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21 更生

 汗が床に滴り落ちる。全身が燃えるように熱い。広背筋が痙攣し、呻き声をあげているようだった。

 煌希はダンベルを持ちながら、床から五十センチほどの宙に浮いていた。強化訓練当初の予定を飛ばした、その一段階上の重量六十キロ。段階を踏んで進むには時間が惜しかった。残された時間はあとどれくらいなのか。焦る気持ちが、限界からの挑戦を求める。この重量をあの女と思うことで、さらに闘志が湧いた。

 捕獲から逃れる術は、高速飛行しかない。天井に届くころには相当な速度に達しているはずだ。最終的には重量百キロで訓練したいところだが、そこまでの猶予があるかまったくわからない。

 朝一から始まり、疲れ果てて眠りにつくまで、毎日訓練に明け暮れた。自分に余計なことを考える暇をいっさい与えない。その行為そのものが、唯一の安らぎだった。

 食料が底を突くと、スマホでネットスーパーに商品を注文した。実店舗の食品スーパーのような値引きは期待できないが、数時間後には自宅に配達され、非常に便利だった。

 外出しようとすると、どうしても足がすくんでしまう。いまはまだ、そのときではないのだろう。

 訓練に次ぐ訓練が続いた。日を追うごとに上昇距離は上がる。それは、恐怖を忘却させる快感でもあった。

 自宅に篭もっていっさい外出しないという行為には、ひとつ問題があった。大量にゴミが溜まってしまうのだ。特に夏場の生ゴミは、不衛生極まりなかった。ダイニングの玄関脇に山積みにされたゴミ袋。煌希はそれを視界に入れないように心がけた。

 二週間が経ち、上昇距離とともに地上歩行にも効果が現れた。ほぼ無音に等しい、忍び足の小走りが可能になったのだ。これで鉄製の外階段も重低音を連打させることなく、誰にも気づかれずに上り下りができる。それに伴い、煌希は数日置きに外出をするようになった。

 早朝、忍び足の小走りでアパートのゴミ置き場にゴミ袋を出す。そしてすぐさま踵を返し、忍び足小走りで部屋に舞い戻り、また篭もる。少しだけ清々しくなる瞬間でもあった。

 煌希はそれからも、強化訓練に没頭する日々を送った。天井というゴールに近づくたび、次の目標が目の前にちらついた。重量百キロという大台。当初は絶望と思われたその重量も、夢ではなくなっていた。

 夜、訓練を終了したあと、シャワーで汗を流す。そして、姿見で己の肉体の細マッチョ進行具合をチェックする。これが日課であり、密かな楽しみのひとつでもあった。

 自宅に篭もること丸一ヶ月が経過した日、重量六十キロのバーベルを持つ煌希の背中が、天井に触れていた。数分間の静止状態でまだ余力がある。自信がみなぎっていた。それは、大台への挑戦サインだった。

 すべてのパーツを取り付けた真の姿、バーベル最大重量百キロ。

 完全敗北した初日の記憶が頭をよぎる。あれから苦行の日々を送った。過去の映像を振り払い、シャフトを力強く握る。歯を食いしばり、ゆっくりと浮力を上げた。

 負けてたまるか。出力最大、煌希は唸り声をあげた。身体とバーベルはそれに呼応したかのように床から離れ、浮かびあがった。バーベルは床から二十センチほどの距離を数秒間保つと、静かに下降し、再び床に鎮座した。

 燃料は(から)になった。煌希は宙で仰向けに倒れ、息を弾ませた。やはり、と思う。全身が激しい筋肉痛に襲われ、身動きすらできない状態だったが、最強相手が、最強であることに喜びを感じる。これは苦行ではない。喜行なのだ。

 シャワーのあとの日課、煌希は姿見の前でパンツ一丁で立っていた。顔は抜きにして、そこには男らしい細マッチョの肉体が映しだされていた。そして、それを見てにやにやしている自分は、最高に気持ち悪かった。

 バーベルを最大重量に切り替えてから二週間。自宅に篭もり始めてから、かれこれ一ヶ月半が過ぎた。

 あの女は、いまも空を見張っているのだろうか。それとももう、断念したのだろうか。

 訓練は最強相手に苦戦停滞していた。それゆえに、封印していた不安が顔をのぞかせた。

 疲れ切っていても、満足に睡眠が取れなくなっていた。封印はさらに脆くなる。

 不安が頭のなかを埋め尽くしたとき、精神に二次災害が起きた。不安をねじ伏せる、凶悪な欲求が再び覚醒してしまったのだ。

 空を飛びたい。どうしても飛びたい。いますぐここから飛び出したい。

 飛行欲求が、殻を押し上げ、爆発した。煌希は室内で斜め上方を指差し、本日のお題を読みあげた。

『そうだ。大空を越えて、すぎ屋の牛丼を食べに行こう』

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