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99 孤高

 入浴できます、と記された看板が、この建物の入り口の横に掲げてある。できるわけがないと知りながら、悪くない、そう思ったのが決め手のひとつだった。

 七月初旬。ひと気はなく、かつては多くの団体旅行客で賑わい、隆盛を極めていただろうこの温泉街も、いまは見る影もない。 

 閑散としたシャッター通りのなか、ひときわ目立つ建造物。いくつか見て回った他の物件は、朽ち果て方も著しく、ブラウン管テレビや洗濯機などの産業廃棄物が、入り口付近に大量に投棄されているありさまだった。だがここは違う。外壁の損傷および変色、全体的な老朽化具合がそれほど酷くない。鉄筋コンクリの十階建て、部屋数もかなりの数がある。窓ガラスも数部屋が割れている程度で、保存状態はなかなか良好といえる。正面玄関のガラスも健在だった。

 日光市鬼怒川に身を潜めてから一週間が経過していた。

 暗闇に沈む空間を、座卓の上に置いたLEDランタンの白色の光源が煌々と照らす。その廃ホテルの最上階にある一室、大量の埃を部屋の隅に払いのけた和室の宙で、上之煌希はあぐらをかいて浮かんでいた。

 むしゃむしゃと咀嚼を繰り返すと、柔らかいクッキーのような食感とともに、甘く濃厚なチーズ味が口内に広がる。指につまんでいるのは、ヤマメの塩焼きのような天然物でなはく、ブロックタイプの栄養調整食品、エネルギーフレンズだ。

 自然では味わえない人工的な甘味を、余すところなく舌の味覚で捉え、そして愉しむ。最後の四本目の咀嚼が終わりを迎えると、瞬く間に喉を滑り落ちていった。落胆にも似た感情が胸をかすめる。甘党の煌希が、うっとりと陶酔できる時間は極めて刹那的であり、そのうえ(はかな)くも尊い。あまりの名残惜しさにがっくりと肩を落としながら、アルミ包装の内袋をくしゃっと丸め、座卓の脇に置かれたゴミ箱へと放り投げた。マグボトルから水道水をあおり、ほっと吐息をつく。

 煌希は上半身を後ろに倒し、両足を投げ出して空気のベッドに寝転がった。食べてすぐ寝ると牛になるといわれているが、ほんとになったら妖怪変化だな、と内心のつぶやきに、ふっと鼻から笑いが漏れる。両手を頭の後ろで組みながら、肉体の思うがままに宙を漂った。

 ランタンに照らされ、その肌を晒された板張りの天井をぼんやりと眺める。剥がれてはいないが、黒ずみ腐りかけている部分がそこかしこにあった。ここもいずれ他の部屋と同様に、陰惨な姿に朽ち果てていくのだろう。

 そっと目を閉じる。夕食後に必ず訪れる悩ましい問題が、頭のなかを巡りだした。明日の朝食はどうするのか、そして昼食は、夕食は、という問いが、じりじりと決断を迫ってくる。

 小さく唸りながら決めあぐねているうち、昼食のおひたしの醤油味がふと蘇り、口内に残るエネルギーフレンズの甘い余韻を上書きしていった。不味くはないのだが、と微妙な味に、無意識にも首を傾げる。油で揚げて天ぷらにするか、もしくは胡麻和えなどできちんと手を加えてやればあるいは……。どうなのだろうと、また首を傾げた。調味料を揃えてまで試す価値はあるのだろうか。

 魚突きの釣果である岩魚の塩焼きばかりではなく、専門のハンドブックを片手に、食べられる野草を探し回り、ウッドストーブに載せたクッカーで茹でて食すこともある。今日の昼食がまさにそれで、山林で摘み取ったオオバコ、シャク、スベリヒユの葉をおひたしにして頂いていた。

 だが、すべての食事を採捕によって賄っているわけではなかった。米やパン、さっきのような甘味品だけでは飽き足らず、インスタントラーメン、カレーなどのレトルト食品も購入し、サバイバルな食生活の合間合間に潤いを与えていた。現代人の舌は肥えてしまっている。天然の清く芳醇な味わいを持ってしても、岩魚と野草だけでは、人の味覚はとても満足させられないのだ。

 とはいえ、なにかしらの手を打たないと、この贅沢を継続することは難しいといえた。女手ひとつで煌希を育ててきた母に遺産を残す余裕などあるはずもなく、かといって、なけなしの貯金でアウトドア用品を買い集め、逃亡生活に突入したこの現状。所持金が底を突きかけていた。

 煌希は焦燥感に煽られ、まぶたを開けて上半身を起こした。カーゴパンツのポケットから折り畳み式の財布を取り出し、中身を確かめる。再び自分の唸り声が、室内に響いた。残金は、3265円だった。記憶していたそのままの金額だ。知らぬ間に増えていたという奇跡は起きていない。

 どうしよう。本気でそう思った。

 ランタンに滑り寄り、スイッチをオフにする。ふっと室内が暗転した。乾電池代もばかにならない。節約に努めなければ。

 ふわりと窓辺に近づいた。逆さまのうさぎが餅をつく月面に、夜の薄雲がかかっている。青白い無数の瞬きをちりばめた、雲間からのぞく星空にじっと目をやる。じっと眺めてるだけだった。しばらくすると、尾を引く一筋の光が見えた。右上から光体が流れ、左下へと瞬時に消え去る。流れ星だ、とは思うものの、表情筋はぴくりとも動かない。なんの感慨も抱かず、願い事すら頭に浮かばず、ただ腹に手を当てるばかりだった。

 摂取カロリーとしては充分なのだろうが、食い足りない気分が腹の底から湧きあがってくる。胃が動き、腸が動き、消化する音と同時に空腹の音が、ぐうと鳴る。月明かりに照らされた薄闇のなかに身を置いても、心は光なき暗黒の淵へと沈み込んでいく。

 目に焼きついて離れない光景があった。この温泉街に足を踏み入れた初日、廃ホテルを物色している道すがら、古風な木造平屋建ての民家の前で、唐突に足が止まった。脇に畑があり、菜園となっている。見事なまでの真っ赤なトマトと、立派な深緑のきゅうりが実っているのが見えた。

 自分はいま、なにを考えているのか。抑制しようとしても、脳内妄想の加速の勢いに打ち負かされてしまう。久しく口にしていない新鮮な野菜。冷水にしばらく浸けてから、思いっきりかぶりつく。至高の旨さなのは保証されたも同然だ。

 虚空の一点をひたすら見つめる。深淵に広がる業火のなか、罪人が地獄から現世へ這いあがるような漆黒の欲望が、胸の奥でうずく。身体は宙に浮いている。当然、足音は皆無だ。住人が寝静まったのを見計らい侵入する。心配するな、持ち帰るのはたった数個、絶対に気づかれはしない。

 妄想の右手と現実の右手が重なり合い、同調する。虚空に現れたトマトときゅうりの枝に手を伸ばし、煌希は熟した実を存分にもぎ取った。

 体感する時間の流れがスローモーションになり、やがて停止した。はっとして我に返る。なにを考えているのだ自分は。頭を振って、邪心を振り払った。

 欲望を押しあげる上昇音がぴたりと鳴り止む。静寂に包まれた闇のなかに、煌希はひとりたたずんでいた。

 しばし瞑想にふけ、精神の高ぶりを鎮めにかかる。踏み留まれ。これ以上進むと、良心の呵責にさいなまれる日々を延々と味わうことになる。この一線を越えたら、真の犯罪者だ。

 まぶたを開け、深く長いため息を漏らす。とはいうものの、それぐらいの手段を用いないと、この現状を打破できないのは明らかだった。なにか他に手はないものか。身近で、しかも手軽に金を稼ぐ方法が。

 突然、むずむずとした感覚が、背中を猛烈に駆け回った。無い知恵を絞る作業が妨害され、中断する。我慢できない(かゆ)みが背面に広がり、煌希は背中に手を這わせ、ぼりぼりと掻きだした。

 痒みの原因に心当たりはある。この廃ホテルに身を潜めてからというもの、まだ一度も風呂に入ってはいなかった。濡れタオルで身体を拭くだけでは、蓄積する垢は満足に落としきれないらしい。

 いま思えば、ここよりも以前のほうが快適だったといえる。この一年弱で渡り歩いた山間の僻地では、野湯、または秘湯とも呼ばれる、無料で入浴可能な野天風呂があり、重宝していた。さんざん探し回った結果、この温泉街周辺の山々にはそれが存在しないことが判明した。

 だがいっぽうで、もし野湯があったとしても、それだけでは済まない決定的なデメリットがある。湯船に浸かるだけの、ただ裸体を温めるだけの簡素な混浴露天風呂。そう、身体を洗う設備、洗い場がないのだ。

 ボディーソープやシャンプーを使用して身体を洗いたい場合はどうすればいいのか。選択肢はひとつしかない。代金を支払い、ホテルや旅館の有料温泉に入ること。屋外の露天風呂もあるが、肝心なのは室内の内風呂のほうだ。その内風呂の壁際に、待望の洗い場がある。

 いままでは週に一、二回は有料温泉に通っていたが、ここに来てからというものの、懐事情から風呂を控え、入浴費をコインランドリー代に回していた。しかしそれでも、物事には限度があることを身に染みて知った。この痒みには耐えられそうもない。

 背中を掻き、首を掻き、腹周りを掻いた。髪に触れると油っぽさが指につく。体臭を確かめるべく、Tシャツの襟ぐりを引っ張り、鼻をひくつかせる。想像通りのにおいがした。

 風呂に入りたい。髪と身体の汚れを根こそぎ落としたい。心のなかで強くそう思ったそのときだった。目を見開くような衝撃とともに、脳裏に稲妻が走る。とある閃きが、ふいに浮かびあがった。

 煌希はすくっと宙で立ちあがった。そうか、その手があったのか。

 開け放たれた廃ホテルの窓から、目をすがめて照準を定める。右手の人差し指を突き出し、闇のなかに浮かびあがる建造物のシルエット、温泉ホテルの窓明かりを指差した。今宵はスペシャルな夜になりそうだ。沸き立つ気分に胸を踊らせながら、脳内にそのあらましを思い描く。

 営業中のホテルの上空からチャンスを窺い、男湯の屋外露天風呂にこっそりと舞い降りる。その後、大浴場という名の内風呂へと素知らぬ顔で入り込む。低い風呂椅子と桶、そしてシャワーに蛇口という設備。曇りぎみではあっても、壁面鏡には自分の姿がはっきりと映り込む。ボディーソープにシャンプーとリンスのポンプ式容器も、もちろん目の前に整然と並ぶ。抜かりはない、白いタオルなら持参している。

 流星に唱えずとも、我が願望は成就せり。煌希は思わず含み笑いを漏らした。心ゆくまで洗い場を拝借するとしよう。

 だが、怒濤の勢いはまだまだ止まらない。想像が加速する。自慢の妄想夢想が、猛烈にギアを上げ、爆速していく。

 一週間ぶりの入浴、しかも無料である。これを前提に、腕を組み、思考を巡らす。すると、どうせ浸かるのなら、せっかく入るのだから、と欲張る気持ちが自然と上乗せされる。好き勝手に選べるならば、豪華絢爛なほうを選択するのが人間の(さが)というものだ。

 ここら一帯の温泉旅館のなかでも最大規模を誇る、ホテルゆうや。その上空から、屋外にある露天風呂を見下ろす。

 闇夜のなか、浴槽内に設置された照明で、湯船は淡いブルーの光を放っている。幻想的にライトアップされた空中庭園。木船を模したものや丸い石造りのモダンな露天風呂が配置され、床には波紋とおぼしき枯山水かれさんすいの砂紋が施されている。屋根の下にも、また形状の異なる風呂と贅沢三昧。仰向けになって優雅にくつろげる寝湯がある反対側には、女性たちの姿がちらと見えたため、目を背け、即座に身をひるがえし、男風呂のみに全身を向けた。これならば期待できる。内風呂もゴージャスに違いない。

 心躍らせ、しめしめと準備に取りかかる。

 こんな野蛮な計画を思いつくなんて、一年前の自分ではとても考えられない。

 腹の底から背筋を伝い、全身へと力が急激にみなぎっていく。いまの僕はとてつもなく男らしく、誰も近づけないほど男臭い。煌希はにやりとほくそ笑んだ。しかも、かつてないほど、ワイルドだ。

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