14 好学
翌朝の月曜日。煌希は勤務先である荻山精機に電話をかけ、上司に有給休暇の旨を伝えた。まだ微熱が続いている。身体が重く、動けそうにない。そんな理由だった。上司である清水は許可はしたものの、煌希の胸に突き刺さる言葉を残した。
〈一週間休んでも、まだ良くならないか……。長いな……〉
嘘ではありません。原因不明の浮遊病が治らないのです。その言葉は、清水に決して語られることはなかった。
自宅アパートの洋室に浮かんでいる煌希は、気持ちを切り替え、スマホのブラウザで検索を開始した。昨晩に持ち帰った宿題がある。ヒットしたサイトを片っ端から閲覧していく。
――上空の気温。気圧による温度変化。
いくつかのサイトの説明を要約してみる。
上空には地上と異なる気温がある。気圧による温度変化だ。地上から高度が百メートル上がるごとに〇・六度ずつ下がる。要は千メートルごとに気温が六度下がるわけだ。そのうえ、寒気の影響次第で温度はさらに低くなる。スカイダイビングにおける航空機からの飛び出し高度は平均四千メートルであるため、気温は地上のマイナス二十四度。ちなみに、旅客機は高度一万メートルで飛行するため、その気温は地上のマイナス六十度にも達するのである。
昨晩の飛行高度を推測する。地上の気温は二十五度。飛行時の体感温度は二十度前後。高度八百メートルといったところであろうか。寒さの限界で引き返した地点は、気温十度以下と考えると、高度はおよそ二千五百メートルか。
完全防備で挑めば、少なくともスカイダイビングと同じ高度四千メートルまではいけることになる。
昨晩の興奮が冷めておらず、気分は高揚していた。次のステップに進むのはまだ早いのかもしれないが、どうしても欲求を抑えきれなかった。
日中の空を飛びたい。雲の上、雲海を滑走路にして飛んでみたい。
その指はすでに次の検索をはじめていた。
――雲の高度。
単純に雲といっても実際には種類が多数存在し、それぞれに名前がついている。圧倒的な存在感をもつ入道雲などの積乱雲は、雲頂が一万メートルを超えることから、その上にのぼるためには極地並みの防寒装備が必要であり、初心者向けとはとてもいえない。
積乱雲でなくとも、手頃で最も身近な下層雲というのがある。高度千~二千メートルにある積雲、層積雲、わた雲、うね雲といわれるものだ。というより、地上から上空へ向かうとまずはじめにぶつかるのが下層雲である。この高度帯は気温が地上のマイナス六~十二度であり、最も調整が容易で妥当と思われる。
煌希は窓から空を眺めた。晴天のなか、見事な入道雲と、それを取り巻く無数のわた雲が浮かんでいる。右手の親指と人差し指で銃の形をつくり、わた雲に狙いを定めた。高度二千メートルならば地上のマイナス十二度。本日の日中最高気温予報は二十八度。となると、目標地点の気温は十六度だ。真冬並みの厚手の防寒着は必要ないだろう。
問題は、日中においての離陸場所だった。どこから飛び上がっても、目撃される可能性は極めて高い。例のごとく、スマホの地図アプリを起動する。
日中も結局のところ、夜間と同じ結論だった。高所からの離陸が最善である。
ただし、二階建ての屋上クラスでは低すぎる。もっと高所の、最低でも五階建てのマンションクラスは欲しいところだ。
一心不乱に検索を行う。どんなに熟考を重ねても、要望に沿うものは見つからない。
とどのつまり、数ある高所の屋上には、関係者以外の一般人は立ち入りできないのだ。デパートの屋上ならば当然のごとく自由に出入りが可能だが、そこには確実に大勢の客が存在する。
日中に安全な離陸場所などありはしない。まさに、八方塞がりだった。
その日の午前十一時過ぎ。煌希は和室にある古びた洋服ダンスから、グレーのウィンドブレーカーの上下を取り出した。そそくさと、だらしなく丸襟が伸びた白のTシャツと短パンを脱ぐ。そして、丸襟の伸びてない外着用のブルーのTシャツ、それにウィンドブレーカーのズボンに着替える。
通勤でも使用している普段使いのリュックサックを開く。荷物はウィンドブレーカーのジャケット、タオル、冷たい天然水の入った直飲みマグボトル。
煌希はリュックサックのファスナーを閉めると、肩ベルトに腕を通して背負った。これなら人目には、ジョギングかウォーキングをしているように映るはずだ。
口もとが緩み、にやにやと自然に笑みがこぼれた。本日のとっておきの楽しみがある。そのことを考えると笑いが止まらない。
デジタルの腕時計をつける。スマホも持った。指差しチェックを行う。忘れ物なし。
煌希は玄関に降り立ち、スニーカーを履くと、すぐさま扉を開けた。施錠し、その目的のために歩き出す。頭のなかで本日のお題を読みあげた。
――雲の上でコンビニ弁当を食べよう。空での弁当。略して、空弁。




