16 購求
上空から持ち帰った宿題の回答はこうだった。
気圧は高度が上がるほど低くなる。空気中の酸素濃度もそれに比例する。標高三千五百メートル超の富士山頂では酸素濃度が平地の六十%になり、高山病を発症する恐れがあるため注意が必要だ。
日中においては、悪条件がさらに加わる。高度が上がると大気の量が減り、太陽からの紫外線は大気による散乱、吸収が減り強くなる。数値的には、高度が千メートル上昇するたびに紫外線は十%増加する。
つまりは、上空に向かうほど呼吸が苦しくなり、気温が下がりつつも、日差しは強くなっていくのだ。
飛行初心者である煌希のセーフティゾーンは、防寒、紫外線対策を加味したとしても、下層雲の平均高度二千メートルまでとするのが現時点では妥当と思われる。
あれから、三日連続で雲海弁当を満喫した。毎日が楽しかった。浮遊病により、社会不適合者となってしまった不安や恐怖は、空へ行けば一瞬にして吹き飛ばすことができる。
もちろん、対策は日々思案していた。すぐに実行したのは、ジャケットを以前から持っているナイロン製のマウンテンパーカーに変更したことだった。ウィンドブレーカーよりも生地が厚く丈夫で、防寒防風にも優れている。そのうえ、首にはフードがついており、これを被れば、頭部を日差しから守れて一石二鳥だ。
そして先ほど、大手オンライン通販サイトの『アマドン』から、飛行快適化アイテムが自宅に配送されてきた。痛い出費であったが、末永く付き合う空の相棒と考えれば、コストパフォーマンスはとてつもなく高い。
新型デジタル腕時計Qショックの空軍パイロット特別仕様。気温、気圧、方位、高度の高精度計測機能を内蔵。高度は一万五千メートルまで計測可能なのだ。むろん、チタン製でソーラー発電の電波時計であり、20気圧防水性能が大雨どころか200m潜水を可能にしている。ほかにも、万が一の落下に備えて強力な耐衝撃構造を有するなど、至れり尽くせり。これはもう、上之煌希専用仕様と言っても過言ではないだろう。
漆黒の色を纏った高機能デジタル腕時計を左手首に巻く。力がみなぎり、気分が高揚してくる。
煌希はふわりと宙を移動し、洋室に置いてある姿見の前で静止した。腕時計をはめた左腕を前に突き出し、ガッツポーツをとる。まったく強そうに見えない自分が映る。むしろ、男っぽくなかった。くそっ、とがっくりとうなだれ、こんな顔に産んだ母を少しだけ恨んだ。
遊んでばかりいた昨日までとは違い、今日からはやるべきことがあった。
飛行速度強化訓練だ。どうすれば、なにを強化すれば、速度が上がるのか。そんなことは、ネットで検索してもヒットしない。
それでも、漠然と思いつくイメージがひとつだけあった。昔、テレビで観たアニメのワンシーンなのだろう、巨大な岩石を担いでスクワットをする男の姿だ。
これを実践するのは現実的ではないが、あくまで考え方として展開していくと、肉体に宿る浮力を筋力と置き換えた場合、導き出される方法がある。重量物を用いて身体に負荷をかけ鍛えあげる、ウエイトトレーニングと呼ばれる訓練だ。
要は、重しをつけて飛行、もしくは飛行不可なほどの重量を宙に持ち上げればよい。
これを試すには理由があった。自分はいまどのくらいの重量を持って飛行ができるのか、という疑問である。現在、五キロまでは可能というのが、リュックサックの荷物で判明している。
そして、最終的に行きつく問題が、『女子を抱いて飛行が可能になるかどうか』だった。この問題は、空に携わる男の価値を大きく左右する大変重要なものだ。
目標空輸重量、五十キロ。初期設定としては妥当なところだろう。だが、五十キロを抱えたまま安定飛行するには、それ以上の重量を悠然と宙に持ち上げる能力が必要である。
問題は訓練用の重量物だった。砂、石、選択肢はいくらでもあるが、利便性に優れたものが望ましい。
実をいうと、アマドンからの配送物はもうひとつ存在していた。若い配達員がトラックと二階の煌希の部屋を汗だくで何度も往復し、怒りと殺意の籠もった半笑い顔で運んできたものがある。
玄関に置かれた、自重で潰れかかっているダンボール箱四個とニメートルの筒を眺める。煌希は床を歩行して、それらを和室に運んだ。
玄関と和室を五回ほど往復する。運び終わったときには息があがり、宙でがくがくと膝が笑っていた。
銀色に輝くシャフト。各重量に分けられた黒塗装の円形プレート。それらを並べ終えると、あっという間に和室の床が占拠されてしまった。
これでは足の踏み場もない、と思った瞬間に、笑いが込みあげてきた。考えてみれば、床を踏まないいまの煌希にとって、足の踏み場など必要ないのだ。
これから挑むべき相手をまじまじと見下ろす。バーベル、百キロセットだった。重量を自由に変更可能な、ウエイトトレーニング界の王である。むろん、こちらも痛い出費だった。もし想定以上の成果が得られなかった場合は、ただの高級鈍器と化すことになる。
バーベルシャフトにすべてのプレートを取り付ける。運びから取り付けまでを床で行うのは、相当な重労働だった。バーベル完成時にはすでにスタミナ切れで、三十分のおやつ休憩を余儀なくされたのだった。
重量百キロのバーベル。オリンピックで観た、重量挙げのものを想起させる。実際はそれよりも軽量のものであるが、同等の迫力と威圧感に満ちていた。
最大重量の感触を少しでも知っておきたい。煌希は床に足を降ろすと、腰を落とし、肩幅よりも大きめにシャフトを握った。
深呼吸をし、歯を食いしばる。ゆっくりと宙へ上昇する。バーベルを腕力で持ち上げるのではなく、浮力で宙へ持ち上げる。ビクともしない。浮力を最大にし、宙へ上昇した。
と、頭の血管が切れんばかりに奮闘するも、足裏は床から離れず。バーベルは不動のままだった。
煌希はバーベルを離すと、宙に浮きあがりへたりこんだ。やはり、この強化訓練《RPG》の最終目標は簡単には攻略できないようだ。
最大重量は無理だとしても、現時点での離陸限界重量を把握する必要がある。
シャフトからプレートを数枚ほど外し、重量六十キロに調整する。人間は自分の体重までは持ち上げることができる、と聞いた記憶がある。煌希は浮力で持ち上げるわけだが、果たしてどうなるのか。
再び床に降り立ち、シャフトを握る。雑念を振り払い、全力上昇した。脳天から蒸気を噴きださんばかりに力みまくる。
そのとき、バーベルがかすかに動いた。さっきとは違い、わずかな手応えがある。残りの力を振り絞る。バーベルは煌希とともに、数ミリほど床から宙に持ち上がった。
も、もう無理だ……。ガチャリと音を立て、バーベルが床に沈黙する。諦めて手を離し、煌希は宙で頭を垂れた。
想定内であるものの、あまりにも弱い浮力に意気消沈する。女子を抱いて飛行する夢が急加速で遠ざかっていく。
そのあと、段階的に重量を変えて検証を試みた。四十キロで十センチ、二十キロで一メートルほど宙に浮きあがることができた。初日は手堅く、二十キロを選択する。
飛行速度および空輸重量強化訓練の開始だ。上昇はひたすら全力で限界までのぼり、下降は重みで落下しないよう、慎重に上昇の力を弱めながら高度を落とす。
二十キロのバーベルを持ち、現在の浮上限界である、床から一メートルの距離を昇降反復する。背筋から始まり、全身の筋肉が高熱を帯びる。スタミナ切れになると、十分間ほど休憩を取り、再び訓練に戻るという流れを延々と繰り返した。
煌希の体内の浮力、もしくは反重力とでも呼ぶべきなのだろうか。それを発生させている細胞、器官、筋肉の何かしらが、重量物の負荷に痛みを覚えて悲鳴をあげているのがわかる。
無我夢中だった。ここまで我を忘れて物事に取り組むのは、初めての経験かもしれない。
次第に、肉体の悲鳴が快感になってくる。これがランナーズハイというものなのだろうか。
気がつくと、時間は正午を過ぎていた。ちょうど疲労のピークに差しかかっていたところでもあり、休憩のグッドタイミングともいえる。
煌希はタオルで汗を拭きながら、冷蔵庫のなかを物色した。胃袋が、これだと示す品を手にする。冷凍和風きのこパスタだった。さっそく袋から取り出し、冷蔵庫の天板に載った電子レンジにセットした。加熱時間は記載指示の六分間でスタートする。
煌希はコップに注いだ天然水を飲み干すと、電子レンジ前の宙で横になった。待ち時間の暇潰しに、スマホのブラウザを閲覧する。とりあえず、ニュースサイトをブックマークから選んだ。ニュースを読むのは久しぶりだった。この体質になってしまってからは、世間の情勢にかまっている暇はなかったのだ。
一面記事は政治のことばかりだった。社会人の端くれとして目を背けてはいけないものだが、それでも政治関係は無意識に飛ばしてしまう自分がいる。トピックス一覧に移り、国内、国際、経済、スポーツ、エンタメ、と並び順に項目のなかの記事タイトルを読み流していく。気になる記事のみ、全文を斜め読みした。
そして、最後の項目である科学。同様に上から順に、記事タイトルを読み流す。
電子レンジの加熱終了の電子音が流れた。煌希はスマホから顔を上げると、宙で横になっている身体を垂直に起こし、電子レンジの取っ手に手をかけた。
だが、いつまで経っても、その扉を開けることができなかった。
煌希はスマホを凝視していた。全身が硬直し、動けなくなる。
スマホに映る科学項目中のひとつの記事タイトルが、脳内で急拡大された。
――『埼玉県さいたま市上空に未確認飛行物体』
煌希は動揺でぶるぶると震える指を動かし、その記事をタップした。
――人型生物? 幽霊? 宇宙人? 複数の目撃者と、その謎の証拠動画。
三日前、三人の目撃者がスマホで撮影した未確認飛行物体の動画内容だった。動画自体は動画共有サイト、アーチューブに投稿されたものらしい。二日間で、その三つの動画が百万回再生されたことにより、話題になったそうだ。肝心の動画のリンク先が最下部に貼ってある。震える指をなんとか抑え、リンク先をタップした。
アーチューブに画面が切り替わり、その内のひとつの動画が画面大きく動き出す。
わた雲を含んだ青空に、ひとつの黒い点があった。鳥にも見えるが、動きがおかしい。上空の雲に向かって、垂直にゆっくりと点は動いている。地上と雲の中間の高度だ。
画面はズームアップ、黒点に迫る。撮影者である若い女性の一驚の声が、スピーカーから響いた。デジタルズームのためか、画像は粗くなるものの、その影の輪郭と色彩を映しだしていた。頭部に胴、四肢が伸びた人型の物体が垂直に浮かんでいる。ジェットパックのような飛行装置の類いは見受けられない。
見紛うことなき、人間の姿。ブルーのジャケットにブラックのズボン、背にはブラックのリュックサック。ジャケットについているフードを頭に被り、顔を上方に向けているようだ。
黒点は上空のわた雲に到達後、しばし空中静止のあと、左方へと進路を変更し、水平に移動。次第に画面から見えなくなった。
開いた口が塞がらないとはまさにこのことだった。防寒対策として身に着けたブルーのマウンテンパーカー、普段使いのリュックサック。見覚えがあるというよりも、そう、これは、自分の私物である。飛行形態の上之煌希の姿に間違いなかった。
不幸中の幸いであることに、右側面から映しだされたその横顔は、フードから突き出た鼻先、口、顎だけであった。しかも、拡大された画像は劣化が激しく、ドット絵のようでもあり、鮮明に識別できない。残りのふたつの動画も再生してみたが、違うアングルで斜め下と背面からであり、素顔は認識できなかった。
額から冷や汗がどっと流れる。ぎりぎりのところだが、正体は暴かれていない。
最悪の事態は避けられたものの、空中飛行する人間の存在が、世に露呈してしまった。指先が震えだし、全身の末端が冷たくなっていく。
夜間はまだしも、日中に飛行するというのは、あまりにも無謀な行為だったのかもしれない。
だがしかし、心の奥底では、いずれこうなるだろうと思っていたのだ。いつまでも家に引き籠もってはいられない。外に出て活動するのは、人として当たり前の行動なのだ。
何度も深呼吸をする。天井を見つめ、そして目を閉じた。
素顔が映らなかったのは、本当に幸運だった。また宿題が増えた。これを教訓にして対策を練ろう。そう自分に言い聞かせ、ゆっくりと目を開けた。
大丈夫。大丈夫だ。まったく問題なし。いつもの沈着冷静な自分に戻りつつある。
腹が減った。よし、昼飯にしよう。
煌希は電子レンジから離れると、キッチンシンク下の収納扉から、ストックしてあるカップラーメンを取り出した。ヤカンに水を入れ、ガスコンロで湯を沸かし始める。
悠然とスマホをいじりつつも、待ち時間中に気分が悪くなり、宙で横になった。頭を抱えながら、悶絶の境地に突入する。
前言撤回。やっぱり、問題ありまくりだ。




