11 困難
びくっと身体が痙攣し、驚いて目を覚ました。見知らぬ狭い空間に、洋式トイレがある。
現状を把握するのに少し時間を要した。寝てしまったようだ。
時間は二十一時十五分だった。正確にはわからないが、一時間はトイレで寝ていた計算になる。
浮上欲求抑制の代償である体調不良は、かなり回復していた。宙で両脚の筋肉を念入りに揉みほぐしながら、徐々に思考を巡らしていく。
あと四十五分で閉店になってしまうが、マルオツ内の最強安全地帯にいるわけだから、慌てることはない。
脳内で購入予定商品を再確認する。制限時間は十分間だ。ゆっくりと商品を物色している暇はない。対象商品のコーナーの場所、順番、どれも重要事項だ。
再度、腕時計を眺める。値引き商品の残数が気になった。ここまで来てすべて売り切れていたら、もう立ち直れない。
二十一時二十五分になった。そろそろ戦闘開始といこう。
煌希は大きく深呼吸し、床に降り立った。解錠し扉を開くと、目の前の小便器で中年男性が用を足していた。 浮力抑制中のものとは違う吐き気に襲われ、目を逸らす。トイレという場の空気で深呼吸したことに、激しく後悔の念を抱いた。
安全地帯をあとにする。いくぞ、と意気込んだ。煌希は入り口に積んである買い物カゴを手に取り、真っ直ぐ奥へと向かった。
店内は思った以上に賑わっている。見たところ、会社帰りのサラリーマンが多いようだ。
惣菜コーナーを抜け、腹の虫が泣いて喜ぶ、弁当コーナーへと到着する。残りわずかだが、数種類の弁当が陳列されていた。狙うは、赤色の半額シールが張られた品。煌希は大急ぎで目を走らせた。
探すまでもなかった。発見した。閉店間際の弁当だ、すべてが対象に決まっている。のり弁当二個、チキン南蛮弁当一個、イカフライ弁当二個に半額シールが貼られている。
ここはやっぱりタルタルソースでしょう。即決だった。チキン南蛮だ。煌希は迷うことなく手を伸ばした。
その瞬間、物凄い速さで誰かがチキン南蛮弁当を取りあげた。煌希の手は空を掴んだ。
ああ、取られた。ちくしょう。心のなかでそう叫んだ。腹の底から怒りが湧きあがる。しかしそこは、ぐっと堪えて残り物に目を移す。
イカフライ弁当だ。手を伸ばそうとすると、それに向かって先に伸びる手が見えた。虚しくも、別の客のカゴに入っていくイカフライ弁当。もうひとつのイカフライ弁当も誰かの手が掴み上げていた。
遅かった。落胆するも、即座に最後の砦へと視線を移す。
のり弁当、こちらも二個ある。問題ない、絶対に間に合う。煌希は期待を込めて手を伸ばした。
のり弁当に指先が触れた瞬間、それは持ち上がった。虚空を掴む煌希の手。のり弁当は別の客が掴んでいた。
「ああ!」煌希は思わず声をあげてしまった。憤然と我を失いかけるなか、はっと慌てて目を戻す。残るもうひとつの希望がある。
最後の半額シール付きのり弁当の姿は、もうそこにはなかった。
すべては一瞬だった。貧乏人の見方、半額弁当終了の鐘が脳内に響いた。心に風穴があき、絶望の二文字が吹き抜ける。もう誰もこの穴をふさぐことはできない。
「よお、さっきのロボット兄ちゃんじゃねえかよ」聞き覚えのある声が呼びかけてきた。
驚いて振り返りると、そこにいたのは柄の悪いストリートファッションに身を包んだ、コンビニでたむろしていたチンピラだった。残りのふたりも一緒である。
連中のひとりが持っている買い物カゴに意識が向く。よく見ると、いま取得に失敗した五個すべての半額弁当が入っていた。
横取りしたのは、お前らか。っていうか、チンピラがスーパーに半額弁当買いに来てんじゃねえ、と煌希は静かに目で訴えた。
長身で見るからにリーダー格の馬面が薄ら笑いを浮かべ、煌希の顔をじろじろと舐めまわすように見つめている。「ブルーのカラコンつけてるのかよ。いいねぇ。可愛い顔がさらに可愛くなるな」
にやにやとなにを考えているのかわからない。馬面がその不気味な顔を煌希に近づけた。背筋に悪寒が走り、得体の知れない恐怖に全身が縮こまる。
「ひょっとして、この半額弁当が欲しかったのか?」馬面は半額シールの貼られたのり弁当ひとつを自分たちのカゴから取り出し、煌希に見せつけた。「なんなら譲ってやってもいいぜ」
にやりと不敵に口角を吊り上げ、他のふたりも煌希を嘲笑った。
悪い予感が頬を引きつらせる。煌希は首を横に振った。「いえいえ、譲るだなんてとんでもない。買うつもりはないけど、この時間帯のお弁当はなにがあるのかなって、ちょっとのぞいただけですので」
譲渡したという好意を押しつけて、どこか暗がりに連れ込むのは容易に想像できる。
「そっ、それに、まだ他の買い物がありますので、自分はこれで……」煌希は軽く会釈をすると、逃げるようにチンピラたちから立ち去った。背後から彼らの視線を猛烈に感じる。
なんて不運なんだ。後回しにした惣菜コーナーに戻ったとしても、また付きまとわれ、半額商品は根こそぎ横取りされてしまうだろう。いずれにしても、近寄らないのが無難だ。あの三人組から遠く離れたコーナーから回って、早急に撤退するとしよう。
足早に進み、壁際最奥の生鮮食品コーナーに近づく。ぴたりと手前で足が止まった。野菜や卵、食肉を見やり、くるりと踵を返す。今回はその類いに用はなかった。
煌希はそこからS字を描くように各食品コーナーを回った。インスタントラーメン、缶詰、レトルトカレー、冷凍食品などなど。料理は苦手ではないが、しょせんは男のひとり暮らし。買う物はいつも決まっている。
あっという間にカゴが一杯になった。もう退店したのか、それともどこかに潜んでいるのか不安は拭えないが、用心のために惣菜と弁当コーナーを避け、会計レジのある出口方面へと向かった。
足もとから這いあがり、背筋を通る不快感に、前兆を感じ取る。腕時計を見ると、トイレの退室から八分間が経過していた。予想以上に時間が取られている。
焦りが募り、鼓動が高まる。レジコーナーは混んでいた。どこの列を見ても、五人以上は並んでいる。とりあえず、一番左端のトイレ側レジへと急ぐ。どうせなら、わずかでもトイレに近い方が有利だろう。
列に並び、順番を数える。五番目だった。喉の渇きと耳鳴りぐあいからして、限界の十分間が過ぎようとしているのがわかる。この人混みのなかで怪しまれるのは非常に危険だ。煌希は呼吸を整え、平静を装うことに集中した。
焦燥感に駆られるほど、人の流れがスローに感じ、抑制の禁断症状が加速する。顔を伏せて表情を隠す。半開きになろうとする口をつぐみ、必死に堪えた。
「次のお客様どうぞ」女性の快活な声が耳に届く。
気がつくと煌希の順番がきていた。一杯になった買い物カゴをレジ台に載せる。すると、レジ係である丸々と太った中年女性が、煌希の顔をまじまじと見つめながらつぶやいた。「あの……顔と目が真っ青ですけど大丈夫ですか?」
見つめ返すと、頻繁に会計をしてもらっているパートのおばさんだった。いつもの常連だから心配になって声をかけたのだろう。顔が真っ青だからって、目も青くなるわけがないだろう、と言いたがったが、実際、碧眼なのだから否定しようがなかった。
「あ、えっと、全然大丈夫ですよ。目にブルーのカラーコンタクトを入れてるんで、その影響で顔も青く見えるんじゃないかな」無理がありすぎる説明に、煌希は冷や汗の滲む思いで愛想笑いを取り繕った。心配してくれるのはありがたいが、そんなことより一秒でも早く手を動かせ、と叫びたい心境だ。
やっとのことで会計を済ますと、急いでサッカー台に移動した。カゴ一杯の商品をレジ袋に次々と放り込んでいく。
詰め終わると、荷物は二袋になった。両手にレジ袋を持ち、トイレに向かって一目散に歩き出す。
もう限界だった。吐血の幻覚を見てしまうほどの苦痛が、五臓六腑を駆け巡り、骨をも軋ませる。
煌希は男性マークのトイレに駆け込んだ。先ほどの六畳一間の空間、最強の安全地帯だ。
だが、そこには先客がいた。三人の男が一斉に煌希に顔を向ける。蛇に睨まれたカエルのように身体が硬直し、足が止まった。
馬面が冷笑を浮かべる。「ロボット兄ちゃんよぉ。よっぽど俺らのことが好きみてえだな」
忌まわしきチンピラ三人組だった。二台の小便器でふたりが用を足していて、リーダーの馬面が洗面台の前で立っている。
「どうした。もっとなかに入れよ」馬面がつかつかと煌希に迫り、顔を近づけてきた。
ふたつの個室トイレは空いている。早急に入って休憩を取らねばならない。
身長165センチの煌希を、長身の馬面が舌舐めずりをしながら見下ろす。大便のような口臭を吐きながら言い放った。「大でも小でも、お好きな方をどうぞ」
煌希の脳裏に、『危険』の文字がサイレンを鳴らしながら現れた。
「結構です。失礼しました!」煌希は踵を返し、全力で立ち去った。
自動ドアを抜け、外に躍り出る。小走りで背後を何度も何度も振り返り、連中が追跡してこないか確認した。
あのチンピラどもめ、覚えてろ! 次は、浮かびあがり大魔神の究極鉄拳を顔面に叩き込んでやる! 煌希は半泣きで内心そう叫んだ。
人々が往来する商店街を、両手のレジ袋を揺らしながら足を進める。怪しまれないように歩こうとするも、チンピラたちへの激怒のためか、アドレナリンの分泌で苦痛が緩和され、力強く荒々しい闊歩へと発展する。
気がつくと、小雨が降っていた。当然、傘は持っていない。天気予報のチェックを忘れていた。もう負のスパイラルは止められない。
ふふっと笑いが漏れる。こんな災難続きはめったに経験できない、というポジティブな考えが、唐突に脳内に流れ込んでくる。得をしたのだ。それは幸運ともいえる。この素晴らしき一日に、煌希は泣き笑いながら神に感謝した。
そのあと、コンビニの個室トイレに行くも、故障中の使用不可であえなく撃沈。休憩なしの地獄道となり、浮上欲求抑制時間二十分という前人未踏の新記録で自宅に到着。そして感動のフィナーレは、ビールとケーキを買い忘れたという衝撃とともに、玄関での盛大な嘔吐で飾り、最高の一日は幕を閉じた。




