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7話 虫酸が走る女ーー報い。


皮肉な話だ。

夫が少し、私に構うようになっただけで、ここまで態度が変わるなんて。


廊下ですれ違う使用人たち。

聞こえよがしの陰口もない。

むしろ、わざとらしく会釈までしてくる。

 

  ――挨拶なんて。

  回帰前ならあり得ないこと。

 

  計算しているようね。


妻と愛人、どちらの側につくのが得なのか

考えているに違いない。 

夫と肩を並べて歩くこの姿が異様なのだろう。

戸口から、そして窓外から、至るところから好奇の視線を感じる。

 

  ――鬱陶しい、


  「はぁ……」

 

  「どうした?イネス……」


微笑むダニエルに、イネスはさらに溜め息をついた。


 「見送りなんていらなかったわ」


 「あと、この間の

  “わたしが死んだ”話……

  あれは夢だったの。

  ――もう、忘れて。」



 「夢……?大丈夫なのか?」

 

  そんなはずはない。

  なぜイネスは嘘を――。

 


 「えぇ…

  少し怖い夢を見ていただけ」

 

  「"目が醒めた"から、もう平気よ。」



回帰したことを、イネスは隠した。

そしてこの、「目が醒めた」にたいして、ダニエルは恐怖を感じた。


離縁状を置いて去った妻の決意。

その答えが出てしまうことが、何より怖い。


廊下に引かれた線のように、イネスとの、心の距離は隔たっている。

胸は重く沈む……。

 

ダニエルも、回帰したことを、イネスの回復を待ってから伝えるつもりではいた。


けれど――離縁状を置いて出ていき、命まで落としたイネスの答えは決まってる。


  態度で、誠意で、

  少しでも示してから――

  彼女の心を溶かしてからでも

  遅くはない……。


ダニエルは、過去の出来事を、蒸し返したくはなかった。


 「怖い夢を見たんだな。」


浅はかで、あまりに身勝手な考え。


それがこの先、妻の心を遠ざけることになり、どれほど想いを伝えようとしても、この愛は《エンリケ》の力によるものだと“誤解”されてしまう――。

そのことに、彼はまだ気づかぬまま。



 「ここまででいいわ。」


これ以上近づくな。

まるで、この線を越えるなと、そう告げられているように感じた。



  先は長いな……。

  けど、俺だってこのままでは

  終わらせない。


 「話があるんだ。」


 「……そうね、わたしもよ。

  でも、ノアさんが、

  “お部屋”で待ってるわよ?」


 「早く行ってあげた方がいいわ。」


 

 「あぁ……だが、断じて、

  君が想像しているようなことはない。」

 「彼女とは、別れる。

  俺が愛しているのは君だ。

  ――それだけは、

  わかっていてほしい」


 「はっ……」


蔑んだ感情がとめられない。  


 「そう?

  "今"は、わたしのことが

  好きなのね。」


 

 「……機会をくれ。

  二人で今晩、夕食でも……」


 

 「ええ、いいわ。」

 

  ――この際だから

  はっきりさせておく必要がある!


イネスの一歩引いた態度とは裏腹に、ダニエルは微笑む。


 「良かった!

  夕食にはとっておきを用意する」


 「……。」

 

言葉にならない。

この屈託のない笑みも、

光を受けて、青みを帯びる柔らかな黒髪も、深い空色の瞳も――

すべて、好きだった。

でもその顔が、嫌悪の怒りに染まったときの恐ろしさも、よく知っている。


だからこそ、今もなお、

警戒の糸を緩められない。


決意を固め、あの日、家を出た。

「偽物の愛」になど、"今さら縋るつもりはない"。


まったく――滑稽。

ノアを愛し、身分の差を越えてまで、その愛を貫いた男の結末がこれだなんて。


 「可哀想な人……」


イネスは振り返り、

去っていくダニエルの背を、

冷ややかに見送りながら、静かに罰部屋へ

戻っていった。



――


"俺の部屋"。

ダニエルがそこへついた頃には、香が焚かれ、すでにノアは待っていた。


 「どうして怒っているの?」


声は甘く艶かしい。

ノアは、胸元の紐を少し解き横になった。


書斎に置かれた、そこに似つかわしくないベッド。

ダニエルはうんざりしたように椅子に腰かけた。


 「服を脱ぐな。」


あのベッドも、彼女も、見ているだけで胸焼けがする……。


 「わたしが欲しいでしょう……?」


ノアは、挑発するように胸元をちらりと見せる。

ドレスはほんの少しめくれて、胸の柔らかい曲線が覗く――

ゆっくりと、ゆっくりと……


――そして……


 「……やめろっ!!」

 

ダニエルは怒りを爆発させた。

 

 「話をするだけだ!!」

 

 「さ、最近おかしいわよ……?」

 

  なぜわたしを求めないの!?

  どうしたっていうのよ……


ダニエルは、苛立ちを押し殺すように、指で膝を叩く。

これは、機嫌のよくないときの、彼の癖のようなもの。

 

 「この屋敷を

  出ていってくれないか……」


 「え……?」


 「あいつらも、

  もう随分と大きくなったな。」


ノアの怒りが喉の奥までせり上がる。

 

 「待ってよ!!!」

 「まさか本気!?

  わたしは、あなたの

  "恋人"でもあるわ」


ノアが身を起こす。

その拍子に、ベッドが低く軋んだ。


――その音。


忘れたい肌の余韻――

皮膚の裏でもぞもぞと動く。


ダニエルの表情は酷く歪み、思わず口を覆った。

 

 「ゾッとする……

  君との記憶さえ忌々しい。」

 

 「えっ……なんて……?」

 

怒りが、ノアの顔から音もなく消えた。

冷水を浴びせられたような衝撃が、彼女の体を貫く。

 

 「ちょっと、待って

  ダニエル……?」


 「呼び捨てをやめろ……。」


 「よ、呼び方?

  わたしたちは、もともと

  兄妹のように育ったじゃない!

  突然、酷いわ……」


ダニエルは、面倒そうにノアに目をやる。


 「限界なんだ……消えてくれ。

  死ぬまでの、金の補償はする、

  だから――」


幼馴染みであった二人。

ダニエルの父である、前マイリー伯爵が、命を助けてもらったお礼だと、ある日突然、"孤児"のノアを連れてきた。

 

 「待って!

  わたし、別れないわよ……

  あのこ達の、母親は

  "わたし"よ!」


――すると、ダニエルは、これまでに見せたことのない、冷えきった顔でノアに言い放つ。



 「――虫酸が走る……

  あいつらの母親は、

  "妻"のイネス、ただひとりだ。」

 

なぜこうも非情になれるのか……

ダニエルには、沸き上がる嫌悪の意味さえわからなかった。

 

ただ、今は、黒パンをバカにし、イネスを嘲ったこと。

それがどうしても許せなかった。

 

そして過去。

自分も、"そっち側の人間"だったことに腹が立っていた。


  ――最悪だ。


ダニエルは、ノアを睨む。

鼻につんざく、香の匂いがダニエルをより不快にさせた。


 「君が夫に離縁され、

  子を手放したと聞いたとき……

  同情したことが、

  “すべての間違い”だった。」


  「……ま、間違い?」


ノアの声は震え、呼吸は荒くなる。

何度も頭を棒で叩きつけられているような衝撃と苦しさ。

 

ノアは涙を流す。

けれど、ダニエルの心は少しも揺らがない。

 

 「なるべく急ぎ、

  荷物をまとめてくれ。」

 

付け入る隙など一切ない。

冷酷で、怒りを孕んだ瞳……。


 「服を正せ。」

 

そう言い残し、ダニエルはその場を去った。

 

残されたノア。


  おかしい……

  おかしい、何もかも……。


ノアは、ベッドの下に潜り込み、あるものを手にとった。


指先と肩が震える――全身を寒気が包んだ。


 「な、なぜ……?」


手のひらに握られていたのは、無数の髪が巻き付けられた気味の悪い人形だった。

 

 「……はっ……あぁ……

  裂けてる?

  なんで……っ…」


中央には亀裂。

――その瞬間、ノアの手のひらに赤い線が浮かびあがった。


 「……っはぁ……はっ……

  どうしよう……」

 

ノアは顔を上げた。

誰もいないのに、誰かに見られている気がした。


外は風が強く吹き、小枝が窓を叩く。

その音が、妙に近く聞こえた。


覚束ない足取りで書斎を出る。

廊下に出た途端、力が抜けたようにその場にへたり込んだ。


――すると、 


 「ノア――大丈夫!?痛いの?」


駆け寄る二人の子供たち。

キリアン――ブラット。


震えていた体は、二人を見てすぐに落ち着きを取り戻す。

 


  ――そうよ……

  わたしにはこの子達がいる。



ノアは目を細め微笑む。


その笑みに宿るのは母の愛ではなく――冷たい策略。


――“わたしの切り札”。


不適に笑い、ノアは二人をきつく抱き締めた。




 ――次話予告

涙のディナー。

夫の策略。

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