47話 相応しいのはーー夫か、元婚約者か
皆様、これまで大変お世話になりました。
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【遡ったのは君だけじゃない。離縁状を置いて出ていった妻ーー始まりは、そこからだった。】
https://www.alphapolis.co.jp/novel/889634867/233006376
#アルファポリス
この日の君は、これまで見たどんな景色よりも輝いていた。
――ある夏の記憶。
「マルセル兄さん、こっちよ!」
イネスは川の畔で手を振り、笑顔で呼ぶ。
裾をまくり上げ、ゆっくりと足先を水に沈めた。
「……っ…冷たい!」
かすかに藻の匂いと、川の湿った空気が鼻をくすぐる。
マルセルは小さく溜め息をつく。
使いを頼まれた帰り道。
早く帰らなければならないのに、イネスの無邪気さに、断る気力も吹き飛んでいた。
荷物を置き、靴を脱ぐ。
水音と蝉の声だけが、間延びした夏の午後を満たしていた。
「レディーは、そんな
はしたない姿にならないぞ?」
マルセルは微笑みながら手ですくった水を、イネスにかける。
水は弧を描き、陽を砕いて飛び散る。
イネスも足先で水を蹴り返し、二人の小さな水の戯れが始まる。
笑い声が川面に溶けていく。
「はしたなくたって構わないわ。
ここには、マルセル兄さんしか
いないもの」
来年デビュタントを控えたイネス。
女学院で勉強とマナーを学び、異性の前で足を見せるなど、通常なら許されぬことだ。
――だが相手はマルセル。
彼女は意に介せず、得意げな笑みを浮かべて川から上がろうとした。
「キャッ……!!」
足を滑らせ、イネスはそのまま川の岸に倒れ込む。
手を伸ばす瞳は、無垢で必死だった。
「助けて……あぁ、どうしよう……
こんな格好で帰ったら、
お父様にまた怒られちゃう……」
「……裏から入って、着替えをしよう。」
冷静を装うマルセルの声は、わずかに震えていた。
夏の日差しに濡れたドレスが肌にまとわりつき、布越しに伝わる水の重みが、少女の輪郭を際立たせた。
マルセルは息を一つ呑み、慌てて後ろを向くと、ズボンの位置を直した。
濡れた髪が光を受け揺れる。
彼女から視線を戻すまいと固く誓うほど、意識は吸い寄せられていた。
五つも年下のイネス。
かつて腕の中にすっぽり収まった存在が、いつの間にか「守るべき対象」から「目を逸らすべき存在」へと変わっていたのだ。
イネスは川から上がり、裾をめくってドレスを絞る。
「イニー。足が丸見えだ!
……君はもう大人になるんだ。
少しは慎んだ方がいい」
無邪気に笑う彼女が少し憎らしくもあり、守りたい気持ちが疼いた。
「平気よ? 何か問題ある?」
「俺も男だ……
そういうところは、しっかりと――」
「わたし達、いつか結婚するのよね?
だったらいいじゃない」
眩しい太陽のせいで、表情の細部までは見えなかった。
それでも、記憶の中で、君は確かに微笑んでいた。
家同士の結び付きで決められた、婚約という関係。
君にとって俺は、きっと兄のような存在でしかなかったのだろう。
それでも――
君は、少しは俺を
男として見てくれたことが、あったのだろうか。
――視界は懐かしい日の思い出から、白色に変わり、やがて真っ暗な闇と化した。
「婚約破棄って、一体
どういうことですか……っ!?」
無力な自分を、あれほど嘆いたことはなかった。
これは、マルセルの苦しい記憶――
「バーンズ家は、もう終わりだ」
父の声は、感情を排した冷たいものだった。
「莫大な負債を抱えている。
分かっていながら、
あの家に縁付くことはできん」
「関係ありません……!
必ず、立て直してみせます」
「バカを言うな。
沈むと分かっている泥舟に、
我が家の名を沈める気か」
拳を握り締め、必死に言葉をつなぐ。
「僕は……彼女を、愛しています」
「……愛、だと?」
父は鼻で笑った。
「仮に結婚したとして、
お前に何ができる?」
「……今は、まだ。
ですが、きっと――」
「話にならん」
首を振り、呆れ顔で部下に指示を下す。
「こいつを部屋から出すな」
マルセルはこの後、およそ一年間、父の目の届く屋敷内に閉じ込められた。
婚約破棄は本意ではない。愛している。
それを伝えたくても、イネスのもとへ行くことも、手紙を送ることさえ許されなかった。
そして――軟禁からの突然の解放。
戸惑いつつも、マルセルは真っ先にイネスのもとへ向かう。
その先で知ったのは、イネスの結婚だった。
借金を肩代わりした、爵位を持つ裕福な男。
身を引くしかなかった。
今更、愛していると伝えても、彼女からすれば、一番困っている時に婚約破棄をした非情な男だ。
でも、たとえ気持ちは伝えられなくても、せめて祝いの言葉だけは残したかった。
「イニー。幸せになるんだぞ」
そうじゃない。
本当は、この俺が幸せにしてやりたかった。
身の切れる思いでその言葉を口にした。
「ええ。マルセル兄さんもね」
彼女の屈託のない笑みは、あの日の記憶さえも置き去りにし、まるで何事もなかったかのようだった。
君の幸せを願って、見送った。
それなのに…………
君は、幸せにはなっていなかった……
悲しみが心を埋め尽くしていた、その時――
マルセルの耳に、小さな声が届く。
『覚めよ、己……』
「……う………ッ……」
マルセルは顔をしかめた。
『時、今や許さず』
マルセルは、雪で重くなった体を起こす。
――『吾は……石なり。』
『名、“エンリケ”、覚え置け』
まだぼんやりとした意識の奥に、花の香りがふわりと漂った。
過去の記憶から、現実へ――
意識が明瞭になり目を開けると、ここは工房の片隅。
手には、光るネックレスがしっかりと握られていた。
自分が生きていること。
あの奇妙な声――“石”の名。
それらが、不思議でならなかった。
――だが、そんなこと、今はどうでもいい。
すぐに気持ちを切り替え、マルセルは迷うことなくイネスのもとへ急いだ。
どうか、無事でいてくれ、イニー!!
扉を押し開けると、憔悴しきった顔のダニエルが、静かにイネスに寄り添っていた。
「取り返せたか……」
イネスから目を離さず、ダニエルが問う。
「…………」
彼女がもし、息を引き取っていたら?
マルセルの心臓がバクバクと音を立てる。
ダニエルは、マルセルが手に持つネックレスに気がつくと、安堵の表情を浮かべ手を伸ばした。
「寄こせ」
「…………」
大事なイニーのネックレス……
こんな奴には、託せない。
マルセルは無視した。
「イニー……聞こえるか?」
心配そうにマルセルはイネスの顔を覗き込む。
「冗談を言っている場合じゃない。
早くそれを貸せ!」
ダニエルに焦燥が走る。
エンリケへ、イネスを助けて欲しいと願わなければならない。
――この男は邪魔だ。
マルセルは返事をせず、イネスの髪をかき分け、ほっそりとした首へネックレスをくぐらせた。
「弁えろ。俺の妻――」
怒りを含んだダニエルの声。
しかし言い終える前に――
石から淡い光が放たれた。
光はあっという間に辺りを満たし、やがてイネスの体を包み込む。
「エンリケ……」
マルセルが不思議そうに呟くと、ダニエルは息を呑む。
――なぜ、この男がその名を……?
それも束の間、イネスは深く息を吐いた。
「イネス!!」「イニー!!」
同時に声が並ぶ。
イネスの白かった肌に柔らかな血色が差し、唇の青みは薄紅に染まった。
頬や体の傷は癒え、細く震えていた呼吸さえ、まるで眠りに落ちた者のような、穏やかなものへと変わっていく。
二人は胸をなで下ろし、お互い言葉を発せぬまま喜びの表情へと変わっていった。
――しかしその喜びも、長くは続かなかった。
「容態は安定しております。」
峠を越えた。
奇跡だと医者は語った。
しかし、次の晩になっても、イネスは意識を取り戻さなかった。
「彼女には、僕がついています。
何かあったら、
すぐに使いを出しますので、
伯爵様は、一旦休むために
帰られてはいかがですか?」
こめかみを押さえ、疲れを滲ませるダニエルに、マルセルは退席を促す。
「……目覚めるまでは帰らない。」
「お子さん達が、心配している
でしょう。
様子を見るだけ――」
「断る。
息子たちには部下がついている
平気だ。」
「妻に、寄り添うのは
夫として当然のこと。
お前の方こそ、他へ行き休め。」
この時、マルセルの中で苛立ちが渦巻いた。
隣に並び、彼女の傍を独占する男。
名ばかりの彼女の夫。
「都合の良い時だけ、夫面……」
ダニエルは耳を疑った。
これまで生意気な態度の奥に感情を隠し、決して自分に敵意を見せなかったマルセルが、
今は対抗心を剥き出しにし、低く抑えた声で言い放ったのだ。
「きっと、彼女なら
子供たちのことを、まずは
心配するでしょうね……。」
「なぜそれがわからないんです?
それで、夫ですか?
笑わせますね……」
「僕の方が、彼女を愛しています。」
――次話予告
許されるなら、いつまでも待つ覚悟。
マルセルの宣戦布告。




