回す。ひと気はない。静寂が奏でる高音域の波動だけが静かに舞い降りてくる。
上空に手を伸ばし、真妃は願った。いまこそ究極の研究生物を、我が手に。




