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 二十歳の誕生日を迎えたその日、生まれて初めて経験する強烈な吐き気に見舞われた。何日経っても吐き気はおさまらない。友人がわたしの背中をさすりながら、こうつぶやいた。これって、つわりじゃないの?

 産婦人科の医師は、おめでとうございます、笑顔でそう言った。わたしのもとに突如舞い降りた現実。女性なら誰もが望むであろう生命の宿し、妊娠だった。

 その瞬間、恐怖におののいた。頭のなかが真っ白になる。身に覚えがない。包み隠さず言うならば、わたしは男女経験のない純潔の処女だった。

 医師にその事実を伝えるべきか、と考えたとき、全身が硬直した。それはなぜか。わたしの母も、わたしに同じことを告げていたからだ。

 母は言った。あなたに父親はいない。別に、離婚したわけでも、ゆきずりでもない。わたしは、性交渉の経験がまったくないの。それでも、あなたを身籠もった。

 母は微笑んだ。人差し指をそっと唇に縦に当て、これは秘密ね、ふたりだけの秘密。鏡を見ると母と錯覚するような、自分にそっくりな母がそう言った。

 世に知れ渡れば、お腹の子ともども無事で済む保証はない。わたしは誰にも漏らさず、このことを胸に秘めた。

 処女懐胎。それは、男女の交わりなしに子を宿すこと。

 イエス・キリストを産んだ聖母マリアは、処女懐胎だったと聖書に記されている。わたしはクリスチャンではなかったが、好奇心に掻き立てられ、ひと通り目を通したことがある。おぼろげながらも、その記述を何度も何度も思い起こした。

 この妊娠をどう解釈すべきなのか。聖書の通り、霊的な力が作用したと考えるべきなのか。それとも、母およびわたしが突然変異体(ミュータント)であると結論づけるべきなのか。

 いまの心境を相談したいと切に願った。わたしを身籠もったとき、母はどんな気持ちだったのだろう。

 母子家庭であり、女手ひとつでわたしを育ててくれた母。でも、彼女との対話はもう叶わない。母は、わたしひとりを残して天国に旅立ってしまった。

 お腹をさすりながら不安に明け暮れる日々を送った。シングルマザー。わたしも母のつくりだした環境を再現することになる。我が子とふたりきりの生活、母子家庭だ。

 月日は流れ、お腹が丸みを帯びてきた。妙に甘いものを食べたくなる。それを聞いた友人は声を弾ませた。お腹の赤ちゃん、女の子だよ。

 世間には、出産前における性別判定のジンクスというものがあるらしい。お腹が前に尖るように突き出ていたら男の子。丸みを帯びていたら女の子。肉や塩辛いものが食べたくなったら男の子。甘いものが食べたくなったら女の子。そういうものらしい。

 男女の交わりなく母が女のわたしを産み、わたしも純潔のまま女の赤ちゃんを産むことになる。

 周りは、母とわたしを一卵性双生児のようだと口を揃えた。この子もきっとわたしに似ているに違いない。そう思うとなぜか、微笑みが止まらなかった。

 妊娠五ヶ月が過ぎたころ、エコー画面を見つめる医師が振り返った。もう性別がわかりますが、いかがいたしますか?

 女の子の名前しか考えていなかったため、わたしは少しばかり驚いた。性別はなんと、男の子だった。

 そして、運命の瞬間は訪れた。分娩室で、激しい陣痛に悶え苦しんだ。遠のきかける意識のなか、泣き声が聞こえた。赤ん坊の声だ。

 わたしにとってのきらめく希望。だから、煌希こうき。わたしはそう名付けた。

 我が子、煌希を腕に抱きしめる。その重さになぜか感動し、涙を流した。

 数日後、安アパートにふたりで戻った。子守歌を聴かせながら、腕のなかの煌希を見つめる。

 わたしはそのとき、目を見張った。心臓が止まってしまうような衝撃に思わず息を呑む。

 腕に抱きしめた煌希の体重をまったく感じない。ふわりとわたしの手を離れ、一瞬宙に浮きあがったようにも思えた。

 えっ。うそ。そんなばかな。

 だが、実際には浮きあがってはいなかった。しっかりとこの腕のなかにいる。体重を失った煌希が……。

 閃光が駆け抜けるように、脳裏に母の言葉が蘇る。そうだ。母も同様のことを言っていた。母の腕に抱かれた赤ん坊のわたしが、まるで浮かびあがったかのように体重を消したことが幾度もあったと。

 はっと気づくと、腕に重みを感じた。煌希の体重がもとに戻っている。

 そのとき確信した。わたしから煌希へと、なにか得体の知れないものが受け継がれた。恐怖すら身に覚える。わたしは、煌希がどこかへ飛んでいってしまわないように、腕に強く抱きしめ続けた。

 母が残したわずかな遺産と保険金で食いつなぐ日々が続く。半年が過ぎると、その不可思議な現象も次第に影を消し、煌希が体重をなくすという恐怖は、いつしか育児という忙しさのなかに紛れ、消えていった。

 すくすくと育つ我が子の成長が嬉しい。煌希を保育園に預けられるようになると、わたしはパートに出るようになった。

 ある日ふと思い出し、押し入れから古いアルバムを引っ張りだした。自分の幼少のころの写真を眺める。きゃっきゃと無邪気な笑い声をあげて、幼い煌希が目の前で積み木で遊んでいる。わたしとうりふたつだった。男の子の格好をさせてはいるが、女の子のようでもある。複雑な心境ながらも、あまりの可愛さに微笑みがこぼれて仕方がなかった。

 煌希が五歳になったころのことだ。いってきます! と朝は元気に保育園の門をくぐっていく。夕方になり煌希を迎えにいくと、その元気はすでに消滅していて、必ず泣きながら声を詰まらせている。行きは元気、帰りは涙。いつもこのパターンだった。

 煌希は涙声でわたしに必死に訴えた。あいつらがいつもいじめるんだ。女、女って。ぼくは男の子なのに。

 わたしは優しく抱きしめながら、いつも煌希にこう言い聞かせた。大きくなったら、男らしくて男臭い、強くてかっこいい人間になれるから大丈夫よ。

 煌希がわたしを見上げて、ぽつりとつぶやく。ほんとうに?

 ほんとうよ。そう言ってはみたものの、心のなかでは、たぶん、きっと、がひたすら反響していた。

 煌希が小学生になった。あれは彼が四年生のときだったと思う。男子ならば誰もが心を躍らせるのだろう、バレンタインデーの日のことだ。帰宅した煌希が、妙に複雑な面持ちをのぞかせている。突然、ランドセルのなかをわたしに見せた。チョコレートとおぼしき、綺麗にラッピングされた小箱がいくつも詰め込まれている。

 煌希が恥ずかしそうに言った。女の子からチョコ貰っちゃった。あと、男の子からも……。

 わたしはずるっと、椅子から滑り落ちそうになった。よかったわね。みんなから好かれている証拠よ。とりあえずそう言っておいた。こちらも複雑な心境である。

 パートのシフトの都合上、授業参観になかなか出られない年が続いた。煌希が中学二年生のとき、わたしはやっとの思いで授業参観に足を運んだ。振り返る煌希に笑顔で手を振る。彼が驚きの表情で目を丸くした。参加するとは告げてなかった。サプライズのつもりだった。煌希の視線に釣られるように、全クラスメイトが一斉にわたしを振り返る。にわかに教室がざわめきだした。

 その日の夕食で、煌希が口を尖らせながらつぶやいた。その内容がこうだった。

 授業参観が終わったあとの昼休み時間、クラス中の男子女子に詰め寄られ、嘲笑を浴びたそうだ。ひとりが声高に言った。姉妹だ、姉妹。もうひとりが声を張った。母親じゃなくて姉ちゃんが来た、妹の授業参観に。教室は大爆笑に包まれた。

 姉じゃなくて母だけど、煌希がそう言っても誰も信じなかったそうだ。

 はっきりいって、わたしは嬉々として胸が躍った。三十路を過ぎたこの歳でそう言ってもらえるなんて、誰だって嬉しいに決まってる。

 煌希は膨れっ面になった。わたしはしゅんと縮こまり、煌希に謝った。ごめんね煌希、わたしにそっくりで。

 彼は優しい子だった。ばつの悪そうな顔でわたしから目を逸らし、虚空に視線を泳がせた。別にいいよ。ぼくはもう気にしないから。そう言ってくれた。

 高校に進学すると、煌希の波乱の青春が幕を開けたようだった。その惨状をわたしは毎日のように聞かされた。

 三年生の大柄な男番長に、彼氏になれと追い回された。文化部所属なのに、空手部のエースからの果たし状がしつこい。休み時間、男連中がわんさかと男子トイレにくっついてきて、下半身をのぞこうとする。数人の女子にトイレに連れ込まれ、服を脱がされそうになった。好きな男ができたと、彼氏から振られたらしいクラスメイトの女子に、恋敵として命を狙われている。若い女性教師に好きだと告白された。それを聞いたらしい男性教師が、おれの狙っている女を奪うな、勘弁してくれ、と胸のうちを告白してきた。教頭先生が養子にならないかと誘ってきた。校長先生が養女にならないかと口を滑らせてきた。それ違うやろと、ハゲ頭にツッコミを入れた。

 一年生の煌希は、その日の出来事をわたしに報告すると、がっくりと肩を落としてうなだれた。まだ半年しか経ってないのにこのありさまだ、と彼が嘆く。

 大丈夫よ。煌希は芯の強い子だもの。なんだって乗り越えられる。わたしは穏やかにそう言い聞かせた。

 ぶ厚く、雲をつくような巨大な壁が立ち塞がっても、必ずやそれを飛び越えて、幸福への道をひた走る。閉ざされた未来などない。希望はいつも煌めいている。

 そう信じてる。

 そう、信じてはいるが……。

 わたしは、うつむいた煌希を見つめた。

 本当に、本当に大丈夫だろうか。なんだか心もとない。

 顔をあげた煌希と目が合った。大丈夫かな、自信ないや、と引きつり笑いを浮かべている。わたしも釣られるように、徐々に、頬筋が引きつっていくのを覚えた。

 いま、我が息子の姿を見て確信に至る。わたしの頭に浮かびあがった言葉はただひとつ。

 ――『前途多難』

 わたしは、苦笑とも引きつり笑いともつかない笑いを浮かべた。

 はは……。もう笑ってごまかすしかない。



   『 完 』

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