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17 考察 M

 陽炎(かげろう)が立ちのぼる。アスファルトを溶かさんとばかりに照りつける灼熱の陽光が、今夏の酷暑を確定させた。上空には巨大な積乱雲が荘厳と湧き、あたかも核爆発によるキノコ雲を彷彿とさせる。吸い込む空気さえも熱く、ただ歩くだけで容赦なく体力を奪っていく。往来する人々も一様にけだるそうに歩き、その足取りは鈍重と化していた。

 梅雨明け前だというのになんという暑さ。早くしないと腐ってしまいそうだ。レジ袋を手に下げた近衛真妃は、ハンカチで額の汗を拭いながら歩を速めた。

 埼玉県さいたま市の大宮区に位置する大宮駅。県庁所在地ではないものの、一日約三十六万人という県内第一位である利用者数を誇る。駅周辺の商業集積も県内一であることから、埼玉の都会といえばこの地区が該当するのだという。

 大宮駅西口そばの飲食店から離れること数分、目的のビルが視界に入った。足早に人混みを縫っていく。真妃はプラザホテル大宮のエントランスをくぐった。フロントを無視し、エレベーターホールへと向かう。

 昨日からこのビジネスホテルに連泊していた。料金の割には、小綺麗で高級感があるといえる。

 朝食はこのホテルのバイキングだった。豊富な種類の料理がずらりとテーブルに並ぶ。宿泊客は男性が多かった。嬉々として皿に豪快に盛り付けようとするも、彼らの熱い視線が真妃の手の勢いを鈍らせた。私にだって恥じらいはある。男性陣から注目を浴びた以上、大食らいは晒せない。

 朝っぱらから憤りを禁じえない。いつのも供物が必要だった。私を平穏にいざなう神聖なもの。求めるものは駅前にあった。

 オートロックを解錠し、扉を開ける。ベッドがひとつに、テレビとデスクの置かれた、簡素だが清潔感のあるシングルルームだった。

 レジ袋を机上に置く。真妃はブラウスの襟ボタンを外し、首もとを開放した。テレビ脇の冷蔵庫からウーロン茶のペットボトルを取り出し、デスクの椅子に腰を下ろす。

 それは、市販品と見た目はなんら変わりはない。真妃自身が改造を施したノートPCを開く。あらゆるクラッキングを遮断するハードブロッカーを内蔵し、スーパーオーバークロックに耐えうる超冷却機構を備える。電源ボタンを押し、独自開発のOS・オネイロスを起動する。内蔵カメラに瞳を合わせる。ほどなく生体認証が完了。真妃を迎えるデスクトップ画面が現れた。

 幼少のころより、生物解剖と不正アクセスを趣味としていた。この世界と繋がりを持ったのも、そのファイアウォールを突破したことがきっかけだった。

 キーボードに指を這わせ、日本上空のすべての偵察衛星にハッキングをかける。ブロッカーによりこちらの特定および捕捉は不可能。ディスプレイに侵入先衛星からの高精細なリアルタイム映像がいくつも流れてくる。人型アンノウン捜索用に作成した解析ソフトを実行する。

 真妃はウーロン茶を(あお)ると、傍らに置いたレジ袋に手を伸ばした。なかに入ったどんぶり状の容器を取り出す。ノートPCの手前に配置すると、喜々として蓋を開けた。

 特有の甘い香りが鼻腔を通り抜ける。真妃は眼下にどっしりと座る、すぎ屋の牛丼を見下ろした。サイズはもちろん、いつものメガ盛りだ。つゆだくであるのは言うまでもない。朝は満足に食べられなかった。いまの私の胃袋と心を満たせるのは、もはやこれ以外に存在しない。

 小袋を破り、紅生姜を垂らす。真妃は自分の顔がほころんでいるのを悟った。割り箸を割り、いただきます、そうつぶやいた。はじめのひと口を食しにかかる。

 甘辛く煮込まれた牛すじ肉が口のなかでほろりとほどける。絶妙な味わいが舌の上で乱舞し、私を鼓舞する。真妃は思わず美味の声を漏らした。もう我慢できない。どんぶり容器を手に取り、豪快に掻き込む。

 と、そのとき、PC脇のスマホが震動とともに着信音を響かせた。真妃はどんぶり越しに一瞥した。着信画面に城本の名が浮かびあがる。このスマホにも細工が施してあった。GPSを逆探知しても、内蔵ブロッカーが遮る。こちら側の現在位置は特定できない。

 真妃は着信を無視して、牛飯を頬張(ほおば)り続けた。至福のときをゴミ虫ごときに邪魔はさせない。数十秒ののち、着信音は途絶えた。心はつゆだくの海を横断していた。

 (から)になった容器を静かにデスクに置く。ウーロン茶を口に流し込み、大きく息をついた。全身に力がみなぎり、思考が冴え渡っていく。朝食時のストレスが吹き飛んでいた。

 真妃はディスプレイに視線を移した。解析プログラムが衛星映像から人型をリアルタイムで捜し続けている。昨日からこの部屋に籠もり、解析作業にふけっていた。ユーチューブに投稿された個々の目撃動画から、未確認飛行物体である人型の座標と高度を特定。日付、時間を合わせて、過去の衛生映像から人型の姿を抽出した。衛星映像は日中の光学、夜間のレーダーと二種類に分かれる。夜間は日中に比べ鮮明さに欠けてしまう。しかし、日中の形状をもとに解析ソフトが特定を行った。

 人型が出現した場所、厳密にはその人物が『離陸』した箇所は、二箇所と断定できる。日中は、埼玉県春日部市西柳にある田園地帯。そして夜間は、さいたま市岩槻区大倉にある廃工場だ。

 しかし、衛星に記録された人型の姿は、一週間前のさいたま市上空を最後としていた。それ以降、いまのこの瞬間も解析プログラムは反応を示さない。

 なぜ、飛行をやめてしまったのか。真妃は鼻で笑った。理由は明白、手に取るようにわかる。

 自身の飛行動画を目の当たりにし、恐怖で怯み、うろたえ、萎縮した。住処に引き籠もり、鳴りを潜め、世間の様子を窺っているのだ。

 でも本当は、飛びたい。どうしても飛びたい。正体を知られてもいいから、空に飛び上がりたい。何度も何度も飛び出そうとした。いまも飛び上がりたくて、うずうずと禁断症状に全身を震わせている。そうなのだろう、私のアンノウン。

 HITOGATAと名付けたフォルダをダブルクリックする。静止画像が縦横にずらりと並ぶ。飛行動画の低画質ズームアップを解析ソフトが高解像度化したものだった。そのなかから最も核心に迫るひとつを選択する。静止画像が画面いっぱいに広がった。

 人型の横顔のアップを恍惚と眺める。鼻筋に唇、目はフードで隠れてはいるが、問題はない。素顔は容易に想像がつく。

 画面に手をかざす。真妃は夢想した。彼の頭部の立体的な幻影が浮かびあがる。頬を伝い、フードのなかにそっと両手を差し入れた。頭髪に触れる。滑らかなミディアムヘアだった。頭部の幻影が朽ち果てるまで愛撫を続ける。ふと、右の手のひらに新たな幻影が残されているのに気がついた。栗毛色の一本の毛髪だった。鼻腔に近付けると、甘美な香気が漂う。腹の底からぞくぞくと欲情が噴きあがり、更に夢想は加速する。

 研究所の自室。デスク上のマウスを滑らせた。PC画面に立体的なグラフィックを表示させる。毛髪の毛根鞘から抽出したDNA二重らせん構造だった。真妃はそれをじっと眺めた。マウスでぐりぐりと角度を変えて回転させ、絡み合う二本の鎖を幾度となく精査する。

 画面を舞い踊る二重らせんをうっとりと見つめる。性別は男。血液型はAB型。どれだけ希少性を跳ねあげれば気が済むのだろう。思わず笑いが漏れる。RH式は陰性、マイナスだった。

 遺伝子疾患などは見当たらない。至って健康な肉体の持ち主。ただちょっぴり臆病でヘタレなだけ。

 興奮が最高潮に達する。脳内で二重らせんが細胞を生みだし、彼の肉体を再構成していく。フードを脱いだ素顔の彼の姿が、いま画面の向こうに出現した。

 真妃は息を呑んだ。呼吸を忘れ、ただ茫然と見つめるだけになる。全身に鳥肌が立つような寒気すら覚える。目が釘付け、瞬く間に心を奪われてしまった。

 脱色着色したとも思えない、自然で艶やかな栗毛色のミディアムヘア。肌は白く透き通り、唇さえも薄い。すっきりと通った鼻筋に、大きな瞳が小顔のなかに映える。女子かと一瞬思ったがそうではないようだ。体つきは痩身ながらも、男子特有の堅さをところどころに垣間見せる。端麗、美麗、いくつ形容を重ねれば表現に足りるのだろう。現実から消え入りそうなその姿は、いま掴まねば天界へと飛び去ってしまいそうだった。

 ふと真妃は、強い既視感を抱いた。記憶が急旋回し、思いがそこへ導かれる。確かに見た。幼いころ夢のなかで出会った人物。そう、私のもとに舞い降りた天使の姿だ。

 唐突に妄想が中断された。真妃を呼ぶ幻聴が聞こえ、感情が急冷する。同時に流れ込んできた両親の記憶が、瞬時に多幸感を喪失させた。真妃は妄想の残滓を断ち切り、霧散させた。邪魔しやがってクソが、と舌打ちし、表情筋を引き締め、毅然と真顔になる。画面に映るアンノウンの横顔を睨みつけた。

 翼はまだもがれてはいない。空への欲求は飽和に達しているはずだ。必ず近いうちに上空へその身を躍らせる。飛翔する標的(フライングターゲット)。相まみえる瞬間はもうすぐだ。

 そのとき、再びスマホが鳴った。画面には、やはり城本の名が表示されている。真妃は無視を決め込むべく、スマホから目を逸らした。連日の無断欠勤を問いただすつもりなのだろう。

 着信音が鳴り続く。ふいに真妃のなかに一瞬の迷いが生じた。スマホに目を戻す。まだ東京に戻るつもりはなかった。長引けば、いずれ所長からも威厳に満ちた連絡が入る。

 仕方なく、応答をタップした。嫌悪のため息を荒々しくスマホに浴びせかける。それを耳に当て、真妃は応じた。「なに」

「やあ、真妃。相変わらず冷たい口振りだね」城本があっけらかんとした口調で告げてきた。「そんなに僕のことが好きなのかい」

 返す言葉がない。ただ冷めるばかりだ。「ばかじゃないの」

「隠すなって。本当のこと言いなよ」

「死ねばいいわ」

 城本の軽薄な物言いが応じる。「はは、それはいつにも増してきっついねえ」

「用件はなによ」

「ああ、そうそう」城本の声のトーンが下がり、わずかな凄みが入り混じる。「いまどこにいるんだい」

 物怖じするまでもない。真妃は言った。「自宅マンションよ。気分が悪いの。男にはわからないことでしょうけど」

「ふうん。月に一度のあれの日ってことか。それはさぞつらいだろうね」わずかな間を置いて、城本はつぶやいた。「で、さいたま市で静養中か」

 真妃は思わず息を呑んだ。城本一閃という男。狡猾で抜け目ない。ときに恐ろしい面をのぞかせる。すべてお見通しということか。「なに言ってるの。東京に決まってるでしょ」

「へえ、違うのかい。それはすまなかった。僕の思い違いだったみたいだ。べつに、きみの無断欠勤を咎めるつもりはないんだ。真妃は特別待遇だからね。僕に文句をいう権限はないよ」

 これ以上の会話は動揺を助長させるだけだ。真妃は努めて穏やかに言った。「欠勤の理由は告げた。もういいでしょ。切るわ」

「待って。なにをそんなに焦ってるんだい。もう少しだけ僕の戯言(たわごと)に付き合いなよ」

「なんなのいったい。なにが言いたいの?」真妃は苛立ちを隠せない自分を実感した。

「僕もね、自制心を保つのに苦労しているんだよ」さも意味ありげな城本の言葉が耳に響く。「未確認飛行物体に熱をあげちゃってるきみを見てるとさ」

「なんのこと」真妃は焦燥とともに心拍が亢進するのを覚えた。「意味わからない」

 城本は飄々(ひょうひょう)と告げた。「とぼけるきみは本当にかわいいねえ。隠したって無駄さ。きみのことは僕が一番よく理解しているんだから」

 真妃のなかに暗澹(あんたん)とした陰鬱が募っていく。相変わらずの典型的なストーカー気質。図星を指されたが、ここは無反応に徹するのが最適解だ。

 城本のうとましい冗舌が続く。「ユーチューブにアップされた、さいたま市の未確認飛行物体の動画。僕が映像解析した結果、例の物体から赤外線を検出した。あの個体は体温を持っている。つまり、フェイクではない。本物の生きたフライングヒューマノイドだ」

 心臓が殴打のような動悸を打つ。真妃はあえて反論した。「ヘリウムガスで浮かせた人形にしか見えない」

「僕の解析技術は絶対だよ。二次元映像の個体を3D化し、モデリングしてある。性別は男。身長は160から170センチ。年齢は若く、二十歳前後。問題の人相はというと……」中性寄りの容貌、城本はそう言った。力説するようにまくし立てる。「アンノウンが持つ特殊能力のなかで、飛行は最上位能力。外部動力を用いず、自力のみで空を飛ぶのは人類の夢だ。人間なのか、はたまた地球外生命体なのか。国家がひっくり返るほどの計り知れない価値を持つ、究極の研究素材であることは紛れもない。世界中のありとあらゆる悪しき者どもが狙ってくるぞ。我が組織もうかうかしてられない。空前絶後の争奪戦が始まる!」

 この男も自分と同様の結論に辿り着いたというわけか。まず私欲を存分に満たし、ついでに組織に貢献すればそれで良しと考えていたが、どうやら甘かったようだ。

 閉口せざるを得ない状況であったが、無言は危険を招く。心情をひた隠し、真妃は冷めた口調でつぶやいた。「その宇宙人捕獲のお祭り騒ぎに私も参加すればいいわけ?」

 スマホのスピーカーの向こうで、城本が嘲るように不気味に笑う。

 真妃の背筋を異様な寒気が這いあがる。渦巻きだした緊迫感に思わず息を呑んだ。 

「これは僕の個人的感情。ただの嫉妬だ」泥のような重く沈み込む数秒の沈黙ののち、城本は言い放った。「君より先に、僕があれを捕獲する」

 視界が一瞬ぐらついた。慄然と身体が凍りつくとともに、憤怒の血流が大脳を沸点まで瞬時に上昇させる。

 貴重な私の愉悦の時間を邪魔するというのか。下等なゴミ虫の分際で。そんなことが許されるわけない。

 真妃の激情を遮るかのように、城本が高らかに言った。「捕獲成功の暁に、彼へプレゼントを渡そうと思っているんだ」

 プレゼント。その弾んだ声色は、ついに一線を越える。もう我慢の限界だ。これ以上私の邪魔をするな、と真妃が怒声を浴びせようとした瞬間、なおも息荒く、城本の陰惨な言葉が放たれた。

「僕のつま先を前歯にお見舞いしてやる。頬をナイフで切り裂き、みぞおちを深く蹴り込み、死ぬ寸前までリンチを加えてやる」城本の地響きのような含み笑いが耳をつんざく。「すぐには組織に渡さない。指を突き立て、両目をえぐり出し、僕の気が済むまで延々とリンチ監禁の日々を送らせてやる」

 吐き気を催すほどの、嫉妬心に狂う城本のあまりの不快さに耐えかね、真妃は通話を切った。

 椅子から立ち上がり、ベッド横の窓際に歩み寄った。解析プログラムが人型を追跡し続けている空を眺める。しばし精神を鎮めるのに時間を要した。

 我が行く手を阻む者は、すべて万死に値する。さっさと奴を始末してしまおう。

 ひんやりした解剖メスの感触が右手に蘇る。いや、待て……。閃きが脳裏を走り、即座に水平展開を行う。

 確かにちょうどいいプレゼントといえる。相手は未知数のアンノウンだ。どのみち武器は必要だった。やがて冷徹さが戻ると、真妃はにやりと口角を吊り上げてみせた。

 城本、貴様にとっておきの秘術をお見舞いしてやろう。永遠に私だけを愛し続けるがいい。

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