39話 沈黙の選別
イネスを見守りつつ、ダニエルは胸の内で複雑な感情に揺れていた。
昼の失言を撤回し、謝りたい衝動。
だが、疲れきった彼女を前に、まずは休ませてやるべきだ――理性がそう告げる。
子供部屋に向かい、はだけた布団を整える。
二人の寝相の悪さに、ダニエルはわずかに笑った。
しかし、部屋を出ようとする足は止まり、心は落ち着かない。
眠るブラットに寄り添うように横たわり、小さな寝息を聞きながら、瞼をゆっくり閉じた。
――そして、真っ暗な視界の中に、百合のドレスに包まれたイネスの姿が浮かんだ。
くたびれたドレスばかりを身にまとっていた彼女が、死に戻り最初に選んだのはあの派手なドレス。
マルセルの部屋に飾られた同じ柄の布。
その向こうに、二人の間で交わされた、見えない物語がちらつく。
マルセルの知ったような口ぶりに、いら立ちは今も消えない。
――彼女がドレスを作ったなんて、嘘だ。
俺の記憶には、そんな姿はなかった。
だが同時に、イネスが酒の味を知らないことも、部下に薬を配っていたことも知らなかった。
貴族の妻でありながら、生活の足しに薬草を摘む哀れな女――過去の自分は、彼女を追い込みつつもそれに気づかず、愚かにもそう思っていた。自分の立場と矛盾する考えを抱えていることすら、理解していなかったのだ。
「本当に邪術のせいなのだろうか……
曖昧な記憶も、何もかも……」
混乱する頭。自分の見ている世界が、果たして真実なのかさえ疑わしかった。
ただ、荒れた手に、痩せ細った頬。
彼女のあんな姿、二度と見たくない。
その思いは確かだった。
――たった一日で、あの様だ……。
どうすれば、イネスに仕事を
やめさせられる……?
大きくため息をつき寝返り、部屋をぐるりと見渡す。
昼に依頼していた業者のおかげで、天井や壁は見違えるほどきれいになっていた。
「……イネスの部屋も、もっと整えて
やらなければな……」
サイズの合わないベッドから、足先がはみ出していた。
無意識に視線を足先から上へと滑らせる。
そして、壁に飾られていたはずのブラットの剣が、すべて消えていることに気づいた。
これは、ブラットがメッカに置いていくのを拒んだ訓練用の剣。
壁にあったそれらは、一つも残っていなかった。
――盗まれたのか!?
まず疑ったのは、昼に出入りした業者だった。
しかし、騎士たちの目もある。
その中で盗み出すことなど至難の業だ。
ダニエルは、二人を起こさないように部屋中を確認した。
目につく金目のものはなくなってはいない。
しかし――ふとヘレンの言葉を思い出す。
「ブラットぼっちゃんに、
たくさんのパンを焼くように
たのまれておりまして。」
その時は、食べ盛りだと思って聞き流していたが、どうにも気になる。
食材置き場に向かうと、布が掛けられた大量のパン。
ダニエルは無言で布を元に戻すと、外で見張りをしていた騎士を呼びつけた。
「明朝、ライアンをすぐに
俺のもとへ来させろ!」
翌朝、ライアンは急ぎダニエルのもとへ訪れた。
ダニエルからの追及に、今頃になってブラットの近況の報告をした。
「お前は平民の子供との接触を
自らの判断で放任し、報告を
怠った。」
「弁明の余地もありません……。」
ダニエルは厳しく叱責し、その場でライアンに謹慎処分を言い渡した。
貴族と平民。
そこには明確な線が存在する。
社交性や人脈を厳選するために、寮に入り、学術院へ入学させる。
品位を保つためにも、平民の子供と仲良くすることには目をつぶることができない。
ダニエルは、屋敷の前でパンを配ろうとするブラットを呼び止めた。
「屋敷に戻りなさい。」
ダニエルは少年達の前に立ち、上から見下ろすように順に見ていく。
整った身なりに一見見えても、穴の空いたブーツに汚れた髪。
そして背中に掛けられたブラットの模造剣。
ダニエルは顔を厳しくしかめた。
「………わかったよ」
いつもの様子と違う父。
ブラットは戸惑う。
「でも、パンをみんなに配ってから……」
「ねえ父さん、そこをどいて……」
ダニエルはブラットに構わず、少年達の着ている服。
素材を確認していく。
これは平民の子供が身に付けられる代物ではない。
おそらくブラットの私物だ。
ダニエルは舌を打ち、
ライアンへの怒りがより増した。
張り詰めた空気に少年達も息を呑む。
まわりには騎士達が並び、圧倒され体は震えっぱなしだ。
「お前達、親は?」
「……いません」
「孤児か。」
「マザーならいます……」
尋問のように追及をする父に対して、ブラットは小さな怒りを覚えた。
「僕の友達が何かしたの!?」
「その友達とやらが、着ている服も、
剣も……これはお前の物だろう?」
「ぼ、僕が好きであげたんだ!
たくさんあるんだから、
いいじゃないか!!」
「こいつらは、お前から
物をもらうために近付いてきたんだ。」
ダニエルは再び視線を少年達に移すと、さらに厳しい目を向けた。
「ち、違います!!」
「僕たちは、物が欲しかったん
じゃない……!」
涙目になりながら、少年の一人がボタンを一つ外した。
「返します!!
今すぐ脱いで返しますから、
ブラットを叱らないでください……」
この凍てつく寒さの中。
他の少年も服を脱いでいく――。
ブラットは声を張り上げた。
「みんなやめて……っ!!
脱がなくていいから、
返さなくていいんだ……」
ダニエルは、駆け寄ろうとするブラットを制止し、少年達の姿を黙って見ていた。
「……みんな、お腹が空いているんだ……」
少年達の細い体は大きく震えていた。
「僕の友達だ……
パンくらいいいじゃないか!」
「施しをするような相手を、
友達とは呼ばない。」
そこへイネスが、青い顔で駆けつけた。
「……中に入れてあげて
子供たちが凍えてしまうわ」
ブラットがイネスに飛び付く。
助けを求めるようなそんな顔をしていた。
状況は理解できない。
けれど、目の前の子供達を放ってはおけなかった。
しかし少年たちは、イネスの言葉には従わず、ダニエルを黙って見上げていた。
ブラットの父の一言。
"施しをするような相手を、友達とは呼ばない"。
――この言葉が、少年達の心に小さな火を点けた。
「ブラットと、僕たちは本当に
友達なんです……!」
プライドを守るために、彼らは着ていた服を脱ぎ、差し出すことで、友達としての意志を示そうとしたのだ。
ダニエルは叱責もせず、ただ黙って少年達の手元と表情を追っていた。
震える指先、必死に結ばれた唇――そこに打算は見えない。
イネスには状況の本質までは捉えられなかったが、これは父子の葛藤の只中であり、口を挟むべき場ではないことだけは理解していた。
「……薄着では寒い……君は中へ……」
ダニエルは上着を脱ぐと、イネスの肩に掛けようとした。
イネスはそれをサッと交わす。
「凍えてしまうわ……
みんな中に入りましょう……」
「……いいんです。おばさん!
僕たちは帰ります!!」
歯をガタガタと鳴らし寒さに耐えつつも、少年達は静かにダニエルを睨んだ。
「み、みんな……ごめん……」
ブラットは涙を流し、その小さな背を見送った。
「僕は、おいしいパンを、みんなに
食べてほしかっただけなんだ……」
パンの入った袋は、ブラットの手から滑り落ち、薄く積もった雪に散らばった。
「彼らとは友達になれない。
身分が違う。」
ダニエルはパンの一つを拾い上げると、ブラットにそれを手渡した。
「友とは、釣り合ってこそ
関係が成り立つ。
物を分け与え、それを"証明"したのは
他でもなく、お前自身だろう?」
ブラットの胸は張り裂けそうだった。
言葉の意味は理解できても、その重みを噛み締めるにはまだ幼すぎた。
屈辱に満ちあふれ、父を恨まずにはいられなかった。
しかし――ブラットは知らない。
少年達の必死な姿を前に、ダニエルは静かに結論を下していた。
彼らは、切り捨てるべき存在ではない。
「マザー」
彼らが暮らしているのは、おそらく孤児院だ。
伯爵家として、名を伏せた支援を行うことは難しくない。
もしこの先、縁が繋がることがあるなら――
ブラットと少年達は、別の形で再び相まみえることになるだろう。
ダニエルはそれを口にすることはなく、静かに屋敷に戻っていった。
「ブラット。あなたも中へ――」
雪の降った朝の冷たい空気が肌を刺すようで、その鋭い寒さと共に、父と子がすれ違った二人の葛藤を、イネスは忘れてはならないと固く誓った。
――次話予告
大事な書類を燃やしてしまったのは誰か。
始まった犯人捜し。
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これが令和か…




