33 交線 M
断絶した時間があったのは認める。だが長くはないはずだ。一瞬だけ。ほんの一瞬だけ気を失っただけだ。そう自尊心が吠える。
真妃は、重いまぶたを開けた。辺りを見回す。上空にはスーパーセルの姿はなく、オーロラもない。頭部の痛みだけが残されていた。
押さえた手のひらを見る。鮮血が付いていた。傷口を注意深く探す。額から流血しているようだった。
憔悴しきっているためか、力が入らず、立ち上がることができない。両手でもがき、なんとか上体だけを起こす。
上空に広がる厚い暗雲の隙間から、無数の白光が放射状に差し込んでいた。天と地を繋ぐように美しく輝くその光景の名は、薄明光線。天使の梯子とも呼ばれている。
静かに深呼吸を繰り返す。躍動していく心拍を強制的に抑え、冷めた目で迎えてみせる。
天使の梯子の輝きを後光のように背に受け、ヒトならざる存在が宙に浮かぶ。ゆっくりとこちらに向かっていた。
どんなに勇んでみても、やはり言葉を失う。やがて目と鼻の先ほどの距離になり、その姿に見惚れ、心を奪われる。
彼の視線が真妃を捉える。空の色を含有した青い瞳に、潤いを湛えた薄桃色の唇、視線を逸らすことさえ禁じる妖美な色気を放つ。これが魅了というものなのだろうか。眼前の宙にふわふわとたたずむ超自然的な存在に、魂までもが奪われそうになる。
離別する以前の、優しかったころの母親から聞かされた神話を思い出した。いますべてが合致する。
真妃は恍然と思った。人智を超越した天界のことだ、翼を持たぬ者もごく稀にいるのだろう。我ら人類のもとに、無翼の天使が降臨した。いや、天女と呼ぶべきか。
互いに見合う。それでも、緊張の糸は切れてはいなかった。無言の対峙が続く。
真妃の額を一瞥し、小さくため息をついた。上之煌希のまなざしが憐憫の色を帯びる。
相反する感情が駆け抜ける。この私を哀れんでいるのか。たちまちに、魅了状態が解除され、激情の彼方へ吹き飛ぶ。
奥歯を噛み締め、煌希を睨みつけた。お前のようなひよっこに、私のなにがわかる。上気した思考が猛り狂う。あまりの屈辱に言葉も出ない。
突然、煌希が真妃の顔へ右手を伸ばしてきた。なにごとかと、びくっと身を引いてしまう。胸ぐらを掴み、なぶり殺すつもりか。相手は手負いだ、真妃ならそうするだろう。
彼の指先が真妃の額にそっと触れる。触れただけだった。
真妃は呆気にとられた。冷たくもあり温かい、硬くもあり柔らかい、懐かしくもあり真新しい。明と暗、静と動、有と無、不と可。相反する不可思議なエネルギーが流れ込むのを感じる。それは痛みを奪い去り、心地良いぬくもりをもたらした。
まさかと思い、額に手を当てた。探る指先が傷跡を見つけられない。にわかには信じがたいが、いまの彼の力を持ってすればきっと……。
真妃は鼻で笑った。「気象操作に他者治癒能力か。とんでもない化物だな」
煌希が皮肉まじりに笑い返す。「化物じゃない。ただの妖怪だ」
天使の証である他者への治癒、究極の救済能力をも認めてしまったか。高笑いを必死で堪える。独占欲が爆ぜた。
真妃の口角が自然と吊り上がる。「脅しのため、ハッタリをかました。本当はライブ配信などしていない。お前の正体を知っているのはこの世で私だけだ。誰にも渡すものか」
全細胞が高温の熱を帯びる。語れば語るほど、胸の高鳴りが上昇していく。
「一生追いかけてやるぞ」真妃は言い放った。「浮かびあがり!」
煌希が目を丸くする。驚きというより、感心した表情に近い。
「レビテーターか。映画のタイトルみたいでかっこいいな」煌希が少しばかり考え込む素振りをした。
静寂が辺りを柔らかく包み込む。その姿はなによりも美しく、そしてなによりも危うい。
「今後、僕のことは」煌希は微笑とともに言った。「レビと呼んでくれ」




