4話 破滅から再生へーー愛を繋げる。
彼女は目を大きく見開き、瞬きすら忘れたまま、必死に涙を堪えていた。
床に落ちた雫が、ぽた、ぽた、と音を立てはじめた頃には、胸が締めつけられていた。
「……ごめん……っ」
差し出した手は、震える彼女の拳すら止められない。
つい先ほどまで――謝罪と誠意を示せば、少しは報われると、甘い考えすら持っていた。
浮かれていたのだ。
イネスは生きて、ここにいる。
自分もまた、時を巻き戻し、やり直す機会を得たのだから。
過去より未来を――そう思えば、きっと前に進めると。
しかし、握られた掛布の擦れる音でさえ、静まり返った部屋には痛いほど響く。
こんな状態で想いを伝えても、届くはずがない。
時間をかけるしか――そう思った矢先だった。
ダニエルはイネスの目を見つめ、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「言葉では伝えきれない……
君には、しっかり償って――」
「ねぇ!!」
その言葉を、イネスが遮った。
「償いって……なんのこと?」
視線を落としたまま、首筋は崩れ、涙だけが無力に零れ落ちる。
「謝らないで……っ」
「そうしたら、いずれ……
許さないといけなくなる
でしょう……?」
落とした声は震え、今にも途切れそうだった。
「あなたの罪の重さは……
とても深いの……」
――花の香り。ラベンダー。
浴室の水の音に誘われ、そっと覗いた先で見たのは。
白い肌を晒したノアを抱く、夫の腕。
漏れる息と声。
それは愛情ではなく、裏切りの音だった。
あのときの夫は、“別の誰か”のようだった。
怒りが頭に昇り、抑えることなどできなかった。
そのわたしに向かって、彼は――
「妊娠した妻を抱く気にはなれない」
そう言って、隠しもしなくなった。
息子たちの乳母は愛人となり、屋敷で我が物顔で振る舞う。
「謝る理由を、ちゃんと説明して
一つや二つじゃないの……っ」
嗚咽が喉を締め付ける。
胸の奥を、冷たい手で掻きむしられるような痛み。
時計の針が刻む音だけが、静かに響いた。
少しして、イネスは涙を拭い、気丈に顔を上げた。
「看病してくれたのは……
感謝してるわ」
過去とは違う、優しげな夫。
それでも――
「……けど、今さらよ。
そんなちっぽけな優しさ、
いらない」
「イネス、俺は……っ」
重ねられた手を、イネスは勢いよく払った。
瞳に宿るのは、嫌悪と――深い恨み。
「わたしに触らないで!
あなたには“ノア”がいるでしょ?」
――エンリケ様……
あの“女”が屋敷に棲み憑く前に、戻してくれなかったのはなぜですか……?
忘れられない日。
外は大雪が降っていた。
つわりで弱った私に、夫は言った。
「キリアンの面倒を見る
乳母を連れてきた。」
提案ではなく、一方的な“決定”。
その女こそ――ノア。
露出の多い衣服、結われていない黒髪、伸ばした爪。
乳母にふさわしくないその姿に、最初から嫌な予感があった。
屋敷に巣食い、蝕んでいく“悪魔”。
彼女に陥れられ、子どもすら奪われた。
――また苦しむの?
――また耐えなきゃいけないの?
時を遡り、生き返ることはできた。
だが――
イネスは鋭くダニエルを睨む。
敵を見るように。
――この人は知らない。
わたしが、一度“死んだ”ことさえ。
奪われ、切られ、捨てられた。
惨めに死んだ記憶が蘇り、歯がカタカタと鳴った。
謝罪で溶けるものではない。
閉ざした心は、頑なな盾そのもの。
「全部……俺が悪い。
本当にすまなかった……」
伏せた目が震え、唇を噛む夫。
だが、その弱々しい姿すら、イネスには癪だった。
「やめて……。
許せるはずないんだから……」
「でも、本当にすまなかった……」
「やめてってば!!」
繰り返すだけの謝罪。
その無意味さに耐えきれず、イネスはついに吐き出した。
「わ、わたし……死んだのよ……っ」
水面に落ちる一滴のように、静かな告白。
だが、その衝撃は部屋いっぱいに広がった。
「痛かった……苦しかった……
そして、さみしかった……」
啜り泣く声が、底なしの沼のようにダニエルを沈めていく。
あなたの知らない時間に、
わたしは長く苦しんだ。
そして、死んだ。
簡単に考えないでほしい――。
再び涙が溢れた。
嗚咽を抑えられず、ただ泣き続ける。
ダニエルは汗ばむ額を拭い、強制的に記憶を手繰っていく。
――“石”の力を。
『……その願い、叶えん。
されど、この力、二つに裂ける』
イネスの胸元で、ネックレスがふわりと光った。
「……そうか」
イネスが生きていることが嬉しくて、
肝心なことを忘れていた。
夢ならよかったと、そう願っていた。
死の恐怖を語る彼女は、怯え震えている。
なぜ、自分は気づけなかったのか。
回帰したのは、自分だけだと思っていた――。
イネスも戻ってきていたのに。
あの日の彼女は、無惨だった。
背中は切り裂かれ、殴られた痕が無数にあった。
辛かったはずだ。
痛かったはずだ。
許せるわけがない。
――あれは、俺が殺したようなものだ。
興奮と熱。
しばらくすると、彼女は力なく倒れ込んだ。
イネスを抱きしめながら、ダニエルは静かに震えた。
「……俺は、馬鹿な男だ……」
眠る妻の顔を見つめ、安堵と痛みが胸に入り混じる。
「イネス……俺も戻ってきたんだ……」
囁く声は、罪を抱く覚悟のように震えていた。
――罪は消えない。
許しを願うことさえ傲慢かもしれない……。
それでも。
抱く腕に伝わる温もりが、生きている証を教えてくれる。
胸が熱くなる。
喜びに震える自分を、どうか許してほしい。
「君を二度と失いたくない……。
贖罪を背負って、生きるから……
ごめんよ、イネス」
ダニエルはそっと彼女の手に触れた。
揃いの指輪はかすかに輝いていた。
いつ手放したのか記憶すらない。
だが――指には確かに残っている。
エンリケの石に、心から感謝した。
だが、石は静かに光る。
――『女の意志もあり、されば苦しみに呑まれん』
ダニエルもまた、苦しむだろう。
けれど、それが罰なのだ。
石は嬉しげに光り、イネスの胸元を照らした。
――
夜が明けきらぬ明朝。
イネスはゆっくりと目を覚ました。
胸が高鳴り、カーテンを勢いよく開ける。
急ぎ身支度を済ませる頃には、心はすでに軽かった。
焼きたてのパンの香りが小屋に満ちる。
この“罰部屋”で、かつてイネスは孤独と共に生きる術を学んだ。
だが、今日の彼女は違う。
――あの人たちの食卓に、このパンを持っていく。
子ども達がノアを慕う姿から、ずっと目を背けてきた。
もう逃げない。
乳母なんかに負けない。
かごにパンと果物を詰め、身なりを整える。
髪に油を馴染ませ、肌に精製水を重ねてしっとりと仕上げる。
「これからはもっと着飾ろう。
遠慮なんてしない」
鼻歌が思わず漏れた。
――泣いて眠って、思い切り休んだ。
心も体も、ようやく軽くなっていた。
――キリアンとブラットに早く会いたい。
そう思うだけで、胸が温かく満たされる。
「このドレスが一番上等ね!」
白地に黄色の百合が咲く、美しいドレス。
結婚前に半分だけ買い取った、大切な布で仕立てたもの。
社交界から遠ざかり、袖を通すことはなかった。
――今日のわたしを、応援してくれる。
姿見の前で最後の仕上げをしながら、
「あっ、いけない……!
これを忘れるところだった」
エンリケのネックレスを手に取り、胸元へ。
希望の証が、今日の勇気を照らす。
準備は整った。
「さあ、いくわよ――わたし!」
昨夜、涙が落ちた場所に、朝の光が差していた。
死に戻ったイネスに、もう恐れはない。
惨めに死ぬことだけは、二度としない。
これは、捨て身の一歩。
そして――新しい自分の幕開けだった。
――次話予告
隔てられた境。
罰部屋に追いやられた理由とは。




