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26 行動

 約束の月曜まで、今日を含めてあと六日。マキの言葉が本当ならば、監視はされていないはずだ。準備を整えるのはいましかない。

 その日の夕方、煌希は大宮駅西口から百メートル先にあるビルの前にいた。

 建物の看板を見上げ、足を踏み出したそのとき、いままでの挙動が脳裏に浮かびあがった。自動ドアを前に歩が止まりかける。なにも買わずの長時間のウィンドウショッピング。しかも、商品を触りまくる。週末恒例の行事と化したも同然だった。

 だが煌希は、肩で風を切って入店した。臆することはない。知らぬ存ぜぬのそしらぬ顔で押し通すまで。なにせ今日は、ご購入のお客様になる日なのだから。

 大型総合スポーツ専門店、セヒロ。広々とした店内は、野球、サッカー、バスケットボール、ランニングなどの専門コーナーで区切られ、それぞれのスポーツウェアと用具が所狭しと陳列されていた。それらには目もくれず、一目散に突き進んだ。いらっしゃいませの快活な声がそこかしこで沸く。

 天井から目的のコーナープレートが吊り下がる。煌希はぴたりと立ち止まり、専門の一画を視界におさめた。記された〝アウトドア〟の文字が、胸の高鳴りに拍車をかける。

 登山、キャンプ用品のコーナー。展示された大型テントを始め、ランタンや飯盒などの小物類、登山ウェアなどがずらりと並ぶ。どれもがハイクオリティーな輝きを放っているように見える。天空に舞い上がってしまいそうな気持ちを抑え、喜々としてコーナーに足を踏み入れた。

 おとこになる瞬間はやってきた。ついにあの計画を実行するのだ。先ほどの魂の決断が目に浮かぶ。

――『埼玉出立ソロキャンプ計画』

 それは、生まれ育った故郷である埼玉を去り、放浪の旅に出ようというものだ。ソロキャンプ生活がメインになるが、ひとつだけ特殊なことがある。寝床は空だ。寝袋に入り、夜間の上空で就寝するのである。動物は睡眠時に意識を失い、完全に無防備になる。地上で寝込みを襲われたらひと溜まりもない。上空で眠ることが可能な煌希にとって、これほどの安全地帯は他にないのだ。

 さっそく選定を開始する。まずは寝袋だ。キャンプ用品ではシュラフと呼ばれている。種類が豊富でなかなか決断できない。寝袋は命に関わる重要なものだ。妥協してはいけない。上空は地上よりも遥かに寒い。保温性の高い寒冷地仕様にしよう。と、言いつつ判断決めかねるので、素直に近くの男性店員に聞いた。

 休日はアウトドアしてます、そう言わんばかりの褐色に染まった肌。年齢は二十代後半、山の知識に自信ありげな面構えの男性店員がたずね返してくる。「お客様はキャンプ泊でご使用ですか?」

 空で寝る、とは口が裂けても言えない。

 マミー型のダウン素材。保温性が高く、軽量でコンパクト収納。まさに寒冷地仕様だそうだ。そのなかでお勧めのものをピックアップしてもらう。オレンジ色で全長ニメートル強のものだが、収納時には枕ぐらいの大きさになり、非常にコンパクト。重量も二キロ弱で軽い。しかし、値段が高かった。一瞬迷いが生じるものの、空での快適な睡眠のため、ここは英断を下す。

 次は、すべてのアウトドアギアを持ち運ぶための収納袋、バックパックだ。サイズ、カラーが豊富に取り揃えられ、そのどれもが頑丈で強固な風格をたたえている。

 やっぱりソロキャンプといえばバックパックでしょう、と煌希は思った。大小さまざまななかから、容量四十リットルのものを手に取る。分厚く、しっかりとしたショルダーハーネスがなんとも頼もしい。表面の生地を撫で回し、剛性を確認する。いい仕事をしている、そう関心しながらファスナーの開閉具合も調査する。太いウエストベルトでガッチリ固定できるため、空の飛行でも荷が落下する心配はなさそうだ。

 先ほどの店員が静かに近づき、煌希に訊いてきた。「そのバックパック、試着してみませんか?」

 煌希は、手にしたバックパックに目を落とした。長期に渡るウィンドウショッピングで検証してきたといっても、実際に身に着けたことなどなかった。「いいんですか」

 店員は大きくうなずいた。「もちろんです」

 言われるがままに、バックパックのショルダーハーネスに腕を通してみる。なかになにも入ってないとはいえ、両肩に独特の重みを感じる。

 店員がすぐそばにある壁掛けの姿見を指し示した。煌希は歩み寄り、正面、横向きにと自分の姿を映してみた。それは、普段使いの小型リュックサックとは大きく異なる。武骨で野性味あふれる圧倒的な存在感が、全身を見事に引き立たてていた。

 煌希はくるくると何度も向きを変え、バックパックを背負った自分を眺めた。悪くない。いい感じだ。ソロキャンプにぐっと近づいた気がする。もっと早く試着させてもらえばよかったか、と内心で苦笑ぎみにつぶやく。

 ふと鏡越しに、店員と視線が合った。にやにやと好色そうに目尻をさげ、煌希を見つめている。

「よく似合ってます。とても可愛いですよ」店員がにこやかに愛想を振りまいた。

 後半の単語が心に引っかかった。煌希は思わず聞き返した。「いま、可愛いって言いました?」

「はい」店員の笑顔に変化はない。「とっても可愛いと思います」

 煌希は大きくため息をつき、がっくりとうなだれた。けっきょくはそっちの方向にいってしまうのか。女に見えた。いつものことだった。

「どうしました?」店員が当惑の面持ちになった。しばし煌希の顔をおずおずと見つめる。

 無言の空間がここに広がる。店員の、はっと息を呑む顔が垣間見えた。再び愛想笑いに転じ、揉み手をしながら告げてくる。「ああ、ええと。凜々しくて、とてもかっこいいと思います」

 なぜ言い直したのか。ひどく気に入らないことだ。しかし、かといって、嫌いな言葉でもない。煌希は訊いた。「本当にそう思ってます?」

 店員がきっぱりと言う。「もちろんです。私は本音しか言いません。すごくかっこいいです!」

 もっと言ってくれ、煌希は頭を掻いた。「そうかな。かっこいいかな。うはは」

「はい。エベレストを登頂してしまうぐらいの豪快な力強さを感じます」店員が高らかに強調する。「よっ! ワイルドイケメンキャンパー」

「マジすっか!」予想を超えた褒め言葉に、煌希の心はぐらっと傾いた。これは言われるがままに買わされてしまうパターンなのか。どうせならもう一声欲しい。

「その筋肉質な腕に通されて、バックパックも喜んでますよ」店員がすっと陳列を指差した。さあ、と流れるように促す。「色はそれでよろしいですか? 他にもお客様のたくましい上半身に相応しいバックパックもありますが、いかがでしょうか?」

 煌希は絶句した。それが商人の常套文句なのはわかっている。だが、嬉しさのあまり全身がぷるぷると武者震いを起こす。震える手で財布を取り出し、中身を確認する。福沢諭吉の真顔が集団で見返してくる。

 ブランドによって値段はピンキリであるが、問題はない。このために工場で働いてきたのだ。

 再度、キャンプ泊との旨を伝える。すると店員は、容量別に分けられたなかの一群を手で示した。テント、シュラフを収納するのを考慮すると、六十リットル以上が望ましいとのこと。これも当然、ブランドによって値段の差がある。

 店員がいざなう。「機能で選ぶのもよろしいですが、色、デザインで決めてしまうのもいっこうに構わないかと存じます」

 煌希は六十リットルの陳列に視界を絞った。神経を集中し、縦横に目を走らせる。

 ふと脳裏に、稲妻のように急浮上する言葉があった。視点は定まる。母は言っていた。大好きだったお気に入りの青いバックパック。いくつも縦走し、昼夜を共にしたこと。ぼろぼろになったけど、大切に保管していたこと。アパートに引っ越しの際、やむなく手放したこと。

 無意識にも掴みかかる。手に取ったのはブルーのバックパックだった。煌希はただ無言で見入った。

 店員は言った。「相棒、お決まりになられたようですね」

 店員に促され、煌希はそのバックパックを身に着けてみた。歩み寄り、姿見をのぞき込む。さっきの四十リットルよりも丈が長い。横向きに側面をゆっくりと観察する。バックパックの底部が腰から始まり、上部の雨蓋は後頭部まであった。背面、正面と、ぐるりと一周眺め回す。清涼感あふれるスカイブルーが、心のなかまで澄み渡らせる。

 鏡をじっと見据える。バックパックを背にした、若かりしころの母が目の前にいる。そう錯覚せざるをえない。

 選んだバックパックは、アウトドア界では定番の国産メーカーらしく、信頼性も非常に高いとのことだった。鏡越しに値札を眺めると、さすがの国産価格に思わず目を見張る。が、いまさら引き下がりたくはない。心で泣いて、笑顔の即決となった。

 その他の小物類も、店員のアドバイスにより掻き集めていった。アルミ製の小型フライパンと鍋のセットである、クッカーと呼ばれるもの。焚き火用コンロのウッドストーブ。マグネシウム合金の棒を金属板でこすり、その火花で火を起こす、ファイアースターター。折り畳み式ナイフ、小型ライトなどなど。

 キャンプというより、サバイバルに近い生活になると予測するが、いずれにしてもすべてが未経験だ。必要なものはそのつど集めていくしかない。

 そして、選定終了を迎えたわけであるが、最後にその店員に呼び止められた。

 大切なことと言わんばかりの顔で店員が言った。「泊まりであれば、テントが必須になりますよ。もうお持ちでいらっしゃいますか?」

 思わず硬直してしまう。そんなことは考えてもいなかった。キャンプ泊とはテント泊とイコールなのだ。

 雲の上ってテント設置できましたっけ、とは訊けるはずもない。

 レジにて会計を済ませる。ずっりしと重い、大型の手提げ紙袋が渡された。もちろん、テントは入っていない。また来ます、煌希はそう伝え、褐色肌の男性店員に笑顔でおじぎをした。店内に従業員たちのはつらつとした声が響く。ありがとうございました。

 個室トイレでの小休憩を入れたとはいえ、連続地上歩行の限界も近づいている。煌希は出口に向かって歩き出した。

 そのとき、あるひとつの区切りに目が止まった。シーズンオフであるため、品数は少ない。スキー用品のコーナーだった。

 煌希は棚に陳列された二種類の商品に目が釘付けになった。

 マキを思い出した。いまは敵と判断している女だ。それでも、なぜか憎みきれない。心の奥底になにか別の感情があるのだろうか。

 空は、日が完全に落ちて夜になっている。煌希は購入したばかりの大型バックパックを背負って上空を飛んでいた。ソロキャンプの準備は整った。出立の日は近い。

 三日月の光が、眼下の雲の姿を明瞭に浮かびあがらせる。目出し帽の代わりとなる、ふたつの新アイテム。初めての装着だが、思った以上に保温性が高く、かつ視界も良好だった。

 最後に追加で購入した、黒のニットキャップとミラーレンズのスノーゴーグル。煌希の飛行快適化は順調に進んでいた。

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