41話 それぞれの温度
集まる視線の中、イネスは一瞬ためらい、それでも意を決したように棚へ手を伸ばした。
「年ごとに分けて、
保管してあります」
そこにあった製織図は、彼女の言葉どおり、何一つ欠けることなく揃っていた。
「……すごい。
こんなに、わかりやすく……」
一人の職人が声を漏らす。
次々と製織図を手に取り、仕分けの丁寧さに感心したようにうなずいた。
マルセルも思わず目を見張る。
「まさか……君が、これを?」
製織図は年ごとに整理され、さらに糸や柄の種類ごとに細かく分類されていた。
長年工房にいる者でも、ここまで徹底するのは容易ではない。
「こうしてまとめておけば、
誰が見ても分かりやすいと
思いまして。
仕舞うついでに、
少し整理しました。」
控えめな言い方とは裏腹に、その仕事ぶりは明らかだった。
イネスは、ようやく肩の力を抜いたように、ほっと息をつく。
――その瞬間。
一人の職人の顔から、すっと血の気が引いた。
「あ……そういえば……
イネスさんに、
ここを整理していいかって……
聞かれたような……」
工房では珍しくない。
仕事に没頭すれば、些細なやり取りは記憶の端へ追いやられる。
「……な、なんだって!?」
たった一度の確認不足。
それが、工房全体を巻き込む騒ぎになっていた――
そう気づいた瞬間、彼は反射的に頭を下げていた。
「皆さん……本当に、
すみませんでした……」
マルセルは手で顔をなぞり、にじんだ冷や汗を拭う。
「……よかった。本当に……」
張り詰めていた空気が、一気に解ける。
イネスへ向けられていた疑念と怒りは消え、人々は安堵の息を漏らした。
「おい、確認くらいしろよ」
「箱しか見てなかったな。
見つからないわけだ……」
軽口が飛び、肩を叩く者もいる。
当人の顔には、安堵と恥ずかしさが入り混じっていた。
「みんな、ご苦労だった」
マルセルは場を見渡し、冗談めかして続ける。
「これで全員、仕事を失わずに済む。
冬も、無事に越せるな」
笑いが広がる。
「さあ、持ち場に戻ってくれ。
遅れた分を取り返そう」
号令とともに、人々はそれぞれの仕事へ戻っていった。
「あの……遅刻して、すみませんでした」
雇用主と使用人。
イネスは立場をわきまえ、慎重に言葉を選ぶ。
「それはいい。
……それより、イニー。
昨日のことも含めて、話がある。
あとで、俺のところへ来てくれ」
声を落とし、周囲に聞かれぬよう告げる。
「わかったわ」
いつもの、気さくなやり取り。
だが、それはジャネットにとって耐え難い光景だった。
――じっと睨みつけ、握られた拳に悔しさが染みる。
――燃やせと言ったのに……!
製織図が失われていれば、イネスに居場所はなかったはずだ。
新人の失敗として切り捨てる――
その目論見は、完全に崩れ去った。
「……当てつけみたいに、
仕訳までしてくれて。
本当に……嫌な女!」
外へ飛び出し、苛立ちをぶつけるようにゴミ箱を蹴飛ばす。
中身が床に散乱した。
――どうせ、片付けるのはイネスだ。
そう思うと、わずかに気が晴れ、口元が歪む。
「……まだ、これからよ。
すぐに潰してやるわ」
手櫛で髪を整え、何事もなかったかのように立ち去る。
――だが、ジャネットは気づいていなかった。
怒りを含んだ眼差しで、その背を見送る者がいたことを。
「燃やさなかったんです」
イネスの言葉に残った違和感。
それを確かめるため、マルセルは彼女を追っていた。
床に散乱したゴミを見つめ、深く息を吐いた。
胸の奥に残った違和感と怒りを、言葉にすることもできないまま。
そのときだった。
「マルセル様!」
工房の使いが、息を切らして駆け込んできた。
「ベルローズ家より、急ぎの書状が……」
差し出された封筒を見た瞬間、マルセルの表情が、わずかに引き締まった。
部屋へ戻り、封を切りると、走り書きの文面に目を走らせる。
読み進めるにつれ、眉間にしわが寄った。
――今すぐ、向かわねばならない。
そう悟ったとき、
ふいに脳裏をよぎったのは、イネスの姿だった。
昨日のこと。
今日のこと。
工房で交わした、あの短いやり取り。
……話さなければ
彼女の言葉を聞き、自分の考えを伝えるつもりでいた。
だが、時間がなかった。
マルセルは、工房の階下へと視線を落とす。
忙しく働く人々の中に、イネスの姿を探すが――見当たらない。
「……くそ」
小さく呟き、唇を噛む。
今は行くしかない。
それでも、心は置き去りにされたままだった。
「……明日こそは。
「必ず、ちゃんと話そう」
そう自分に言い聞かせるように呟き、マルセルは踵を返した。
――イネスはこの日、何度かマルセルのもとを訪ねた。
しかしその後、彼が工房に姿をあらわすことはなかった。
「話があるっていってたのに……」
イネスは、名残惜しく思ったが、外が暗くなる前に帰ることにした。
まばらに降った雪。
イネスは屋敷の前で雪を払い落とし、玄関をくぐった。
その途端、弾むような足音とともに、聞き慣れた声が飛び込んでくる。
「ヘレンと、湯の準備をしたんだ!」
「母さん、さっそく入ってきてよ」
キリアンとブラットの、明るい声。
朝の出来事が頭から離れなかったイネスは、ブラットの表情を確かめるように見つめ、ようやく安心したように微笑んだ。
「……もう大丈夫なの?
朝は慌ただしくて、
ちゃんと話せなかったから……」
仕事へ向かうため、そのまま屋敷を出たことが、ずっと胸に引っかかっていた。
「そ、そんなことはいいから!
お湯が冷めちゃうよ」
ブラットが背を押し、キリアンが手を引く。
抵抗する間もなく、イネスは浴室へと連れて行かれてしまった。
「ゆっくり、体を温めてきて」
すでに湯は張られ、清潔な寝着も用意されている。
その光景に、イネスは目を瞬きさせた。
「……キリアンとブラットが、
わたしのために……?」
湯に身を沈めると、じんわりと熱が広がり、
張り詰めていた体の芯が、ほどけていく。
それは湯の温かさだけではなかった。
二人の気遣いが、静かに胸の奥へ染み込んでくる。
イネスは小さく息を吐き、目を閉じた。
張り詰めていた表情が、ようやく安堵に緩む。
――その頃。
浴室の扉の外で、キリアンとブラットは顔を見合わせていた。
どちらからともなく、口元に小さな笑みが浮かぶ。
「……ねえ、ブラット」
「うん。わかってる」
声を潜め、二人は頷き合う。
次の瞬間、揃って踵を返した。
廊下を駆ける足音は、次第に速くなっていく。
三階で書類に目を通していたダニエルのもとへ、
二人の切迫した声が響いた。
「父さん、大変だっ!!
イネスさんが倒れてる!!」
「母さんが、死んじゃうよ!!」
血の気が引くのを感じる間もなく、ダニエルは立ち上がる。
二人に導かれるまま、浴室の前へ辿り着いた。
「イネス!!」
扉を開けた瞬間。
「きゃあぁっ!!」
視界に飛び込んできた光景に、イネスは悲鳴を上げた。
湯から出ようと、立ち上がったその時であった。
ダニエルと目が合い、イネスは湯の中に急いで身を沈める。
ガチャンッ!
同時に、外側から鍵が掛けられる。
「ダニエル……っ!?」
わけも分からぬまま、イネスは声を張り上げた。
「倒れたと聞いて……!
す、すまなかった!!」
慌ててその場を離れようと、ダニエルは取っ手に手を伸ばす。
――だが、開かない。
背後で、遠ざかる足音。
そして、かすかな笑い声。
そのとき、ようやく悟った。
……これは、子供たちの悪戯だ。
「どういうことなの……?
鍵が開かないの?」
扉越しに届く、イネスの不安げな声。
「ダニエル……!?」
沈黙。
「……どうして黙っているの?
ねぇ……ダニエル?」
その瞬間、ダニエルの意識から、子供たちの存在は完全に消え去っていた。
久しぶりに目にした、イネスの体。
あらわな曲線が、ほんの一瞬、無防備にさらされる。
それは刹那に過ぎなかったが、下腹の奥を熱く灼くには、あまりにも生々しかった。
視線を逸らすより先に、身体が反応してしまったことを、ダニエル自身が誰よりも理解していた。
「……キリアンとブラットが、
鍵を掛けたみたいだ……」
正気を保つように、振り返らず答える。
「……どうして、そんなことを……」
イネスは、二人に手を引かれて浴室へ急かされたことを思い出し、胸の奥に、嫌な予感が広がっていく。
その気持ちとは裏腹に、背越しに伝わる揺れる水音が、ダニエルの欲望を掻き立てた。
深く息を吸い吐き出していく。
――落ち着け。
そう言い聞かせても、脳裏からは、先ほどの光景が離れない。
湯気に縁どられた、白い肌。
濡れた髪。
不意にこちらを見上げた、その一瞬の目。
彼女の肩に手を置き、
濡れた乳房に顔を埋め、
そのまま唇をなぞらせたい――!
――馬鹿なっ…!!
な、なにをふざけた妄想を……
こんなの、さらに嫌われるだけだ……
「ねぇ、ダニエル。
朝の事なんだけど……
ちゃんと話をしましょう」
「……あ?……話?」
「子供達が、どうしてこんな
イタズラをしたのか……
ちゃんと考えないといけないわ」
「……そ、そうだな」
「でもその前に……
服を着たいから、そのまま
そっちをむいていて。」
「……わかった」
服を着てしまうのか……
――次話予告
父と母の役割の違い
向き合う家族の形
最近よく聞く言葉
「それ、あるくない?」
いつの間にか新語が誕生してた!!
聞くたび、耳がピクッと反応。
これってわたしだけなのか……




