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15 高度

 先日、夜間飛行で離着陸を行った廃工場。その少し先にあるコンビニに、煌希は入店した。個室トイレで十分間の休憩をし、心身ともにリフレッシュした状態で、弁当コーナーに挑む。

 脳内でのトーナメント戦が次々に行われ、強者が勝ち上がっていく。右手に三色弁当、左手にビッグチキンカツ弁当。この二品の決勝戦が始まった。激しい睨み合いが続く。つかみかかった三色弁当。それを受ける止めるビッグチキンカツ弁当。三色弁当が最後まで踏ん張りを見せたが、けっきょくビッグチキンカツ弁当のパワーに圧倒され力尽きた。

 王者ビッグチキンカツ弁当を高々と掲げて勝利を称え、レジにて購入する。店員はくすくすと笑っていたが、そんなことは気にしない。煌希は上機嫌でコンビニをあとにした。

 さらに北東へ進む。商店街から正反対の方向、栄えていない田舎方面へ。

 道中にある店舗の個室トイレを、客を装って使用する。その休憩を繰り返し、歩行を繋いでいく。ホームセンター、パチンコ屋、ドラッグストアを経由し、一時間近く歩いていた。

 休憩さえ取れれば、無限に歩ける。今日の煌希は無敵だった。

 田畑の割合が明らかに多くなっていた。この辺りで手を打とうかと思い悩む。

 煌希はリュックサックからスマホを取り出すと、地図アプリを起動した。GPS機能が働き、地図が動く。現在位置が判明した。さいたま市北東の外れだ。あとわずかで市の境を越える。

 地図を衛星画像に切り替えた。市の境でもある川が映っている。指で地図を動かす。川に架かる橋の先に、あるものを見いだした。煌希は目を見張った。

 五十メートルほどの橋を越え、隣の市に足を踏み入れる。農家らしき家屋が点在している。いくつかの民家を越え、しばらく進むとそれは現れた。

 見渡す限りの田園地帯。穂をつける前の緑鮮やかな稲が一面に広がる。作業中の農夫がいないか辺りを見回す。というより、広大すぎてどこにいるのかさえ判断がつかなかった。

 意を決して、公道から土そのもので作られた狭い畦道(あぜみち)に踏み込む。左右は水田だ。足を滑らせれば悲惨な目に遭うだろう。

 何重もの蛙の合唱が、耳にうるさく響く。人目を完全に避けるためにも、可能な限り田園の中心付近で離陸したい。

 ふと、意識から逸れていたものに気がついた。田園地帯の外れに巨大な送電鉄塔が建っている。何百メートルも離れた同じ鉄塔から張り巡らされた高圧送電線。それを見上げた瞬間、煌希の足が止まった。過去に学習したとおぼしき記憶のなかから、情報の断片が浮かびあがる。

 ――高圧送電線には被覆が施されておらず、導体が剥き出しになっている。

 一瞬、恐怖で足がすくむ。触らないにしても、側を通る可能性はある。剥き出しの高圧送電線は、近寄るだけでも放電で感電する恐れがあるのだ。

 息を呑んで、ゆっくりと歩き出す。そう考えると、一般道路に立ち並ぶ電柱の電線も、感電の危険性は否めない。

 これは良い教訓になった。空を飛ぶという行為にも、地上とはまた違った危険が潜んでいる。もっと注意深くならなくては。

 煌希は慎重に歩速を上げていった。送電鉄塔から離れた田園の中央へと向かう。目指す先が本当に中央なのかは、目検討で判断するしかない。

 腕時計を見ると、十三時半が過ぎていた。胃袋が求める、最適な昼食時間を超えてしまっている。

 最高のものを、最高のときに、最高の場所で。そんなキャッチフレーズを掲げていただけに、焦りが募る。

 しばし黙々と歩みを進める。頭のなかは弁当のことで埋め尽くされていた。

 公道から遠く離れること。送電鉄塔からも充分に距離を取ること。歯がゆさが限界に達したその瞬間、腹の鳴る音とともに、足が止まった。必須条件がようやく揃った。矢継ぎ早に、ぐるりと四方を眺め渡す。人影は見当たらない。草原にぽつんとひとりたたずんでいるような、見渡す限り緑一色に染まる田園地帯。もうここが中央でいいだろう、と英断に至る。

 上空を仰ぐ。垂涎の念を駆り立てる、いくつものわた雲がゆっくりと流れている。

 初めての日中飛行。無謀なのは重々承知している。人目対策はこの田舎作戦しか思いつかなかった。それでも、正体を曖昧にする方法がある。

 それは、全速力で上昇することだ。万がいち目撃されたとしても、高速移動している人間の容貌を正確に視認することは難しいはずだ。と、苦し紛れの言い訳であるが、うんうんとひとりうなずいてみせる。

 煌希は腕時計で時間を確認すると、しゃがみ込んで両脚に力を込めた。遙か直上の積雲に照準を絞る。そして、満身の力を込めてカエルジャンプのように上空へ飛び上がった。

 浮力を最大へと導き、両手を握り締め踏ん張り続ける。早くも全身の筋肉が痛みだした。重力に逆らう負荷に圧されながらも、死に物狂いで垂直上昇に意識を集中した。風の音もなにも感じなかった。一心不乱に上空へ駆けのぼる。

 全身全霊の上昇だった。目撃者に視認させない、正体をごまかせるであろう、最高の速度に達する。

 と、思ったが、これでは……無理だ。ジョギング、もしくは競歩並みの速度だろうか。前回よりは確実に速くなってはいるが、しかし、とても満足できるものではなかった。

 明日から強化訓練開始だ。それも、とてつもなくハードな内容のやつを。確固たる決意だった。

 脇目も振らず、強上昇に徹する。どのくらいの高度なのか判然としない。途中でがくんと速度が落ちた。どう頑張っても、いまの体力では最高速度を維持できないようだった。それでも煌希は自ら速度を落とすようなことはせず、全力を尽くして必死にのぼり続けた。

 朦朧としかけてくる意識のなか、ひんやりとした湿気を吸い込んだ気がした。すでに身体はふらふらで上昇は止まりかけている。煌希は上昇を中断し、全身から力を抜いた。半ば期待を胸に、周囲に意識を向けてみる。雲らしき姿はどこにもなかった。

 額から滴る玉のような汗がどっと噴き出してくる。腕時計を見ると、離陸から五分しか経過していないことが判明した。息切れが止まらず、膝から崩れるように、宙にへたり込む。

 速度不足に次ぐスタミナ不足。問題は山積みである。

 全身に風を受け、しばしの休憩を挟んだ。呼吸が徐々に穏やかになっていく。平静さが思考に戻ってくると、喉の渇きにも似た、とある感覚が湧きあがった。

 上昇中はずっと我慢していた。あえてそうしていた。もっと高高度の方がいいだろうと判断したからだ。だが、立ち止まってしまったら最後。この自制はもはや利きそうにない。煌希は視線を頭上からゆっくりと下ろし、はるか下方の地上を眺めた。

 一瞬、ミニチュア模型の世界を彷彿とさせる。視界に収まりきれないほどの広大な街並みが見えた。道路が毛細血管のように縦横無尽に走り抜ける。そのなかを一定の緻密な間隔を保ち、民家と田畑が凝縮しながらひしめき合う。人の姿は見えない。というより、小さすぎて肉眼では視認できなかった。

 圧巻の光景だった。夜間とは別世界、これが地上の真の姿なのだ。煌希はうっとりと眺め続けた。

 ここから地上の人間が見えないのであれば、地上からも煌希の姿が見えることはないだろう。と、冷静に思えた瞬間に我に返った。それぐらい長い時間、心酔していたようだ。この高度帯はもう安全圏といえる。息を整えると、負担の少ない抑えた速度で上昇を続けた。

 離陸からの上昇時間、十五分が経過した。さらなる上空のわた雲を目指す。進めば進むほど、明らかに気温が低下していく。煌希は肌寒さを感じ、いったん空中停止をした。リュックサックからウインドブレーカーのジャケットを取り出して着込む。頭上を見上げると、巨大な雲面が待ち構えていた。

 再び上昇する。辺りに霧がかかってきた。近づくほどに空と雲の境界がわからなくなる。離陸から計二十分で到達。これが雲であるならば、高度はおよそ二千メートル。となると、煌希の飛行速度は時速六キロメートルということになる。非常に残念な数字である。

 霧が深くなり、周囲が白濁の世界に変貌していく。雲内部に突入したようだ。全身が霧吹きをかけられたように冷たく湿る。着込んだウィンドブレーカーのジャケットは、首もとにフードがついていないタイプで、頭部を水滴から防ぐことができなかった。体感温度が一気に低下し、煌希は身震いをした。幻想的な雲という芸術品も、間近で見ればただの霧、水の粒の集合体にすぎないのだ。

 視界が白一面に覆われる。濃霧のなかを風の鳴る音だけが反響する。圧迫された白い空間に閉じ込められた恐怖感がふいに襲いかかり、反射的に上昇速度が上がる。

 少しずつ濃霧の世界が薄らいでいった。空間の青みが増すごとに、安堵感が比例して膨れあがる。

 霧が晴れ、一気に視界が開けた。上層雲のない、完全なる紺碧の世界が爆発的に広がる。

 眩しかった。近くに感じるはずもなかった、すべての光源である太陽という天体が、いまだかつてないほどに接近していた。

 雲を抜けてからもしばらく上昇を続け、目指す絶好のポイントで空中停止をした。煌希は、満を持して足もとを見渡した。

 水蒸気で作られた無限の絨毯がたなびく、一面の雲海がそこにあった。純白の巨大なふわふわのわたが大きく波打っている。雲の切れ間が無数にあり、いくつものわた雲が連なって広大な雲海を構成しているのがわかった。

 煌希は奇声とも思える歓喜の声をあげた。求めていたものを手に入れた瞬間だった。気分が最高潮に達し、いままで味わったことのない爽快感が全身を駆け抜けた。

 この雲海を自分の寝床にしたい。これは自分だけのものだ。まさに有頂天だった。煌希はこの上ない幸福感に浸った。

 太陽を仰ぐ。やっぱり眩しい。こんなにも太陽の存在を間近で感じたのは初めてのことだった。

 いや、待て……。これは、眩しすぎるのではないか……。妙な不安がよぎる。煌希は太陽を再び確認した。

 日差しが強烈だった。気温は低いのに、皮膚を焼くような暑さがある。それに加え、わずかな息苦しさも感じた。頭のなかが急にざわめく。

 高度二千メートル。これが答えなのだろう。煌希が知らなかった、気づかなかった未知なる世界。ただの無知ともいえることが、非常に腹立たしい。

 少しでも日差しを遮る必要があった。煌希は持参していたタオルの存在を思い出し、リュックサックから取り出した。急ぎ頭に巻く。

 度重なる課題に、新たなる対策。持ち帰る宿題は多い。

 困ったものだ、と腕を組み、しばし思考を巡らせた。だがそんなことよりも、もっと重要なことがあったような気がした。

 手に持ったリュックサックの重みが、本来の目的はなんぞやと、逸れた軌道を修正する。

「あっ! 弁当!」ビッグチキンカツ弁当の存在を忘れていた。空での弁当。略して、空弁。早くしないと傷んでしまう。

 煌希は雲海の上であぐらをかいた。ビッグチキンカツ弁当をリュックの底から取り出し、あぐらの上に載せる。このために上空にのぼってきたのだ。

 慎重に弁当のラップを外す。蓋を取った。割り箸を手に取り、合掌のポーズをする。「いただきます!」

 割り箸を割ると、さっそく五切れに分かれたビッグチキンカツの真ん中の一切れをつまみあげた。(よだれ)が出そうになるのを必死に堪える。雲の上での最高の贅沢だ。含み笑いまで漏れてしまう。お遊びはそこまでにしておいて、見つめすぎた一切れをゆっくりと口に運ぶ……。

 そのとき、一陣の風が吹いた。

 煌希には、その光景がスローモーションで見えた。突風は右から襲いかかり、あぐらの上の弁当を吹き飛ばした。空中分解し、バラバラになって急降下していくビッグチキンカツ弁当。すべてが素材に戻り、大地へ飲み込まれ消え去っていく。もはやそれは、超大作映画のラストシーンだった。

 煌希は唖然と傍観するしかなかった。肉眼で認識できなくなると、はっと我に返り、視線を箸に戻した。箸先に一切れの姿はなかった。

 リュックサックからマグボトルを取り出し、喉を鳴らしながら天然水をむさぼる。やがて、ほっと吐息をついた。

 手を合わせ、再び合掌。そして、慣例の言葉。「ごちそうさまでした!」

 落ちた弁当の残骸は誰が拾うのか。はたまた、誰かの脳天に直撃するのか。落下させた罪悪感を心の隅に追いやる。

 はは……。もう笑ってごまかすしかない。

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