43話 歪められた愛
――まどろみの中で、意識が遠のきかけた、その瞬間。
冷たい外の冷気と共に、部屋の扉が開いた。
きっとダニエル。
夕食をとった後、彼から話があると告げられていた。
――わたし達には解決していない
問題がある……
彼との話し合いに、逃げてばかりはいられない。
夫婦の関係が、子供達に影響を強く及ぼす。
今後の事も含め、話し合っておく必要がある。
イネスは覚悟を決め、静かに起き上がると、小さな灯りをつけダニエルをテーブルに招いた。
「……あの子達は、もうぐっすり?」
「ああ。君が行った後、
すぐに部屋にもどったよ
気付いたらもう寝てた」
ヘレンが用意してくれた夕食を一緒にとり、つい先程まで家族での時間を過ごしていた。
「父さん。母さんの裸をみたから
怒られた?」
ブラットの不意を突いた質問に、ダニエルがスープを吹き出したあの瞬間は、今思い出しても笑いが湧き上げてくる。
ぎこちない父子の姿はまだ残るが、みんなが笑うその姿から、いつかこの三人は、分かり合える日が来るだろうと思えた。
――けれど、家族として見れば温かな時間でも、夫婦としてのわたしたちは、すでに終わっている。
「……本当に可愛い子達」
「あぁ……そうだな。
キリアンは君と同じ髪色で、
瞳の色も同じだ。
ブラットは、笑った顔が、
君にそっくりだ」
「………」
イネスは口を開きかけたが、何も言わずにガウンを羽織り、席に着いた。
「君の事は、一目惚れだったんだ……
あの子達が、君に似てくれて
よかった」
炎の揺らめきが、ダニエルの手元を淡く照らしていた。
彼は無意識のように、薬指の指輪を何度も指先で擦っている。
揃いの指輪をすでに外してしまった自分とは違い、彼はまだそれを残したままだ。
イネスの胸に、名付けようのない重さが滲んだ。
「……聞いてほしい。
ノアの話を――」
ダニエルの真剣な声に、イネスは思わず息をのみ、そっと頷いた。
それを合図に、ダニエルはこれまで語られることのなかった、ノアとの過去の話を始めた。
彼がまだ幼い頃の話だという。
当時の父は、妻を失った喪失感から、歓楽街へ足を運ぶようになっていた。
物騒な街――その帰り道、凶器を持った物取りに襲われ、必死に逃げていたところを、名もない少女に救われた。
少女は、自分の住む粗末な小屋へ父を匿い、こう言ったという。
「おじさん。もう大丈夫よ」
長い黒髪は脂で張り付き、身なりもひどく汚れていた。
それでも、命を救われた恩に報いるように、父は身寄りのない少女を屋敷へ連れ帰ったのだ。
飢えに苦しみ、愛情を知らずに育った少女。
最初のうちは、ウサギのぬいぐるみや、髪を結ぶ小さなリボンひとつにも、目を輝かせて喜んでいた。
だが、それもやがて当たり前になり、流行りのドレスや宝石を欲しがるようになっていく。
「わたしは伯爵様の命の恩人」
そう言っては、使用人たちに我が物顔で指図するようになった。
そして、ダニエルがデビュタントを迎えたある日――事件は起きた。
次期当主としての、大事な門出だった。
父はダニエルを伴い、顔見知りの貴族たちへ紹介して回っていた。
そのとき――背後から、不穏な声がかかる。
「いずれ、わたしがマイリー家の
伯爵夫人となります。
婚約者の、ノアと申します」
高価な品であったなら、まだよかった。
宝石やドレスを欲しがる傲慢さであれば、命の恩義として目をつぶることもできただろう。
だが、彼女が欲したのは――伯爵夫人の座だった。
その場で父は激怒し、ノアを屋敷へ追い返した。
そして、大事な息子のデビューの場を台無しにされた父の怒りは、相当なものだった。
父は、日を置かずに決断する。
知り合いの裕福な商人を相手に、ノアの縁談を一方的に進めてしまったのだ。
幼い頃、無邪気に笑い合っていた時間が、なかったわけではない。
けれど、いつからかノアは、ダニエルの気持ちなど確かめようともせず、自分の恋心を
「受け取って当然のもの」として差し出すようになった。
視線も、言葉も、距離の取り方も、どこか歪んでいる。
それは好意ではない。
彼の人生に、無理やり割り込んできた異物だった。
「……正直、ほっとしたんだ……
貪欲で、当たり前になんでも
欲しがる彼女が、
去ってくれて……」
「……」
彼の口ぶりに、嘘はないように思えた。
――それが事実なら、ダニエルが、
少年達をブラットのもとから
遠ざけようとしたのも理解できる……
しかし、同時に疑念が広がった。
それでも――彼女を愛し続けたのは、他ならぬ彼自身だ。
「……なら、なぜ……っ?
あなたは、そんな彼女を愛し――」
涙がこみ上げそうになり、イネスは上を向いた。
「……いえ……結局、あなたは
彼女を選んだわ……」
そこまで拒んでいたはずの彼女を、彼は受け入れた。
ノアに、どれほどの魅力があったのだろう。
容姿なのか……
それとも、心なのか……
恨まれるほどのことを、自分がした覚えはない。
それでも、確かな敵意だけが、過去の自分に向けられていた。
それは長い間、胸の奥に抱え続けてきた疑問だった。
――選んだわけじゃない!
ダニエルはすぐにでも、そう反論したくなったが、気持ちをすぐに抑えた。
「……彼女は寒空の中、
泣きながら門の前に立っていた。」
「あれは、ブラットが
君のお腹にいるときだ……」
その瞬間、イネスは目をギュッと瞑った。
彼女がやってきた日。
それは、忘れもしないイネスの苦しみの始まりだった。
ダニエルは、イネスの様子を気にしながらも、話を続けた。
「彼女は震える声で、
夫に裏切られ、離縁されたと
そう語った……」
「俺がバカだった……
生きるのも辛いと、
嘆く姿を見て、
話を聞くだけだと、
彼女を招き入れてしまった
んだ……」
愛らしいキリアンや、イネスの姿が目に浮かび、子供を奪われた「母」だと思うと、彼女を無下にすることが、どうしてもできなかった。
「それがきっかけで
彼女に情が沸いてしまったのね……」
イネスは、寂しいそうに表情を落とす。
「――違う……っ……!!」
「そうじゃない……っ!
断じて!」
ダニエルは、眉間に深く皺を寄せ、悔しさを滲ませた。
「……あの日から、自分が自分で
なくなった……」
「君への嫌悪感が、なぜか強まり……
彼女を愛さなくてはならないと、
なぜか、そう思い込んでいた……」
ダニエルの組んだ両手は、ぐっと強く握りしめられ、白く強張っていた。
「……あれを、
邪術と呼ばずにいられない」
「邪術」――ダニエルの確かな口ぶりに、イネスの頭は混乱し、心は揺れた。
これまで、彼が愛しているのは、ノアだと信じて疑わなかった。
回帰し、彼が変わったのも、
すべてはエンリケ――石の力だと信じてきた。
――しかし、その考え方こそ
間違っていたのだとしたら?
もし彼の言う通り、過去のダニエルが、邪術によって洗脳されていて、石の力が、彼の心を変えたのではなく、邪術そのものを解いたとしたら――。
死んだあの日、
わたしが欲しかったものは"愛"。
この推測が正しければ、キリアンとブラットが、ダニエルのように変わっていなくても納得できる。
――でも、そんなこと……
――確証は持てない。
「……根拠はあるの?」
「灰街へ、あの日彼女は出向いた……
残念ながら、それだけだ……」
「邪術については、
部下に調べさせていた。
だが、ノアが立ち入ったあの日を
最後に、邪術師は忽然と姿を
消した……」
「――なら、推測でしかないわ……」
自責の念から、彼がそう思い込もうとしているのかもしれない。
「さぁ、もう部屋に戻って。
またにしましょう……
明日も早いの……」
「俺は……自分の意思で、
君を遠ざけていたとは
到底思えないんだ……!!」
頭を抱えるダニエル。
イネスが立ち上がり、無言で立ち尽くしていると、ダニエルが観念したように立ち上がった。
「………」
「最後に……
君の事で、酷いことを言った……
だが、あれは本意じゃなかった」
イネスは、口には出さずに小さくうなずいた。
そのまま、言葉は続かなかった。
何かを決めるには、まだ早すぎる。
彼の語った過去も、邪術という言葉も、イネスの胸の中で、形を持たないまま渦を巻いていた。
――少し、考える時間が必要だ。
イネスは、ダニエルを静かに見送ると、寝室の灯をそっと吹き消した。
――その頃、工房近くに住むジャネットの家では、
彼女のすすり泣く声が響いていた。
「……っ……なぜ……
ずっと、お支えしてきたのは
わたしなのに……っ……」
――
マルセルから言い渡された解雇。
工房に戻った彼は、すぐに彼女に告げたのだ。
「……なぜ、わたしが?
工房を追われるようなことは、
何もしておりません。」
「製織図。燃やすように
命じたのは、君だな。」
「ち、違います……っ!!
製織図が、どれ程大事なものか
それは、わたしが一番
よく理解しております。」
証拠なんてあるわけない。
ジャネットは強気で反論するが、マルセルは見逃すつもりはない。
「当てつけみたいに、仕訳まで
してくれて本当に嫌な女。」
「これは君が昼に、ゴミ箱を蹴り、
放った言葉だ……
それに、潰す?
一体誰のことを……?」
職人達が帰った工房は静まり返り、マルセルの低い声が、ジャネットの耳によりいっそう重く届く。
「次はない。
そう告げたはずだ……
私情を挟む者を、傍には
置けない。」
「それは、イ、イネスさんのこと
ではありません……っ……本当に
ちが……違うんです……」
両手を胸に当て、必死に訴えるジャネットに、マルセルは、ある証拠を突き付けた。
目の前には、外部に依頼した写字工房からの請求書。
サインには偽名が使われていたが、長年一緒に働いてきたマルセルには、それがジャネットのものだということがわかった。
「……君のことだ。
予備は用意していると思っていた。
近場に依頼したのは、判断ミスだ。
擦りきれた紙まで使うとは……
ずいぶん手が込んでいる」
請求書を手に取り、ジャネットの手はひどく震えていた。
「……違います……
わたしではありま――」
「イニーを追い出したあと、何事も
なかったように、元の場所へ
戻すつもりだったんだろう」
言い訳を並べようにも、マルセルの表情には、一切の隙がなく、ジャネットは口を閉ざすしかなかった。
「工房を去る理由は、
体調不良によるものとしておく。
君のしでかしたことを
公にしない――
それが、せめてもの情けだと
思って欲しい。」
ジャネットが去り、さらに静かになった工房。
マルセルは持ち帰った資料を取り出した。
「さぁ、こっちも大詰めだ……」
――次話予告
追い詰められた者の恐ろしさ。




