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28 心地

 マキが迎えに来る約束の月曜日、その前日である日曜日になった。そう、埼玉出立ソロキャンプ計画の決行日である。

 朝一から順番に、ライフライン三社との解約手続きを済ませていった。

 煌希はそのあと、商店街にある無人ATM出張所に向かった。家賃などの最終引き落とし分だけを残し、残金をすべて銀行から引き出す。ATMを使うのは、これが人生で最後になるかもしれなかった。

 マキは個人情報を駆使して、いとも簡単にスマホをハッキングした。となれば、個人の銀行口座情報も監視している可能性がある。逃亡先でATMを使用すれば、たちまちにその場所が判明してしまう。監視をしないと明言したいまが、最後の引き出しのチャンスだった。

 市役所関係の手続きはどうすべきか一瞬迷ったが、どうせ情報はマキに筒抜けなのだ。住所変更などは自殺行為にしかならない。というより、これから失踪しようとしている者が行き先を告げるわけがないし、そもそも、移住先という概念がこの計画には存在しないのだ。

 手持ちの全財産、十八万円。これで生きていくと思うと不安になる。

 できることなら、行く先々で短時間のバイトをしよう。短時間であれば、地上歩行の休憩も少なくてごまかしが利く。

 大丈夫だ。きっとなんとかなる。煌希はポジティブ思考で強引に自分を元気づけた。

 午前十時。アパート管理会社の担当男性と退去の立ち会いをおこなった。書類に最終のサインと捺印をする。部屋の鍵を手渡すと、すべての身辺整理が終了した。

 青の半袖Tシャツにウィンドブレーカーの黒ズボン、背には大型バックパック、という出で立ち。煌希は長年住んだアパートを見上げると、深々とお辞儀をした。心を込めて、小声でつぶやく。「本当に、長年お世話になりました」

 残暑が残る九月半ばの陽気。空は晴天だった。煌希は北東への道を進んだ。人目には、これから登山に向かう青年と映っているはずである。不審に思われることはないだろう。

 離陸場所はすでに決めていた。マキと初めて遭遇した場所、例の廃工場だ。平穏が崩壊した始まりの地であるならば、終わりの地もまた同じ。

 複雑な心境だった。自分を捕獲の対象としている者はすべて敵だ。むろん、マキも敵である。だが、初めて現れた敵がマキでなかったらどうなっていただろうか。完全無防備な自分が、無慈悲に襲撃され、半殺しに遭っていたかもしれない。

 マキだったから、いまこうしていられる。マキだったから、慈悲があった。

 世界を敵に回して逃亡する決断をしたのも、マキの存在が背中を押してくれた。敵でなければ、親しくなれたかもしれない。

 それでも、どんなに悔やもうとも、彼女は捕獲者なのだ。相手の気持ちなど簡単に踏みにじって襲ってくる。捕獲者は振り払わねばならないのだ。

 はっと気づくと、傍らに廃工場の姿があった。脳内熱弁に夢中で、危うく通り過ぎるところだった。

 入り口である鉄製のスライド式門扉の前に立つと、工場正面の光景を目にしっかりと焼きつけた。時が過ぎれば、良くも悪くも思い出の地に生まれ変わるに違いない。

 煌希は通行人の切れ間を狙い、敷地内に侵入した。即座に広場を抜け、工場の裏手に回る。フェンス越しに畑が見えた。耳を澄ませながら、周囲に目を配る。人の気配はない。

 バックパックを下ろし、マウンテンパーカー、ニット帽を取り出して身に着ける。そして最後に、お気に入りのミラーレンズのスノーゴーグルを装着した。このレンズは光を反射し、外からは装着者の目が透けて見えない構造になっている。鼻と口は見えてしまうが、充分な顔隠しになっていた。三つ穴のフルフェイスマスクである目出し帽は、あまりにも強盗然としているため、処分したのだ。なにごとも見た目は大切で、格好は良いに限る。

 バックパックを背負い、胸部のチェストハーネスと腰部のウエストベルトを装着する。この場で上空へ飛び上がってもよかったが、さよなら記念に工場屋上から颯爽と離陸することにした。

 地上滞留を停止し、浮力を解放する。靴底が地面を離れ、身体がふわりと宙に浮いた。工場外壁をなぞるようにゆっくりと上へのぼる。脳裏に、夜間の初飛行が思い浮かんだ。二ヶ月前のことなのに、遥か昔のことのように懐かしく感じる。

 外壁を越え、屋上が現れた。床に舞い降り、前へ進む。特に放置物のない、殺風景で広い空間だった。

 そう、二ヶ月前と同じ光景。そのはずだった。

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