表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/23

05 古今

 それは、そのう……。母は口をつぐんだ。伏し目がちになり言葉を濁す。沈黙が痛烈に心を刺した。だからもう訊くのをやめた。それ以来、父に関する話題にはいっさい触れていない。

 母は温和でいつも笑顔を絶やさない女性だった。冷やかされて泣いて帰る幼い煌希を、変わらぬ愛情で抱きしめ、優しく包んでくれた。

 母ひとり子ひとりの母子家庭であり、決して裕福とは言えなかった生活。母はパートをいくつも掛け持ち、汗水流して働き続けた。彼女の帰宅はいつも夜遅くだったが、その寂しさには子供ながらも免疫がついていた。寝床で聞かせてくれる話が楽しみで、毎晩胸を躍らせていた。空に浮かぶ雲のことから始まり、夜空に輝く星座へと発展する。母の登山の体験談も大好きだった。

 母の容姿はいつも若々しく、周囲の注目を常に集めていた。中学二年のときの授業参観の日、仕事が忙しく、来るはずのない母の姿がそこにあった。教室はにわかに騒然とした。彼女の童顔が、さらに災いを助長させたともいえる。その日の昼休み、クラス中の男子女子に詰め寄られ、嘲笑を浴びた。姉妹だ、姉妹。母親じゃなくて姉ちゃんが来た、妹の授業参観に。

 僕は男だ。それに姉じゃなくて母だけど。そう言っても誰も母だとは信じず、鼻で笑い飛ばすばかりだった。

 母は沈痛な面持ちで言った。ごめんね煌希、わたしにそっくりで。煌希は返す言葉が見つからなかった。別にいいよ、僕はもう気にしないから。そう答えた。

 高校の二年間が過ぎ、煌希が三年に進級したばかりのころ、その母が倒れた。医師は怪訝と首を傾げた。原因は不明だった。

 その後、一時的に退院するも徐々に身体が衰弱し、入退院を繰り返した。生活が困窮するのは火を見るより明らかだった。

 煌希は母を支えるため、大学進学を断念、就職の道を選んだ。もちろん母は難色を示したが、迷いなどなかった。数年先の将来よりも、いま目の前にある危機を乗り越えることのほうが遥かに先決だった。

 就職活動中、さいたま市岩槻区内にある金属加工会社の新卒社員募集の知らせがあった。自宅アパートから自転車で十五分の距離に位置し、できる限り近場という希望に充分当てはまった。

 荻山精機株式会社、就職先は内定した。自責の念をのぞかせながらも、母はうなずいてくれた。

 しかし、煌希が高校を卒業し、工場勤務を始めて二ヶ月後の朝、母は目を覚まさなかった。穏やかな顔で、微笑んでいるようにさえ見えた。眠りながらの他界。それはある意味、幸せな死に方だったのかもしれない。

 祖母も母が若いころに病気でこの世を去っており、煌希はひとりアパートに残されるかたちになった。しばし放心状態に陥る。なぜ、どうして。ただそればかりが反復する。

 心にぽっかりと開いた風穴は、時間がゆっくりと埋めてくれた。あのときの絶望感は薄らいでいる。

 今日は六月二十一日。二十四節気の第十、その名も夏至。青空の象徴、本格的な夏が始まる素晴らしき日であり、煌希の誕生日だ。

 ついに成人を迎えた。念願の二十歳になったのだ。今日を境に世界が変わる。希望が満ち溢れている。

 煌希は玄関のドアノブを回し、扉を開け放った。梅雨時期とは思えない、澄み渡る大空が見えた。

 ふと、温かく懐かしい香りが流れ込んでくる。心が安らぐにおいだった。

 煌希は後ろを振り返った。華奢な身体つき、小柄な女性が小さく手を振っている。

 子猫のような愛くるしい目鼻立ちの母、由佳(ゆか)が微笑んだ。その声がはっきりと聞こえる。

 いってらっしゃい。

 煌希も笑みを返した。元気いっぱいに応じてみせる。

「いってきます!」

 自分の声に驚き、びくっと身体が反応を示す。なんだ寝言か、煌希はまどろむ意識のなかでそう思った。

 重いまぶたをうっすらと開ける。なにも変わらない、ひっそりと静まり返った、ひとり暮らしの雑然とした室内が視界に広がる。

 そう、いつもの光景。そのはずだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ