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12 好機

 インフルエンザ(仮病)休暇の最終日の正午。煌希はアパートのダイニングルームであぐらをかき、魚肉ソーセージを片手にぼんやりとしていた。むろん宙に浮いている。大きくあくびをしながら目をこすり、寝癖のついていない頭を掻いた。

 煌希は目覚めたばかりだった。昨夜の驚異的な疲労で、半日以上の睡眠を余儀なくされた。筋肉痛になった両脚を揉む。散々な目に遭ったが、とにもかくにも買い出しは成功したのだ。ひとつの難題をクリアしたという成果に、いくばくかの安堵を感じていた。

 朝食兼昼食である魚肉ソーセージの包装フィルムを剥き、大きく一口をかじる。咀嚼を繰り返し、また食らいつく。瞬く間に食べ終わった。包装フィルムをゴミ箱に投げ捨てると、コップに注いだ牛乳を一気に飲み干し、ほっと吐息をついた。

 たまには、すぎ家の豚汁納豆定食が食べたい。あの優しい味がたまらないのだ。

 店でテーブルに着き、ゆっくりと食事をする。そんな当たり前のことが困難になった悲しい現状。いつしか打破できるだろうか。遠い目にならざるをえない。

 ため息をつき、宙で横になった。疲労がまだ残っているせいか、眠気でまぶたが重くなる。が、しかし、押し寄せる猛烈な切迫感が、閉じかける目を開かせた。

 今後のことが頭をよぎる。明日からの会社はどうするのか。

 浮上欲求抑制時間は十分間を超え、平均十五分間の地上滞留は可能になった。会社での勤務時間は最低八時間。十五分ごとにトイレに隠れて休憩を取る。毎時三、四回のトイレだ。現時点での方法はこれしかない。

 即決だった。病欠の続行、である。

 有給休暇の残数はあと十二日。それをすべて使い切ったあとは……。一寸先は闇だ。煌希は底なしの絶望感に包まれた。

 それからしばらくは放心状態だった。今日はどうしよう。そんなことを思う。特にすることがない。というより、なにをすべきなのかわからなかった。

 ふと、窓の外から子供の声が聞こえた。数人ではしゃぐ、甲高い声だ。煌希は和室の窓際に移動すると、レースカーテンの隙間を指で広げて外をのぞいた。子供たちの姿は見えなかった。ばたばたと駆けずり回る足音が響く。このアパート周辺で追いかけっこでもしているのだろう。

 青く澄んだ空に巨大な入道雲が浮かんでいる。煌希はその場の宙で仰向けになり、レースカーテンをさらに十センチほど開けて空を眺めた。入道雲が少しずつ形を変えて流れていく。

 すべてが不安定だった。精神、そして自分自身の存在さえも。

 煌希はひとり静かにつぶやいた。「母さん、僕っていったいなんなんだ。もう嫌だよ、こんなの……」

 強い孤独感が胸を締めつける。母が生きてさえいれば、ここまでの事態にはならなかったかもしれない。

 頬を雫が伝う。ポタポタと床に滴下した。久しぶりに泣いた。もうどうしようもない。

 ただ茫然と空を眺めた。やがて涙が乾き、なにも感じなくなるのにそう時間はかからなかった。

 入道雲をじっと見つめる。しばらくすると、それが輪郭を歪め、姿を変え、巨大な城の形になっていくのが見えた。幻聴のように耳に残る子供たちのはしゃぐ声が、幼少期に観たアニメのワンシーンを想起させる。

 ああ、そうだ、と思わず声が漏れる。鈍化していた思考が加速を始め、煌希は思い出した。

 当時流行していた妖怪退治アニメの影響からか、妖怪はすべて敵であると勝手に思い込んでいたため、長い年月のなかで記憶が改変されてしまったのだろう。

 まず、目はない。触手を失ったクラゲを縦に伸ばしたような、半透明の容姿で、デカい口があるだけの浮遊体。見た目は敵キャラそのものであるが、妖怪・浮かびあがりは、敵キャラではなかった。その物語の主人公だ。

 地上に生み落とされた雑魚妖怪の浮かびあがりが、天空城の財宝伝説を聞きつけ、死に物狂いで大空を浮上し、空賊妖怪と争奪戦を繰り広げる冒険活劇アニメである。

 忘れていた。僕は、そのアニメが大好きだったんだ。

 そのとき、煌希のなかに強い衝動が走った。反射的に上半身が跳ね起き、再び窓から仰ぎ見る。上空に釘付けになった。

 心の底からなにかが浮上してくる。疑問だ。ただひとつの熱い疑問だ。

 鼻腔に満ちる高高度の香りに誘発されて、全身の細胞が熱を帯びる。そんな感覚が湧きあがる。

 自分は、いかにこの浮力を抑え込んで常人の生活を送るか、ということに執着していた。確かに地上滞留は早急に習得すべきスキルではあった。だが、それがすべてではないのだ。

 重要なのは次のステップに進むことだ。拒むのではなく、浮力という本能に向かい合う。これから生き抜いていくためには、自分の真の力を見極める必要がある。

 ふっと笑いが鼻から漏れた。アニメの妖怪と自分自身を重ね合わせる。そんな行為をするのは、精神年齢が幼稚なままの証拠だ。

 でも、それでも構わないと思った。流れ込んでくる高揚に抗うことなく、いまは心の赴くままに身を委ねる。

 このまえ偶然にも見つけだした、決断時にすべき儀式がある。

 洋室に移り、姿見の前に立つ。碧眼の青年が目を輝かせてうなづいた。煌希もうなづいた。満場一致だ。

 ――空を飛んでみよう。

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