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20 孤立

 七月十六日、午前九時。煌希の勤務先、荻山精機の上司である清水係長から電話連絡があった。

〈どうして会社に電話を入れないんだ。二週間、無断欠勤だぞ〉

 すみません、と謝ることしかできなかった。真実を伝えられたらどんなに楽なのだろう。

〈一年以上、無遅刻無欠勤で真面目だった上之が、意味もなく休むわけがないのはわかっている。でも、無断は非常にまずい。〝わかっているだろう〟では社会は通らない〉

 ごもっともです。もうなにも言えない。

〈とにかく、病気と言い張るなら医師の診断書を会社に提出しろ。長期休暇には診断書が必要だ。すぐに持ってこい!〉

 と、ご立腹だった。

 正直なところ、会社の存在を完全に忘れていた。飛行に夢中になり過ぎていたのだ。

 しかし、いずれこうなるだろうとは思っていた。この肉体である限り、出勤はまず不可能。空を飛ぶことで現実逃避し、頭のなかからこの問題を放り出していたのだ。

 もし、本当に診察に行ったらどうなるのだろうか。空中浮遊病とでも診断されるのだろうか。いや、隔離は間違いないだろう。実験動物として永久に隔離、監禁だ。

 煌希は和室の宙で横になっていた。この三日間、ほとんど睡眠をとっていない。頭が鉛のように重く、体調は最悪だった。

 目の前に、ゴーグル女の姿が浮かびあがる。三日前の出来事が脳裏に焼きついていた。

 ――次の任務は、あなたの『捕獲』よ。

 煌希は両手で頭を抱えた。「なんなんだ、あいつは……」

 迫りくる恐怖で息が詰まる。誰も助けてくれない。救いを求めることもできない。

 孤立無援とは、まさにこのことだ。煌希は身体を丸め、どこに向かうでもなく、ただ宙を漂った。

 夕方、テレビのニュース番組で、未確認飛行物体の動画が取りあげられていた。上空へ向かう煌希の姿が映った例の三本の動画で、世界中からアクセスが殺到しているとのことだった。動画の真偽を巡り、国内の航空専門家たちが本格的な調査に乗り出した模様だ。

 よくあるフェイク動画と笑い飛ばして欲しかった。

 全てが悪い方向へ流れている。これが負のスパイラルというものか。

 世界が注目している。世界が捕獲の対象にしている。世界が猛追してくる。

 逃亡犯のように毎日怯える生活。なにも悪いことはしていない。ただ宙に浮いているだけだ。

 ――人類の驚異なのか否か。

 僕はいったい何者なんだ……。

 母の顔が目に浮かぶ。どうしてこうなってしまったのか。なぜ自分は生まれてきたのか。自分は人間なのか。それとも、化け物なのか。

 いま思えば、母はなにを聞いても、いつも微苦笑を浮かべているだけだった。蔑んでいたのか。弄んでいたのか。今後の事象を、すべて予見していたのか。

 再燃する疑心悪鬼をよそに、脳裏に過去の記憶が走馬燈のように走る。母が死んだ日。工場勤めと一人暮らし。すべてが一変した二十歳の誕生日。空中浮遊に恐怖した日々。スーパー買い出し作戦。初めての夜間飛行。雲海を眺めての空弁。背負うリュックサックに、上空対策のマウンテンパーカー、顔隠しの目出し帽。腕に巻いた相棒、高機能腕時計Qショック。そして、青い大空へ歓喜の飛翔。

 もう二度とあの空を飛べなくなる。喉の渇きに似た、強烈な枯渇感が胸の奥に宿る。

 嫌だ。それだけは絶対に嫌だ。もう以前の、平穏な(なにもない)日常には戻りたくない。

 わかる。これは虚脱感だ。麻薬に手を出してしまった彼らも、きっと同様の苦しみを味わっているのだろう。素直に認める。自分は中毒者だ。

 煌希は、かっと目を見開いた。

 どんなに悩もうが苦しもうが、あの女はやってくる。捕獲し、身体を切り刻み、この僕からあの空を奪おうとしている。

 両方の手のひらを見つめる。指の付け根に茶色いタコが並んでいる。それを力強く握った。

 浮上欲求を凌駕する重度の中毒性、飛行欲求が胸を焦がす。

 煌希は顔を上げ、虚空を睨みつけた。「冗談じゃない。捕まってたまるもんか」

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