10 個室
思い出すだけでも鳥肌が立つ。作戦変更を余儀なくされた。椅子に座ったときと同様に、自転車のサドルにまたがっただけでも、金切り声のヒステリーな絶叫を内面に轟かせた。文明の利器に頼るのを、本能は拒否を示したのだ。
日没を待つ。万が一のリスクを考慮すれば、夜のほうが好ましい。
午後八時を回ったのを合図に、煌希は玄関に降り立った。腰を落とし、スニーカーを履く。勢いが失せてしまわぬように、即行動する。よしっと気合いを入れ、扉を開け放った。
新鮮な空気とともに、完全に陽が落ちた夜の光景が目に飛び込んでくる。玄関先の外廊下に一歩を踏み出す。扉を閉め、施錠した。
辺りを左右にぐるりと見下ろす。ひと気はなかった。クルマの走行音もほとんどなく、静まり返っている。緊張が高まるなか、確固たる決意を胸に歩き出した。そう、苦み走った男作戦の成就のためにである。
外廊下を突き進んでいく。すると眼下に、下り階段が現れた。いま生じたばかりの色めき立った勢いが急速に削がれて、ぴたりと足が止まる。アパートの外壁に設置された細長い外灯が、足もとに伸びる十数段の階段を不気味に照らす。
煌希は階段の手すりを掴み、深呼吸をした。初回に比べれば上達しているはずであるが、それでも苦手意識は拭えない。
ためらいを捨て、一歩目を降りる。二歩目も降りた。足をもつれさせ、転倒しかけた記憶が、おぼつかない足取りをさらに助長させる。
周囲を見回す。こちらを注視する気配は感じられない。こんな姿を他の住人が見たらなんと思うのだろうか。鉄骨階段の重低音の連打を響かせ、よたよたと及び腰ながらも、急いで階段を下りきる。
両足で大地を踏みしめ、ほっとため息をつく。デジタルの腕時計を眺めると、階段での情けないタイムロスが表示されていた。別の意味でため息をつき、頭から振り払う。改めて前へと足を踏み出した。颯爽とアパートの敷地を抜け、公道に歩を進める。
アパート周辺の路地を周回する、安らぎ皆無の本気の散歩といったところであろうか。室内の床では味わえない、現実の大地を踏みしめるという緊張感で己を追い込み、浮力抑制を強化する試みだった。一歩ずつ、浮上欲求に耐えかね、いつ宙に浮きあがってもおかしくない恐怖感を噛み締めながら慎重に進み、いくつかの角を折れる。
数メートル先、電柱上部に取り付けられた街灯の明かりの下に、ふと目が止まった。会社帰りとおぼしきスーツ姿の中年男性が、こちらに向かって歩いてくる。一瞬、歩が止まりかけたが、怪しまれてはまずい、動揺をひた隠し、目を合わせないように前進した。
男の視線は擦れ違う寸前まで、煌希の足もとに注がれていた。振り返りはしなかったが、男はそのあとしばらくも、煌希の後ろ姿を見つめ続けていたことがわかる。怪訝なまなざしだった。いまも背後に、不快な視線を感じている。
煌希は自分の足もとを見やった。これが男の気を引かせた原因らしい。なにか怪我か障害を抱えているのかとでも思ったのだろうか。
浮力が発現した後遺症、いや、本能の嫌がらせとでもいうべき、かっくんかっくんとした足取り。油の切れたロボット歩きは、なおも健在だった。そうやすやすと、もとの滑らかな動きには戻してもらえないらしい。
しかしいっぽうで、三日間みっちりと特訓したおかげか、その成果が着実に現れ始めていた。五分間にも満たなかった浮上欲求抑制時間が、倍の十分間を超えるようになったのだ。このまま抑制時間が延び続ければ、常人の生活を取り戻せるかもしれない。そう思うと特訓にも熱が入るのだった。
アパートの正面が近づいてくる。一周目が終わろうとしていた。
苦み走った男作戦に付随する、第二の作戦内容が脳裏をちらつく。食料の備蓄も急速に減り続けている。ネットスーパーはもう使わないと心に決めた。実店舗に買い出しに行く作戦。その名も、スーパー買い出し作戦だ。
このアパートから最も近場にある酒類販売店は、行き付けの食品スーパー『マルオツ』となる。陽が沈み、完全に夜となった午後八時に行動を開始する。この時間は、ちょうどタイムセールが始まるときでもある。値引き商品を狙い、ビールとケーキの確保を併行しつつ、買い漁るのだ。
このアパートからマルオツまでの距離は、およそ六百メートル。いままでは自転車で通っていたが、本能に拒否されたため、自転車に乗るという選択肢は除外とする。
ネットで検索したところ、常人による一般的な歩行速度は時速四キロメートル、徒歩一分間の距離は八十メートルと定められていた。それをもとに計算すると、六百メートルは徒歩七分半となる。
いまの自分を常人と呼ぶにはいささか苦しい気もするが、かくついた足取りながらも、歩行限界時間の十分間をもってすれば、到達は容易であると考えられる。
自宅アパートから南西の住宅街を進み、しばらく通りを行くと商店街がある。その最奥に行き付けのスーパー、マルオツがある。重要なのがこのあとだ。
商店街の入り口付近にコンビニがあり、それがまず初めの保険となる。時間的に到達は容易であるとはいえ、万が一のリスクは常時孕んでいるものだ。
途中で不慮の体調不良に見舞われた場合、早急に浮きあがり、休憩を取らねばならない。店舗には必ずトイレが設置してある。このコンビニにも、書籍コーナーの先に個室トイレがあったのを記憶している。そこは誰の目も届かない究極の安全地帯。コンビニの個室トイレでいったん休憩し、存分に浮きあがって本能を解放してみせる。これで体調の回復は万全だ。
そして、そのままなにも買わずに退店し、マルオツまで歩行開始。マルオツに入店したら、男性トイレの個室に入り、余裕を持って再度休憩。そのあとは、早急に対象の商品を買い物カゴに入れて会計へ。すべてを十分間以内に済ませる。そしてまた、トイレで休憩をして退店し、無事に帰宅すれば本作戦の終了となる。我ながら、完璧な筋書きだ。
内心の力説に、気分が高揚しているのを感じ取る。胸のうちが熱くなっていた。二週目に突入するのを急遽中止し、煌希はアパート入り口で立ち止まった。
いつ実行するのかタイミングを見計らっていた、というのは言い訳だ。リスクばかりを考慮して、実は現実から目を背け、逃げていたのだ。
鼻息が荒くなる。やるならいまでしょ、と降りてきた天の啓示に、ひとりうなずく。不動の決意を胸に、方向を転換する。敷地内に踏み入り、鉄骨階段に向かい出した。
部屋に戻って充分に休憩を取り、苦み走った男作戦を成就すべく、本日、スーパー買い出し作戦を決行する。
解錠の音とともに扉の開く音が、頭上で響いた。煌希ははっとして見上げた。二階にある煌希の角部屋203号室の右隣、202号室の扉が開かれていた。なかから仏頂面の肥大漢がぬっと姿を現す。隣人の独身中年男、壁ドン森山だった。
煌希はとっさにくるっと背を向けた。顔を合わせたくない、そう思った。強い嫌悪感が胸中に渦巻く。そこから立ち去るべく、足早に歩行を開始する。
騒ぎ立てて壁ドンされたことによる、ばつの悪さだけではなかった。そもそもこういう厳ついタイプは苦手なのだ。本人はその自覚があるのかわからないが、擦れ違うたび、いつも恨みの籠もったような鋭いまなざしで睨みつけてくる。こちらは寿命が縮む思いで萎縮し、謝る必要もないのに、すみません、と頭を下げてしまうのだった。胃痛がして食欲が減退する。まったく、こっちの身にもなれ、と文句のひとつも言ってやりたいところだ。
敷地を抜け、さっき周回した路地へと戻る。回り込んで時間稼ぎしてから部屋に戻ろう。森山さえ避けられれば、他の住人と出くわしてもいっこうに構わない。そう思いながら、路面から視線を上げたときのことだった。
煌希は驚愕に息を呑んだ。すぐさま踵を返し、行く手を反転させる。すかさず歩き出した。小走りまでとはいわないが、それに匹敵するぐらいの速度で足早に前進する。
街灯が暗がりを照らすなか、自転車に乗った制服警官がこちらに向かってくるのが見えた。あのまま進んでいたら、必ず目を向けられる。なにごともなく擦れ違ってくれればいいが、最悪の場合、歩き方が不審という理由で職務質問を食らってしまうだろう。
森山よりも警官のほうが恐ろしい。路地からアパート敷地内へと折り返す。自転車置き場と駐車場眺め、階段へと視線を移したとき、またしても煌希は立ち止まってしまった。
下りている最中に電話がかかってきたのだろう。階段の下でスマホを耳に当てた森山が、突っ立ったまま話し込んでいた。
進退きわまったことに唖然とする。いつまでそんなところに立っているんだと思うものの、森山は歩きスマホをするつもりはないらしい。苛立ちを滲ませた口調でまくし立てながら、不動の姿勢で会話にのめり込んでいる。
警官どころか、やっぱり森山も怖い。煌希は路地へと向きを変更した。同時に予定も変更する。
スーパーマルオツまで一気に行くのは無理だが、浮上欲求の進行ぐあいからしても、それなりに猶予はある。行こう、コンビニへ。個室トイレで休憩すれば、どのみち計画通りだ。
敷地から左の路地を眺める。制服警官の自転車が近づいていた。煌希は右の路地に進路を定め、コンビニへと向かい出した。
たかが六百メートル弱の道のり。されど残り数分の距離。やはり休憩を取らなかったのは痛かったと後悔したのは、それから間もなくのことだった。
心のなかでは颯爽と歩き出したつもりだった。悠然と闊歩しているつもりだった。
遠方、遠目にそれらしき店舗の光が、おぼろげに近づいてくる。心臓が耳もとに近づいてくるようでもあった。めまいで一瞬、視界がぐにゃりと歪む。
歩道を踏みしめる。賑やかさが増してくる。もう後戻りはできない、心拍数の増加とともに、そう思った。暗がりに身を潜め、浮きあがって休憩を取る。この人々の往来では、そんな隙は与えてもらえそうにない。
鼓動が激しく波を打つ。よほど煌希の歩き方がおかしいのだろう、背中に無数の視線が突き刺さった。何人もの通行人が振り返っている。眼前からも突き刺さる。いまも、奇異なまなざしと幾度も目が合った。
調子は絶不調だ。全身から不快な汗が滲み出て、異常なほどの喉の渇きに表情が歪む。
蓄積していく疲労で思考が緩慢になる。それでもふらふらの状態で前へ突き進んだ。
次第に前を向く気力もなくなり、だらりと頭を垂れる。歩道の街灯を頼りに、ただぼんやりと歩いた。
はっと我に返る瞬間が何度もあった。気を抜くと抑制操作を忘れそうになる。照らされた足もとの地面だけが、視界に映るすべてであり、まだ浮きあがっていないという証拠でもあった。
そのとき、肉を裂くような激痛が全身を襲った。ううっと、思わず唸り声をあげてしまう。煌希はすぐさま悟った。地上歩行の限界、件の十分間がとうに過ぎているのだと。
慌てて顔を上げた。民家とは異なる光度の輝きが見えた。急いで歩み寄った。暗闇を打ち消すかのごとく、店内の照明が辺りを煌々と照らしている。第一の目的の地、コンビニの建物がようやくその全貌を現した。
感嘆の吐息を漏らす余裕も、もはや残されていないようだった。本能の叫びが、内部から鼓膜を震わせ始めている。
煌希は駆けださんばかりに、コンビニの敷地に足を踏み入れた。入口の自動ドアから少し離れた外壁の窓ガラス前、三人の男たちが座り込みながらたむろっている。意識せずとも、視界の端にどうしても映り込んでしまう。男らは一見して二十代前半、派手な骸骨がプリントされたTシャツにハーフパンツ、首には金のネックレスをしている。ストリートファッションに身を包み、口にタバコをくゆらせた、たちの悪そうなチンピラだった。
通常であれば、こんな輩がいたら決して近寄ったりはしない。だがいまは緊迫した状況だ。そうわがままもいってられない。
煌希が連中の真横を通り過ぎようとしたとき、両耳、下唇にピアスを通したひとりが、こちらをじろりと眺めてきた。思わず瞬間的に視線が合う。短髪を赤く染めた面長の顔に、緩み歪んだ口もと、まさに馬面の男が好色そうな目つきと笑いを浮かべ、煌希に突然呼びかけてきた。「おい、ボーイッシュな姉ちゃん。なんかロボットみてえな歩き方してるな」
煌希は歩みを止めなかった。見向きもせず、素通りに徹する。無心だ、無心になれ。いまのは自分ではなく他の人に言ったのだ。
「あれ……。姉ちゃんじゃなくて、兄ちゃんだったか? おい、お前だよ、お前」馬面が声を張りあげた。「無視してんじゃねえよ!」
一瞬、心臓がどきりと止まる。それに併せて歩みも止まる。煌希はおずおずと振り返った。
馬面を中心に、三人が眉間に皺を寄せ、鬼のような形相で睨んでいる。
呼吸が止まる。言葉が出ない。しかし、そこをなんとか、煌希は声を振り絞った。「いやあ、仕事で足を挫いちゃいまして。痛くて歩くのがやっとなんですよ」
煌希は苦笑いをしながら必死にごまかした。冷や汗がどっと吹き出してくる。脳内に『緊急回避』の命令が下った。「ちょっと急用がありますので、すみませんが自分はこれで……」
予定変更だ。コンビニには寄らない。大丈夫、僕は全然疲れていない。余裕でマルオツまで行ける。行ける行ける。
踵を返し、商店街奥へと向きを定める。再び歩き出した。
連中が追いかけてこないか後方を確認したいところだが、それはできない。再び目が合ったら最後、なにをされるかわからない。
耳鳴りで周囲の喧噪が掻き消された。押し寄せる吐き気に耐え、前のめりになる。コンビニで休憩しなかったのは、やはり痛かった。
マルオツに向かうまでの商店街は、買い物帰りのレジ袋をぶらさげる人々で賑わっていた。傍らを過ぎていく通行人が皆、幸福そうな顔に見える。
自分はなにひとつ楽しくない。常人の生活を取り戻すため、苦痛を抱えてスーパーに向かっている。煌希は、この理不尽な不平等さに、猛烈に腹が立って仕方がなかった。
「ちくしょう……」自然と言葉が漏れた。心の声が勝手に口から溢れ出す。「僕は浮かびあがりたいんだ」
独り言をつぶやいた煌希に、怪訝な視線が注がれる。傍らの通行人たちは若者を不審者と判断したのだろう、すぐさま素知らぬ顔で目を逸らした。
またしても、だらりと頭が垂れる。脳裏に砂塵が混ざっていくのを感じた。地面から生えた手に足首を掴まれ、何度もつまずきそうになる。道路が血の海と化していた。
頭を振り、幻覚を振り払う。もう無理だ、もう限界だ、と内心繰り返すうち、少しずつ足もとが明るくなっていく気がした。光が徐々に強くなっていく。
煌希は朦朧としながらも頭を上げた。まばゆい光に目を細めるなか、大きな建物が見えた。実家に辿り着いた感覚にとらわれ、思わず安堵のため息が漏れる。見慣れた行き付けの食品スーパー、マルオツだった。
煌希は入り口前で立ち尽くし、ガラス越しに店内を茫然と眺めた。
遂に来た。ここが大本命の、ここが真のゴールだ。
鼓膜を破るような内面の絶叫とともに全身に激痛が走り、煌希は我に返った。目を剥き、立ち止まっている時間はない、と自覚する。
目指すべき場所は把握していた。二つあるうちの右側の入り口だ。残る力を振り絞った。
自動ドアを抜け、ショッピングカート置き場を通り抜ける。店内に入ってすぐ右に折れた。
二つに分かれたトイレの入り口がある。男性マークを見上げ、息を切らせ駆け込んだ。
男性トイレ内は、六畳一間ほどの空間に、小便器が二台、大便用の個室が二室並んで設置してある。個室は両方とも扉が開いていて、偶然にもトイレ内は無人だった。
煌希は奥側の個室へと駆け込み、扉を閉め施錠した。とたんに、がくがくと膝が笑いだし、唇も同時に震え始める。苦痛を超えた、もはや悦楽に達した独り笑いが無意識に漏れた。
はは……。念願の休憩タイムの開始だ。
がくんと倒れ込むように前のめりに身体を曲げ、宙に浮きあがる。腰からロープで吊されたがごとく、頭と手足をだらりと垂れて、ふわふわとたたずんだ。
思考が急速に低下し、意識が薄らいでいく。煌希はゆっくりと目を閉じた。




