27 虚空
翌日の木曜日、午前十時。煌希は、コンビニの壁際に設置してある公衆電話の受話器を握っていた。
スマホを解約して困った問題がひとつだけあった。ネットでの情報収集ではない。携帯の本来の目的である『電話』だった。自宅は固定電話を引いていないため、近隣の商店街へ出向く必要があった。文明の利器を手放すはめになったあいつらが憎い。
――身辺整理。常識から考えれば、避けては通れない。
アパート退去の申し込みを管理会社に連絡した。退去日は、マキが迎えに来る前日の日曜日。通常は一ヶ月前の通告が必要であるが、突発的で早急な転勤という名目を押し通して、特別に許可を得たのだ。
水道、電気、ガスのライフラインの解約も続けて連絡をおこなう。電話先の受付も困り果てていたが、こちらも無理を言って押し通した。すべて、三日後の日曜日に停止する。
アパートに帰宅した煌希は、三日ぶりの強化訓練に挑んだ。重量百キロのバーベルは相変わらず手強い。天井に届くにはあと数ヶ月はかかるだろう。この重さ、この感覚を、身体に染み込ませたい。バーベルを使った訓練は、今日が最後なのだ。
金曜日になった。日曜日まで残りあと二日。その日の午前中に、二トントラックがアパートの前に止まった。トラックを降りた小太りな中年の男と大柄な若い男が、煌希の部屋のドアを叩いた。
リサイクル業者。昨日、コンビニの公衆電話を使用した際に連絡を取ったのだ。アパートを退去するので、部屋の家具および電化製品などの家財道具を買い取ってもらいたい。
中年の男は、部屋中の家財道具をひと通り見るなり、渋い顔をした。予想はしていた。どれもが古くボロボロで、カーテンは色褪せ、テーブルも一部が破損しているありさまなのだ。
煌希は男と交渉をした。可能であれば買い取って欲しいが、最悪は無料でいいから引き取ってもらいたい。粗大ゴミになったものを処分するにも費用がかかるのだ。
それでも、電化製品は千円前後の金額がついた。もちろんバーベルも買い取り可だ。残念なのは家具類だった。ほとんどが査定ゼロであり、無料引き取りとなった。
そのあと、小物から本に至るまで交渉していき、数十円から数百円という金額で買い取ってもらった。煌希の必要最小限なものだけを残して、部屋のほとんどがリサイクル業者の手に渡った。
ふたりの男によって家財道具がトラックへと運ばれるさまを、煌希は空虚な気分で見つめていた。
心のなかで母に詫びた。母とともに長年愛用した家具を処分すること。母と暮らしたアパートを退去すること。そして、生まれ育った埼玉を去ろうとしていること。
リサイクル業者のトラックが走り去るのを見送ると、煌希は宙に浮かびあがり、仰向けになった。疲労が津波のようにどっと押し寄せる。交渉とトイレでの地上歩行休憩を長時間に渡り、交互に繰り返した。よくトイレに行く客だ、頻尿か、とあのふたりも思ったに違いない。買い取り金額も、合計が一万円に届かず、がっかりだった。
家財道具が撤去され、空になった部屋を茫然と眺める。計画通りであるにも関わらず、後悔の念が湧きあがった。本当にこの部屋を去る寂しさと不安が、初めて顔を出したのだ。煌希は膝を抱えて丸くなると、少しばかりの眠りについた。
計画の前日である土曜日になった。煌希は朝早くから片付けと掃除に追われていた。
リサイクル業者が来たといっても、引き取らない物もある。特に、衣服などは半分以上が拒否され、衣装ケースに山積みに残されていた。丸首が伸びすぎているもの、パンツのゴムが伸びきっているもの、原因を挙げればきりがない。出発の身支度を兼ねて仕分けをおこなうも、バックパックに入りきらず、九割は処分となった。
分別したゴミ袋を曜日を無視してアパートのゴミ捨て場に置くと、商店街へ食料の買い出しに向かった。今日と明日の分もそうだが、旅先での数回分の簡易食を探す必要があった。自分に甘いのはよくわかっているが、初日からハードなサバイバルはしたくないのだ。
商店街に入ると、行きつけの食品スーパー、マルオツを目指した。
視界の左端に、嫌な思い出の建物がちらりと映ったのを察知し、背筋がぞっとする。煌希はそこにはいっさい目を向けず、真っ直ぐに顔を向けて歩いた。
そのとき、若い男の声が飛んできた。「よお。ロボット兄ちゃんじゃねえかよ」
煌希は脇目も振らず歩き続けた。聞こえない。なにも聞こえない。
男が声を張りあげた。「無視すんじゃねえ!」
びくりと歩行が急停止した。油の切れたロボットのようにカクカクと振り返る。
煌希は愛想笑いを取り繕った。それでも、急激に頬筋が引きつる。「ど、どうも……」
コンビニの窓ガラス前に、三人の男たちが座り込みながらたむろしている。二十代前半、骸骨プリントのTシャツと首に金のネックレッスが、柄の悪さを際立たせる。ストリートファッションに身を包んだ、くわえタバコのチンピラたちが煌希を睨みつけていた。
およそ二ヶ月前のスーパー買い出し作戦。そこで起きた暴挙は許されるはずもない。
両耳と下唇にピアスをしたひとりがおもむろに立ち上がる。短髪を赤く染めた面長の顔に緩みきった口もと、半額弁当横取りの主犯である長身の馬面が、煌希に歩み寄ってきた。
にやにやと薄ら笑いを浮かべ、煌希の全身を舐め回すように見つめている。チンピラリーダーの馬面が言った。「もうロボット歩きはしてないんだな。足直ったのか」
何度見ても不気味だった。いまにも涎を垂らしそうな顔をしている。煌希はおずおずと返事をした。「ええ、まあ。あれから何ヶ月も経ちましたから……」
馬面がさらにその顔を近づけてくる。いまにも接吻をしてきそうな勢いがあった。
煌希がのけぞり、後退りをしようとした瞬間、右手に圧力を感じた。
馬面が煌希の右手を両手で握り、うっとりと恍惚の表情を浮かべていた。それは身の毛もよだつ光景だった。右手が腐敗していく感覚が湧き起こり、視界に映る空間がぐにゃりと湾曲した。
「お前って、いい女の匂いがするよな。たまらねえぜ。どれほどの名器なのか、今日こそ味見させてもらうぞ」致死量に達するほどの、馬面から欲情の口臭が放たれた。
煌希はその手を振り払い、全速力でその場を立ち去った。やられる、そう思ったからだ。小走りがいつの間にか、駆け足へと加速する。全力疾走で商店街を駆け抜けた。
食品スーパー、マルオツに逃げ込むと、男子トイレの個室に立て籠もった。宙に浮かびあがり、膝を抱えて丸くなる。震えが止まらなかった。
向かうところ敵ばかりだ。っていうか、敵しかいない。
そして1時間後、トイレから出た煌希は、奴らがいないか、きょろきょろと警戒しつつ、買い物カゴを片手に店内を回った。日中であるためか、値引きシールが張られているものは少ない。今日と明日の分を適当にカゴのなかに入れていく。
今回は用無しの惣菜コーナーを通り過ぎると、種類豊富な陳列に思わず見とれ、弁当コーナーで足が止まった。
ふと、チンピラ馬面の顔が頭に浮かぶ。
明日、埼玉を出る。いつ帰ってくるかわからない。奴はそのことを知らない。
チンピラは大嫌いだ。これからも当然、好きになることはない。特に、欲情剥き出しの、不気味な薄笑いで見つめてくる奴は……。
それでも、冷静になったいま、少しばかり思うことがある。
過酷で困難な旅を終え、もし埼玉に帰ってくる日があるならば、そのときこそ男臭くなった自分を見せつけるために……また……手を握らせるぐらいなら……いや……挨拶するぐらいなら……。…………。いや……。いやいや……。なにを考えているのだ自分は。煌希は首を横に振った。
いいわけがない。あんな気持ち悪い奴は、二度と御免だ。




