24 公言
雪のように白い肌の女は、喫茶店の窓際のテーブル席に座っていた。
女が低い声で言った。「ずいぶんと長いトイレだったわね。もう少しでジョウが扉をぶち破るところだった」
煌希は女の向かい席に着いた。約十五分間、地上歩行の休憩を個室トイレで取っていたのだ。そのおかげか浮上欲求もだいぶおさまり、なんとか肉体的落ち着きを取り戻していた。ただし、精神的落ち着きなどあろうはずもなかった。絶望的状況であるのに、なんら変わりはなかったからだ。
窓の外で、ジョウと呼ばれる巨漢が煌希を監視している。威圧感はあったが、彼が同席するよりは断然マシだった。
若いウエイトレスが、注文したアイスコーヒーをふたつ運んできた。
女は煌希を食い入るように見つめていた。煌希はそれに耐えきれず、目を逸らした。
「ふふ、解析通りね」女は謎めいた笑みを浮かべた。真っ赤な唇が妖しく動く。「可愛い顔しちゃって。まるでボーイッシュな女の子ね」
子供のころから言われてきた言葉だった。女の男、オカマ、ニューハーフ、名称は様々だ。最近では先輩の関根に男の娘などと呼ばれ、社内ではトランスジェンダーとも噂されている。煌希が青春時代を振り回され、男臭さを求めるようになった諸悪の根源。一卵性双生児のような、母親とうりふたつのこの顔だ。
女は目を逸らすことなく、煌希の顔をじっと見つめ続けている。目が合うと、女は微笑みを返した。
まだ「トイレへ」としか喋っていなかった。正式に会話が成立してしまうと、正体を認めたことになると判断したからだ。
女がぼそりとつぶやいた。「長いこと潜伏していたわね。上之君」
一瞬、心臓が止まった。その言葉を発した女の唇を凝視する。
「再会を楽しみにしていたのよ。上之煌希君」女は冷笑を浮かべた。
全身の血管が収縮し凍りつく。呼吸が止まり、煌希は一気に血の気が引いていくのを覚えた。「なんで……知ってるんだ……」
無意識に言葉が出た。会話は成立した。魂が絶望の淵へ吸い込まれていく。
女は告げた。「前回、私が頭に装着していたのは、ただのゴーグルではないわ。赤外線で衣服などの障害物を透視して対象の容姿をスキャニングし、素顔を3D化する装置。組織はスキャナーと呼んでる」
脳裏に、ゴーグルの怪しく点滅する赤い光が浮かびあがった。
女の冷笑が深みを増す。「だから、マスクで顔を隠しても無駄なのよ。スキャンされたら裸にされたも同然。解析済みの全身画像をもってすれば、個人の特定など造作もない。よって私は、上之君の個人情報を概ね把握している。その身体の秘密以外はね」
女は右手の人差し指をくるりと回し、煌希の胸もとを指差した。
「だからって、どうしてここにいることがわかったんだ」煌希は震える手を握り締め、一番の疑問を投げかけた。
「あなたの住まいは当然知っているわ。実力行使しようと思えばいつでも可能だった。ただし、今回はあまりにも希少なケース。すべてを慎重に行う必要があった」
女はジャケットのポケットからスマホらしきものを取り出すと、煌希の前にそっと置いた。画面には大宮駅構内の地図が表示されている。よく見ると、画面中央の赤丸で示されている現在位置が、この喫茶店だった。
女が促した。「画面をタップしてみて」
煌希は言われるがままに画面を指で軽く叩いた。平面地図が大きく縦にスライドし、たちまち高さを含む三次元地図になった。
「個人情報からあなたの所有するスマホの個体番号を割り出し、ハッキングした。圏外であっても、内蔵されたGPSを経由して現在位置を測定できる」女はさも意味ありげに告げた。「登山アプリって知ってる? これはそれの強化版と思えばいいわ。GPSには経緯度のみならず、高度の情報も含まれてる」
煌希は愕然と息を呑んだ。知らなかった。GPSとは縦横の平面座標だけだと思い込んでいた。女がここに居合わせている謎。すべてが合致した。
「ハッキングしたスマホが上空に移動する瞬間を待っていたのよ。かなりの速度で垂直に高度が上がった。上空およそ二千メートル。それを所有する者は、その時点で普通の人間ではない。わたしたちの対象である、飛行能力を持つ最上級アンノウン。上之煌希という存在の確定」女が煌希を見据える。その顔に笑みはなく、冷酷な捕獲者のまなざしがあった。
「対象だの、捕獲だのって……。僕はなにも悪いことはしていない。静かに暮らしてるだけじゃないか!」煌希は訴えた。感情を抑えきれない。潤みだした涙で視界が揺らぐ。考えれば考えるほど理不尽すぎる。
周囲の客たちが煌希と女にちらちらと視線を送る。カップルの口喧嘩にでも見えたのだろうか。
「なんだか、かわいそうね。あなたが善良な一般人であれば、これは法に触れるわ。でも、あなたの存在は政府からはどう判断されるのかしら」女が憐憫のまなざしを煌希に投げかける。「市民をパニックに陥れる脅威と判断されれば、どのみち闇に葬られる。私たちは政府とは相反する組織。捕獲という言葉を使ったけれど、正確には保護だわ。私たちなら、あなたを救える」
心が揺らいだ。反論したい気持ちもあるが、言葉が見つからない。
女は諭すように言った。「あなたはいま、世界中に注目されてしまった。特殊能力を持つアンノウンの利用価値は凄まじく高い。近いうちに世界があなたを狙ってくる。もういままでのように、あのアパートで静かに暮らすことができなくなるのよ」
煌希はうつむいた。重苦しい暗闇が、内面を覆い尽くす。女の言う通りだった。希望などない。自分は捕獲される側なのだ。
しばらく沈黙が続いた。女は静かに見守っている。
やがて、女は優しい口調で語りかけた。「ねえ。顔を上げて、私の目を見て」
煌希はゆっくりと顔を上げた。女から捕獲者の目つきは消えていた。
女が微笑みながらつぶやいた。「素敵な瞳の色ね。どうして青いの?」
「わからない」煌希は首を横に振った。こっちこそ理由を知りたいぐらいだった。
「どうして空が飛べるの?」
「それもわからない。二十歳の誕生日に、突然身体が宙に浮いたんだ。それと同時に目も青くなって……」
女がじっと煌希を見つめる。シルクのような肌のなかで、妖しく濡れた唇に意識が奪われる。煌希は女の色気に耐えきれず、目を逸らした。
「僕は、世界が狙うような、そんなアンノウンなんかじゃない」煌希は思わず言った。「ただの妖怪、浮かびあがりだ」
ふふ、と女は笑った。妖怪か……と続けてつぶやく。
「じゃあ、妖怪の浮かびあがりさん」女が語気を強めて言い放った。「目を逸らさないで!」
煌希は女の急な凄みに驚き、強制的にそれに従った。
女は煌希の視線からいっさい目を逸らさない。煌希も催眠術をかけられているような感覚に陥り、女の顔をじっと見つめ続けた。
徐々に女の顔が恍惚の表情へと変わる。「なんだか吸い込まれそう……」
しばらくすると、女の瞳が潤み始めた。照明を受けて、それが美しく光る。
「降臨……」女はぽつりとつぶやいた。瞳から一筋の涙が流れる。「そうか……これがそうなのね……」
女は、少女のような微笑みを見せた。煌希はその顔をただ呆然と眺めた。この女はいったいどうしたというのだ。
「ついにこの瞬間が訪れた。やっと夢が叶う」そうつぶやきを発した瞬間、女の顔が晴れやかな表情へと豹変した。涙が蒸発し、その痕跡さえも完全に消え失せる。
女の目が輝いたかと思うと、テーブルに身を乗り出して煌希に顔を近づけた。アイスコーヒーのグラスがカタカタと揺れる。
女が少しばかり興奮気味に問いかけた。「上之君。じゃあ、こうしましょう。あなたが私のところに来てくれる交換条件として、あなたさえよければ、私があなたの夜のお世話をさせてもらうわ」
ドン!? と、煌希は突然の女の問いに度肝を抜かれた。呼吸が止まる。鼓動も止まった。衝撃すぎて、思考がぶっ飛ぶ。「い、意味がわかりません。世話ってなんの世話ですか!」
「女の私に言わせないでよ」女が詰め寄る。「どう? 私じゃ嫌? 生ものだからすぐ決めて欲しいんだけど」
断る理由があるだろうか。煌希のなかの脳会議事堂が、満場一致で移住を即決する。いますぐ身支度をしてきましょう。天から虹色の階段が降りてきた。
ドン! と、そのとき窓ガラスが揺れた。
仰天して真横を見る。巨漢が窓ガラスに額を押しつけて、煌希を鬼の形相で睨みつけていた。ガラスを通り越し、煌希の心臓に殺気が突き刺さる。
「ひああああ! なんで激怒してるんですか、このひと!」煌希は席からずり落ちるように震えあがった。
女が巨漢をちらっと一瞥した。「怒ってないじゃない。温かい目を向けているだけよ」
女はテーブルから肘を下ろすと、煌希に向き直った。「そんなことより、いまの下ネタは冗談よ」
冗談!? 冗談なんですか!
怒濤の急展開。希望の階段は崩れ落ち、奈落の底へ落下した。煌希はがっくりと肩を落とした。
女は煌希の顔を見るなり、いきなり笑いだした。「がっかりしちゃって、おかしい。可愛い顔しててもやっぱり男の子なのね」
「がっかりなんか……してません……」煌希は砕かれた下心を隠して、冷静沈着なふりをした。
女は言った。「でも、上之君が本当に求めるなら……私は、やぶさかではないわ」
煌希の思考が一瞬止まった。やぶさかではない。やぶさか……ではない。……ではない。ではないって、否定かよ。何度がっかりさせれば気が済むんだ。
「とにかく」女の顔がキリッと締まる。「私はあなたの飛行能力を科学的に解明したいの。手荒なことはしたくない。大人しく協力して。安定した衣食住と身の安全を保証するわ」
煌希は女を見つめた。引っ掻き回された心が、一瞬にして現実に戻る。
「私たちは味方よ。すべてこちらに任せて。さあ、一緒に行きましょう」女は煌希に右手を差し伸べた。
無意識にも女の手を掴むべく、自然と煌希の手が伸びた。
その瞬間、窓ガラスが再び揺れた。ガラスに張りついている巨漢が、怒濤の殺気を放っている。
煌希は慌てて手を引っ込めた。「だから、なんで激怒してるんですか、このひと!」
女は例のごとく、一瞬だけちらりと外を見やった。「怒ってないわ。歓迎しているのよ」
なんなんだこいつらは……。煌希の傾いた心がもとに戻る。
煌希は呼吸を整えて、できるだけ冷静に答えた。「少し心の整理をする時間が欲しい。いますぐってのは、いくらなんでも急すぎる」
女は鋭いまなざしで煌希をじっと見つめた。まるで心の底を探るかのように。
沈黙が続いた。やがて、女の目つきが穏やかになった。「わかった。時間をあげる。一週間後の月曜日の朝、あなたのアパートに直接迎えに行くわ」
事態がとりあえず好転する。煌希は黙ってうなずいた。それでも、胸のうちに渦巻きだした不安は拭えない。
女は煌希の心情を察したのか、ため息とともに微笑んだ「大丈夫、もう監視はしない。あなたを信じてる」
意外な言葉だった。煌希は内心、ほっと安堵した。
「それと、私はマキよ。上之君、これからは私をマキと呼んでちょうだい」白き妖艶な女、マキは言った。




