01 亢進
世の中は適材適所だよ、わかるね。高校の進路相談のとき、担任教師がそう諭した。先輩従業員の関根も同じことを言う。なんでこんな3Kの現場を選んだんだよ、生きる世界間違ってるぞ。
けたたましく鉄板を叩き続ける騒音のなかで、ふとそんなことを思いだした。機械油のにおいが立ち込める工場内、プレス機が整然と立ち並ぶ通路を、上之煌希は進んでいた。
六月初旬、初夏だというのにすでに蒸し暑い。男子トイレの扉を開け、ヘルメットを脱いだ。サウナから脱したがごとく、頭皮から熱気が放出されたのがわかる。
「うお!」入室するなり、いきなり声が飛んできた。無精髭を生やした作業服姿の男が、目を丸くして硬直している。一瞬の間のあと、やがて我に返るように気まずそうな顔になった。「って、上之か。ああ、そのう。わかっちゃいるんだけどな。やっぱりびっくりするというか。なんか、すまん……」
洗面台の前にたたずむ三十代の先輩従業員とともに、煌希は動きを止めた。なにゆえ謝罪されたのか。考えるまでもない。よくあることだ。
煌希はとりあえず愛想笑いを取り繕った。「いえいえ、平気です。慣れてますので……」
先輩従業員がそそくさと退室していく。その背が扉の向こうに消えると、煌希は小さくため息をついた。壁際に並ぶ三台の小便器の最奥へ歩み寄り、用を足しにかかる。
はあ、と再びため息がでた。いつものように落胆に似た感情が胸をかすめる。
慣れているというのは嘘だった。そこまで打たれ強くはない。寛容でもなかった。毎度のようにびっくりされるなんて、そんなの不愉快に決まってる。
下半身に目を落とす。放物線が滴下へと変わり、終わりを迎えようとしている。湧きあがる爽快感と開放感が、冷めた気分によって瞬く間に打ち消された。そこに残るのは、えもいわれぬ脱力感ばかり。うなだれながらパンツのなかにしまい込み、チャックを閉めた。
洗面台の前に移り、蛇口のハンドルをひねる。手洗いをしながら、正面の鏡に映る自分の顔を眺めた。
理想とはほど遠い容貌だった。弱々しい、頼りなさげ、列挙すればきりがない。ホルモンの関係なのだろうか、残念なことに体毛は薄かった。男の象徴である髭も、いまだ生えた痕跡すら見受けられない体たらく。皆は煌希を取り囲み、口々に強調した。中性的であると。
心の底に沈めていた棘の塊が浮上してくるようだった。無理に押し留めようとしても思い起こしてしまう。がりがりと傷つけられる内面に、数多の記憶が走馬灯のように走り抜ける。
即座に目を閉じ、頭を振った。心が痛みだす前に、そのすべてを払いのける。煌希は内心つぶやいた。自分は間違っていない。男らしく、男臭く生きるんだ。
まぶたを開き、じっと鏡を見据える。母親と瓜二つの目鼻立ちが見返してくる。
ごめんね、煌希。私にそっくりで。そう語る母の幻影が、鏡に映る自分の姿とおぼろげに重なる。
緩慢に流れていく時間のなかで、複雑に混ざり合う感情をぐっと堪える。
ネガティブに続いていく思考を強制的に遮断した。何千、何万回と悩み抜いた疑問にも、すでに終止符が打たれている。
母と子の顔つきが似るのは当然のことだ。母の遺伝子を受け継いでいるのだから。もうそれでいいじゃないか。
鏡を見つめる自分のまなざしに、なぜか炎の色が浮かんで見えた。次第に目つきが鋭さを増していく。煌希は自身の内情を読み取った。胸の奥に、忌々しい怒りの炎が再燃しつつあるのだ。
適材適所。世間は自分になにを求めているのか。関根がいつも冗談まじりに口走る言葉が、脳内に蔓延していく。
煌希は拳を握り締め、高々と振りあげた。化粧をするつもりはない。ロングヘアにするつもりもない。いま流行の男の娘、誰がそんなものになるものか。
憤然と鼻息が荒くなる。振りあげた拳を、怒りの矛先として洗面台に叩きつけた。……なんてことはしなかった。痛いのは嫌だ。閉め忘れている蛇口をおとなしく閉めた。
嘆息が漏れる。なんだか疲れた。頭にのぼった血がたちまちに急降下し、もうどうでもよくなってくる。尽きないため息とともに、煌希は洗面台から離れた。退室するべく、ドアノブに手をかける。
その瞬間、異様な違和感が全身を貫いた。得体の知れないおぞましさにも包まれ、全身が硬直する。煌希は慌てて鏡に向き直り、顔面がくっつかんばかりにのぞき込んだ。
鏡のなかの自分の瞳と視線が合う。すぐさま異変を感じ取った。はっとして息を呑む。
ふたつの瞳、ブラウンの虹彩の色が薄らいでいる。変色していると表現したほうが適切か。青みを帯びたふたつの真円。透明度は及ばないとしても、北欧の白人が持つ碧眼を彷彿とさせる。
そんなばかな。煌希は愕然と鏡に釘付けになった。寒気が背筋を這いあがる。昔から、色素薄い系だよね、と周りから指摘を受け続けていた。それを聞いた母は、ただ静かに笑みを浮かべるばかりだった。肌のみならず虹彩までもが同調、いや、浸食してきたのだろうか。
ふいに脳裏をよぎる。人差し指をそっと唇に縦に当て、母は言った。誰にもしゃべっちゃだめよ。これは秘密ね。ふたりだけの秘密。
空間が凝固したかのように、身体が凍りつく。煌希は思った。なんのことだ。肝心な記憶の部分が、霞がかっていてよく思いだせない。
「はは……」引きつり笑いが自然と漏れた。
煌希は鏡から顔を離し、首を横に振った。鏡のなかの自分も、真顔で首を横に振り全否定している。
ないない。そんなことあるがわけない。光の加減でそう見えただけだ。非常識にもほどがある。日本人の黒目がそう簡単に青目になってたまるものか。今日の自分は本当にどうかしている。
ふと鏡越しに、扉が開け放たれたのが見えた。新たなる従業員が躍り込んでくる。煌希は振り向きざま、入ってきた二十代の男性従業員に視線を向けた。相手も吸い寄せられるように目を向けくる。
「あっ!」男性従業員が声をあげた。その表情とともに動きが一瞬凍りつく。「って、上之かよ。女子トイレに入ったかと思ったぜ」
またか。煌希は内心、真顔になった。しかも謝罪の言葉すら口にしない。もはや苦笑を浮かべるしかなかった。「はは……。お疲れさまです」
男性従業員は悪びれる素振りもなく、背を向け小便器に近づいていく。
もうここに長居はしたくなかった。次から次へと同様の反応が展開される。煌希はヘルメットを被り、扉を開けた。素早く外へ躍り出る。
トイレの外に足を踏み出す。と同時に、急接近するもうひとりの存在に気づいた。長身の男性従業員、彼も用を足しにきたようだった。煌希はちらと見上げた。向こうもちらりと視線を合わせてきた。
「あれっ!」長身がぎょっと目を剥いた。大慌てでトイレ入口の男性マークの札を、煌希の顔と交互に見上げる。目玉が飛びだす勢いで、またしても声を張りあげた。「って、合ってんじゃん。ってか、上之かよ!」
煌希の頬筋が瞬時に引きつった。脅かすなよ、と長身が苦笑いしながら、脇を通り抜けトイレのなかへと消えていく。
まったく、どいつもこいつも。煌希は深いため息をついた。
不本意な気持ちを押し殺し、持ち場に足を進め始める。歩めば歩むほど、進めば進むほど、ふつふつとはらわたが煮えくり返ってくる。
辛抱たまらず背後を振り返り、遠ざかったトイレの扉を睨みつけた。ふざけるな、誰が女だ馬鹿野郎! 煌希は静かに目で訴えた。
大声を張りあげて罵声を浴びせる。悪態をつき吐き捨てる。そんな行為を披露する日も、そう遠い未来の話ではないのだろう。
持ち場に向け、力強く歩き出した。肩で風も切ってみせる。
だが、それでも、思うことはただひとつ。いまはこれでいい。笑みがこぼれそうになるのを堪え、煌希はひとりうなずいた。だからこその計画だ。




