23 国王
一日約三十万人という県内第一位である利用者数を誇る大宮駅。駅周辺の商業集積も県内一であり、ずばり埼玉の都会といえば、このさいたま市大宮区が該当するのだった。
広大な駅構内は、様々な商業施設が密集し、利用者の大群が行き交っていた。その中央通路の群衆のなかに、リュックサックを背負った煌希が紛れ込んでいた。
大宮駅上空に来たのはいいものの、着陸場所が問題だった。どこに降りても人目につくのは明らかだったからだ。大都市であればあるほど、日中の着陸が困難になるのを痛感した。彷徨ったあげく、やっと駅から一キロメートル先の住宅街で、人影のない路地を発見したのだった。
煌希は、往来する人々と接触しないように慎重に進んだ。なにかの弾みで浮きあがってしまうという最悪の事態も想定できる。これほど歩行という行為に真剣に向き合うのは、初めての経験だった。
正体を隠すために可能な限り人目を避ける。これは、今後の自分の宿命的生き方なのかもしれないが、今日は違う。あえて人混みのなかだ。ここが安全地帯なのだ。
捕獲場所は、必ず人目を避ける。一般人の目には、それが拉致事件として映るからだ。最悪、あの女に遭遇したとしても、この人混みなら安易には襲ってこないはずである。
中央東口に向かって真っ直ぐ進む。突き当たりに達したそのとき、腹の虫が雄叫びをあげ、目的地の到着を告げた。店舗が三軒並んでいる。その中央の看板を、煌希は見上げた。
強烈な輝きに一瞬目がくらむ。実際には輝いていないが、本当に目がくらんだ。荘厳とたたずむその姿は、まさに神だった。畏怖の念を抱きつつも、煌希は目を見張った。朱に染まったどんぶりのマーク。大手牛丼チェーン、すぎ家の看板が垂涎の念を駆り立てる。
来た、来た、来た、来た。ついに来た。これを食したいがために、危険を冒してまでやって来たのだ。
はっとして、確認すべきことが頭をもたげる。煌希はリュックサックから財布を取り出し、中身をのぞきこんだ。野口英世の真顔が見返してくる。指差し確認、準備よし。うなずきながら歩み寄り、煌希は入口の自動ドアを抜けた。
冷房が効いた清々しい店内。入店のチャイムが鳴り響く。いらっしゃいませ、と奥の厨房から覇気のない男の小声の挨拶が聞こえてきた。
煌希は、むっとした。これより真剣に、食と向き合うという大切なひとときを迎える。いくらピークの昼時を過ぎた気の抜ける午後三時代とはいえ、やる気がない、元気がないのは、いただけない。ふざけるな、煌希は心のなかで叱咤を浴びせた。
店内を見回す。先客は数人の男性のみであり、空いていた。テーブル席を避け、カウンター席に向かう。煌希はリュックサックを下ろし、牛丼を頬張る中年リーマンからふたつ距離を置いた席におさまった。
夢にまで見た飲食店での着席。完全に諦めていただけに、熱いものが込みあげてくる。煌希はカウンターの天板を優しく撫でた。
厨房から若い男性店員が姿を現した。盆にはグラスが載せられている。仏頂面でやる気のない足取りで歩を進めるも、煌希の姿を見るなり表情を豹変させた。満面の笑みをたたえ、駆け寄ってくる。「ご注文はお決まりでしょうか」
店員が鼻の下を伸ばしながら、煌希の顔と上半身を舐め回すように見つめてくる。ところがふいに、動きを硬直させた。その表情から失意の色が垣間見える。
「ええと……」こいつは僕のことを女だと思ったに違いない。男であることを悟り、落胆した。そんなところだろう。相手が女子であれば、寛容な心ですべて許してやる。だが、おまえはダメだ。煌希は言ってやった。「牛丼の大盛りを〝つゆだく〟でお願いします」
注文を受けた店員は、うなだれぎみに厨房へ消えた。煌希はほくそ笑んだ。普段はつゆだくなど頼まない。というより、そんな裏オプション自体、いま初めて口にしたのだ。通常の牛丼工程にひと手間加わる、つゆだく作業。苛立ちを覚えるのは必至だ。過酷労働のストレスに悶絶するがいい。
「ふははは」煌希はとっさに口を押さえた。心の笑い声が現実に漏れ出てしまった。横目に中年リーマンを一瞥する。ぎょっと目を丸くしてこちらを見ている。煌希は苦笑しながら会釈をした。「はは……。どうも」
すると、中年リーマンの顔がにわかに弛緩した。にやにやと薄気味悪く鼻の下が伸びる。煌希はとっさに目を逸らして顔を背けた。この世は病んでいる、そう思った。
煮込まれたすじ肉の甘い香りが漂う店内。しばらくぶりに味わえる牛丼に、心が小躍りをしていた。思わず鼻歌が出てしまうも、中年リーマンの熱い視線がそれを中断させた。
そのとき、入店のチャイムが鳴り響いた。開かれた自動ドアから、ひとりの客が姿をのぞかせる。外から入り込む熱気が、瞬時に色気に変わった。
煌希は心を奪われた。ジャケット下のブラウスには豊満なバスト、タイトスカートからは細く長い脚がすらりと伸びる。紺色のスーツ姿で、年齢は二十代半ば。艶やかな黒髪ストレートのセミロング、わずかに吊り上がった大きな瞳が印象的だった。小顔のなかに通った鼻すじと燃えるような深紅の唇が光る。彼女の肌は白人をも凌ぐほどの極度の色白で、まるで残暑の日中に降り立った雪の女王のようだった。
驚くべきは、それだけではなかった。つかつかと歩み寄り、煌希の真横のカウンター席に彼女は座り込んだ。がら空き店内での席選択のマナーは、せめてひとつ飛ばしにするのが世間一般的というもの。なにゆえ真横なのか。澄まし顔でたたずむ彼女の横顔を、煌希はただ唖然と見つめ続けた。
店員がすっ飛んできた。差し出したグラスの水面がこぼれんばかりに揺れている。目が血走り、興奮しているのがわかる。店員は彼女に鼻息荒くたずねた。「ご注文は、お決まりでしょうか!」
女は迷うことなくきっぱりと言い放った。「牛丼キングで」
空間が凍結し、時間が止まったかのようだった。牛丼キング、それは並の大食いでは歯が立たないといわれる、牛丼界に君臨する裏メニューの帝王。肉は並盛りの六倍、ご飯は三倍、重量は一キロを超える圧倒的特大ボリュームとなっているのだ。
「え……えっ」ありえない、聞き違えた、そんな表情の店員が困惑ぎみに立ち尽くす。再度丁寧にたずね返した。「キング……ですか……。本当によろしいのでしょうか?」
緊迫した空気が店内に張り詰める。女は言った。「本当ってなによ。本当に決まっているでしょう」
「いえ……でも……」困り果てた面持ちの店員がぐずついている。警告するようなまなざしで訴えた。「すごい量ですよ。お客様のような細いかたが食べきれるかどうか……」
女が苛立ちの表情を募らせる。店員を睨みつけてまくし立てた。「いつも食べてるんだから平気よ。あれでも足りないぐらいなのに。文句があるならふたつ注文しちゃうわよ」
「ああ! わかりました」店員が慌てながらハンディをいじった。「牛丼キングひとつですね」
女は吐き捨てるように告げた。「何回も言わせないで。つゆだくよ、つゆだく! 早く持ってきて」
頭を下げた店員が早急に厨房へと消える。場の空気の緊迫が解けた。小さく舌打ちをした女は、女の胃袋をなめるな、と小言をまた吐き捨てた。
開いた口が塞がらないとは、まさにこのことだった。牛丼屋にひとりで入ってきた、絶世の美女が吐く罵詈雑言。見た目とのギャップがすごすぎる。
見つめすぎているのは自覚していた。だがなぜか、目を逸らすことができなかった。
煌希の視線を感じたのだろう。次の瞬間、毅然としたようすの彼女が、まなざしをちらりとこちらに向けてきた。ふたりの視線がぴたりと重なる。
「ふふ」女がうっとりとしたまなざしで妖艶な笑みを投げかけてくる。目を細め、唇を小さく舐めた。「かわいい。食べちゃいたいわ」
「な!?」仰天で煌希は思わず立ち上がりかけた。むしろ、宙に浮きあがってしまいそうだった。
真っ白な肌。異常なほど白い。それに、甘いフェロモンを漂わせる薔薇のような赤い唇。
見覚えがあった。煌希は愕然と凍りついた。
時間が飛ぶ。視界のなかに男の姿が浮かびあがった。店員がふたつの盆を両手にこちらに向かってくる。見慣れた通常の牛丼と、すり鉢のような大皿に盛られた、てんこ盛りの牛飯が運ばれてくる。
店員が大皿のほうの盆を、真妃の目の前に静かに置いた。「お待たせしました。こちらがご注文の牛丼キングになります」
煌希の分もカウンターに並び、店員が後ろ髪を引かれるように厨房へと消えていく。
「来た来た」女が目を輝かせながら、蓋の存在しない、大皿に盛られた牛丼キングを見下ろす。いただきます、そうつぶやくと、箸を持つ透き通るような指先が軽快に動きだした。牛肉が口に運ばれ、満面の笑みがこぼれる。「うん、おいしい!」
丼の蓋さえも開けられない。煌希は女に釘付けで硬直していた。もはや、なにをしにきかたもわからない。絶望感という食物で胃袋が満たされていく。
品よく淑やかに食すると思いきや、大皿を左手に持ち上げた女は、箸から持ち替えたスプーンを右手に、勢いよく豪快に口に掻き込んだ。がつがつと食べ進める。ほとんど噛んでいないようにも見える。ほぼ丸呑み状態の、大食い選手を見ているような見事な食べっぷりで、あっという間に完食してしまった。
大皿のなかに残った、最後の米粒を丁寧にスプーンですくい取り、口に運ぶ。女はため息をついて、手に取った紙ナプキンで口もとを上品に拭いた。
すると、身動きひとつできない煌希の耳もとに女が顔を近づけ、そっとささやいた。「外でこっちを見ている大柄のスーツの男がいるでしょう。あれ、私が改造したサイボーグで、忠実な僕なの。名は、ジョウ。騒ぎを起こしたくないのはお互いさま。隣の喫茶店でゆっくり話をしましょう」
ガラスの向こう、往来する通行人に紛れて、猪首の巨漢が立っていた。年齢は三十歳前後か。米国のボディガードを思わせる、黒のスーツに身を包む。胸筋がせり上がり、張り詰めている。丸太のような重厚な四肢を持つ、筋肉隆々とした白人だ。スキンヘッドの頭部から睨みつける恐ろしく鋭い眼光が、とてつもない殺気を垣間見せる。よく見ると、額の上部にうっすらと、手術痕のような太い横線があった。
女は席を立つと、レジにて支払いを済ました。
恐怖で足がすくんで立ちあがれない。本当に宙に浮きあがってしまいそうだった。
女が再びこちらに向かってくる。「早く出ましょう。あなたの支払いも私が済ませておいたから」
ごちそうさまでした。煌希は声が出なかった。
女が退店し、外で煌希を待っていた。その後ろで巨漢が立っている。ふたりは言葉を交わすこともなく、他人のふりをしているようだった。
巨漢は、早く出てこいと言わんばかりに、煌希をさらに睨みつける。
逃げる術はなかった。連続地上歩行の制限時間も迫っている。カウンターに手をつき、立ちあがろうとするも力が入らない。頭のなかが真っ白になる。
そのとき、二十代の女性定員が近寄ってきた。心配そうな顔をしている。「大丈夫ですよ、お客さま。いまお包みしますから」
煌希のどんぶりに残されたすべての牛飯は、お持ち帰り用の弁当容器に入れられて手渡された。
煌希は思った。いや、そういうことじゃないんだが……。




