45話 怒りを超えて、懇願
兄弟二人。
池のほとりで、剣を素ぶりしながら体を鍛えていた。
「はっ……! はっ……!
兄さん、 はっ……!
母さんには、ちゃんと謝れた?」
「……はっ……! はっ……
駄目だった。」
キリアンは剣を下ろし、
首を傾けて湖に湧く水を直接口へ運んだ。
冷たい水が喉を通り抜け、
汗をかいた体を心地よく冷ましていく。
「謝ろうとはしたんだけど……」
キリアンが視線を落とすと、
ブラットはそっと、その肩を抱いた。
「僕も母さんに、
没落貴族って言っちゃったこと、
まだ謝れていないんだ……
それに、昨日のイタズラも、
僕も一緒にやった……
だから今日、二人で謝ろうよ!」
「……そうだな。
二人で、ちゃんと謝ろう」
母の微笑み。
それはいつも柔らかく、
たとえ間違ったことをしても、
押さえつけるようなことはしなかった。
言葉をかけられなくても、ただそこにいてくれるだけで、胸の奥が、静かにほどけていく。
母は、心を病んだ人ではない。
哀れまれるべき存在でもなかった。
「おとなの事情」は、まだわからない。
けれど、キリアンとブラットは知っていた。
この人は、自分たちを裏切らない――
母イネスへ、二人は心からの信頼を抱いていた。
「……早く、母さんに会いたいな」
ブラットの呟きに、
キリアンは少し気恥ずかしそうにうなずく。
「……うん……そうだな。」
朝、母に撫でられた頭の余韻が、
まだ、そこに残っている気がした。
これからは、きちんと向き合いたい。
二人とも、早く言葉にしたかった。
胸に溜め込んできた、それぞれの思いを抱え、仕事を終えた母の帰りを、二人は待っていた。
水面に映る空の色は移ろい、
雪が落ちるたび、さざ波のように波紋が広がった。
やがて降り積もる雪――
二人で作った、家族の雪ウサギだけが、静かに微笑んでいた。
――
机には、針や糸。
道具一式はそのまま、イネスの姿はどこにもなかった。
昼休憩になっても、マルセルのもとを訪れなかったイネス。
――仕事を放り出し、イネスがそのまま
どこかへ行くことは、考えにくい。
胸騒ぎが収まらない。
マルセルは、工房中を探し回った。
そして外へ――
すると、ようやくイネスが見つかった。
目線を落とした先。
血溜まりの中に、まるで無造作に置かれた、
布の塊のように転がっていた。
「……イニィ……!」
マルセルは駆け寄り、
震える手をイネスの口元へ――
そして、耳をその胸元へ当てた。
はぁ……はぁ……っ……
煩わしく耳を打つ、自分の呼吸の音が邪魔だった。
「お、落ち着け……お、落ち着……」
息を整え、イネスの鼓動を探る。
――わずかな息。
――小さく鳴る心臓。
「……い、息はある……」
震えそうになる指を、マルセルは強く握り込んだ。
痛みで、思考を繋ぎ止める。
見る。
判断しろ。
迷うな。
頭からの出血――
マルセルは、そっとイネスを抱き上げた。
「……いつからだ……
体が氷のようではないか……」
冷たく、青くなった唇――
だらんと力を失った体――
「大丈夫だ……。
イニー、必ず助ける」
――
所在のわからないダニエルのもとへ、
マルセルの寄こした使いの者からの報告が届いたのは、すでに日が暮れ、人の気配も薄れた頃だった。
部屋で、静かに横たわるイネス。
その横で、彼女の手を握るのはマルセル。
ダニエルが来たにも拘わらず、マルセルは、まるで気にも留めない素振りで、イネスから離れようとはしなかった。
「…………」
ダニエルが、雪を払い駆け寄る。
彼女の顔に血色はなく、
頬には大きな痣。
頭には包帯。
呼びかけようとしても、その無残な姿を前に、
思うように声が出なかった。
――よぎる、過去の冷たい残像。
ダニエルは、必死にそれを掻き消す。
その沈黙を破るように、
医者が口を開いた。
「……血を流しすぎています。
頭も、強く打っています」
医者は、言葉を選ぶように、一度息を置いた。
「――正直に申し上げます。
この状態で、
まだ息があること自体が……」
その先を、医者は言わなかった。
「……目を、覚ますかどうかも……」
「……それで」
ダニエルは、医者から視線をそらさなかった。
「彼女は――目を覚ますんだな」
怒りを孕んだダニエルの声。
今にも彼は、医者に掴みかかりそうな勢いだった。
見かねてマルセルが立ち上がり、医者とダニエルの間に塞がり壁となる。
「彼女は……階段で、足を滑らせ……
それで……」
マルセルの言葉が、途中で途切れる。
ダニエルは、彼を鋭く睨みつけた。
その視線に逃げ場はない。
「お前の目は、節穴か」
低く、噛み殺した声。
「イネスは――突き落とされた」
「……なぜ、そんなことが
言えるんです……?」
マルセルの問いに、
ダニエルは一瞬も迷わなかった。
「イネスの側にいられるのは、
お前じゃない」
一歩、距離を詰める。
「――俺だ」
張り詰めた空気が、軋む。
「イネスを、こんな目に遭わせた
奴がいる」
「そいつは――」
ダニエルは、静かに言い切った。
「イネスのネックレスを、
持っている。」
マルセルは気が動転し、気が付かなかった。
確かに彼女は、いつも黄色い石のネックレスを身に付けていた。
「……大事なものだ……
取り返してきてほしい。」
「ここでは俺より、
お前の方が、適任だろう?」
震える声で、ダニエルは声を落とす。
冷静さを保つのがやっとだった。
「怪しい者や、
おかしなことは、なかったか……?」
ダニエルは力なく座り、イネスの手を握った。
「ネックレスを……
見つけてきてくれ……頼む……」
うなだれ、イネスを見つめるダニエルの声には、責めも怒りもない。
ただ、懇願だけが混じっていた。
マルセルは言われるまま、部屋を後にした。
今の自分にできることは、彼女の大切なネックレスを取り返すことだけだ。
――なぜ俺が、先に気がつかなかった……!!
失われたネックレス――
それは、イネスが唯一身に付けている装飾品。
ダニエルに、負けた気がした。
マルセルは分厚いコートを羽織り、切迫した感情を振り払うようにして、馬にまたがった。
怪しい者――
おかしなこと――
それもこのタイミングで。
思い浮かぶのは、ただ一人。
「ジャネット……
よくも、イニーを――」
雪がちらつき、月は陰る。
暗闇の中、灯り一つを頼りに、マルセルは駆け出した。
――次話予告
濃く霧のごとく黒い石――
それは、容赦ない怒り。




