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36話 薬草を摘んでいただけの女


凍るような石の壁。

静まり返った屋敷は、夜が明けてもなお、冷気を溜め込んでいた。

 

  「……な、なんで誰もいないのよ……」

 

呼び鈴を鳴らしても、返事はない。

いつもなら、すぐに桶を抱えた使用人の足音が聞こえる時間だ。

もう一度、強く鳴らす。

それでも――何も起こらなかった。

 

  「……ふざけないで……」

 

寝着のまま廊下に出ると、足元から冷えが這い上がる。

靴の音だけが、やけに大きく響いた。

 

  「……どうなっているの……?」

 

食堂に向かっても、パンの香りも、湯気もない。

整えられたままの食卓が、まるで“誰も来る予定がなかった”かのように沈黙していた。

 

  「……朝食が、ない……?」


胸の奥が、すうっと冷える。 

冗談だと笑おうとして、喉が引きつった。

 

  「ちょっと……

   誰かいるんでしょ……っ……!」

 

返事はない。

空気だけが、耳鳴りのように重く圧しかかる。

――そのとき、ようやく理解した。

 

ここには、もう誰もいない。

 

  「……ッ、だぁぁぁ、ニエル――っ!!」

 

叫びは石壁に反射し、虚しく砕けただけだった。



――

 


マルセル工房では、朝の業務説明が淡々と進められていた。

 

  「“伯爵夫人”は当面、清掃を中心に……」

  「この環境に慣れることを

   優先してください」  

  「指示は一度で覚えるように。

   まっ、掃除だけなので質問なんて

   ないでしょうけど……」

 

説明というより、線を引くような言葉だった。

ジャネットは言い終えると、迷いなく踵を返す。

 

  「あ、あの……」

 

イネスが、ためらいがちに声を上げた。

 

  「説明は終わりです」  

  「体で覚えてください」


  「いえ……そうではなく……」  

  「“伯爵夫人”ではなく、下の名で……」

 

一瞬、空気が張りつめる。

 

  「……理由は?」

 

立場を使えば、楽ができる。

それが当然なのに。

 

  「皆さんと、同じ立場で働きたくて……」

 

  「………」

 

――夫がいながら。

――それでも、ここに来た女。

 

  「……では、“イネスさん”」  

  「わたしは行きます」

 

書類を抱えながら、ジャネットは内心で舌打ちした。


  善意の顔をしたまま、人の場所に

  踏み込む……

  本当に質が悪い女……


ジャネットの背を見送るイネス。

呆気にとられていた。

 

  「……少し、厳しい方ね」

 

イネスはそう呟き、掃除用具を手に取った。

 

  「でも、頑張らないと」

 

縫製盤の隙間に溜まった繊維。

それを丁寧に拭き取りながら、作業の流れを目で追う。

 

  「……朝のうちに掃除しておけば、

   効率がいいわ」

 

二階の執務室から、その様子をマルセルは見ていた。

胸がざわつくのを、理性で抑え込む。

 

  「ジャネット。なぜ、彼女が掃除を?

   俺は仮縫いを任せるようにと――」

 

  「仮縫いにはまだ不安があると」  

  「本人の申し出です」  

  「早く工房に慣れるためにも、

   適切かと……」

 

――仮縫いを新人に任せるわけにはいかない。

――マルセル様の目は曇っているわ。

わたしが正さないと……。

 

  「……そうか、彼女が……」

 

   終業時、昨日の件も含めじっくり

   話をしよう……


公私は混同してはいけない。

マルセルはそれ以上は言わず、倉庫へ向かった。

 

 コンコンッ

 

  「ジャネット様。マルセル様はどちらに?」

  「マイリー伯爵様が、お見えです」

 

  「……マイリー伯爵?」

 

  ――あの女の、夫。

 

  「マルセル様の私室へ案内して

   ちょうだい。」

 


案内された部屋で、ダニエルは足を止めた。

 

 「……これは」

 

この布は彼女の着ていた百合のドレスと瓜二つ。


 「……いや、偶然だ……」

 

そう呟いたものの、声は自分でも驚くほど掠れていた。

指先に残る布の感触を、無意識に親指でこすり落とす。

視線を外そうとして、外せない。

頭の中で、否定の言葉だけが先に立つ。

 

  ――違う。

  ――似ているだけだ。

 

だが、胸の奥で何かが静かに軋んだ。

 

一歩、後ずさる。

その拍子に、靴底が床を擦り、乾いた音が室内に響いた。

 

 コンコンッ

 

扉を叩く音に、ダニエルはわずかに肩を震わせた。


  「すみません伯爵様……

   職人の手違いでこちらに案内をして

   しまい……」


ジャネットは申し訳なさそうに扉から顔を出した。

 

 「あっ……あと、その布には

  触れませんように……

  その布は、マルセル様の大事に

  なさってるものですから……」

 「すぐに応接室へ案内します」


 「大事なもの……?」


言葉を繰り返しながら、ダニエルは一度だけ、布に背を向けるのをためらった。

 

 「用事を思い出した……

  君の主には、出直すと伝えてくれ……」


それだけ告げると、踵を返す動きは、どこか急いていた。

扉が閉まる音が、やけに大きく響く。

 

 「……はしたない女」


  伯爵様の目を汚し、マルセル様の

  心を惑わせる存在が、許される

  はずもない。


  わたしは、それを正すだけ。

 

そう思いながら、ジャネットは微笑んだ。

 

外へ逃げるようにして出てきたダニエル。

ふと、我に返り工房の前庭で足を止めた。

慌ただしく行き交う職人たちの背を、しばらくぼんやりと眺めてから――はっと息を吐く。

 

  「……なぜだ」  

  「なぜ、俺が退く必要がある」

 


胸の奥に残るざらつきを、言葉で押し潰すように呟く。

動揺したまま、イネスの顔さえ見ずに飛び出してしまったことが、今さらのように悔やまれた。

馬の手綱を掴み、必要以上に強く縛り直す。

 

  「夫は、俺だ」  

  「そもそも……布一枚で……」

 

言葉が途中で途切れる。

 

  「確証など、何もない」

 

そう言い切ることで、自分自身を納得させた。

 

再び工房へ戻ろうと、扉へ向けて一歩踏み出した――そのとき。

 

  「伯爵様、本日はどういった   

   ご用件でしょうか」

 

不意に掛けられた声に、ダニエルの足が止まる。

マルセルが、いつの間にかそこにいた。

 

  「……妻の働く“雇用主”へ、

   挨拶が必要だと思ってな」

 

少しだけ、声が硬い。

 

  「挨拶など……」  

  「彼女が“困って”いたので……

   手を差し伸べるのは当然でしょう」

 

  「……困っている、か」

 

口元に、かすかな笑みが浮かぶ。

だが、目は笑っていない。

 

 「彼女は困ってなどいない」

 「妻のやりたいことを尊重するのも、

  夫の務めだろう?」

 

静かな声音の奥に、確かな棘が潜んでいた。


  「……夫の務め、ですか」

 

低く、噛みしめるような声。

胸中に湧き上がった感情は、言葉にせず飲み込む。

 

  ――長年、彼女を裏切り、よくも

  そんな言葉が吐ける。

 

マルセルの鋭い視線を正面から受け止め、ダニエルは静かに鞄へ手を伸ばした。

革の留め具を外す音が、やけに大きく響く。

 

  「……貴殿との取引だが」  

  「今季の冬期納入分をもって、

   更新を見送る」

 

マルセルの胸に叩きつけられた書類。

封蝋の色が、はっきりとマイリー家の印を示している。

 

  「ボルテウ産の上質絹についても、

   次季以降の買付は行わない」

 

マイリー家は、マルセルを通じて、他国から流入する高級絹を大量に確保してきた。

その契約は、単なる取引ではなく――安定供給を前提とした長期枠だった。

 

  「…………」

  「伯爵様……その判断は、

   いささか拙速では?」

 

マルセルは声を抑えつつも、言葉を選ぶ。

 

  「ボルテウの絹は、品質、歩留まりともに

    他国の追随を許しません」  

  「我が工房が担ってきた   

   選別、加工、輸送の負担を、

   どうやって賄うおつもりですか?」

 

正論である。

マイリー家にとっても、痛手であることは明白だ。


  「貴様には関係ない」


ダニエルは風を切るようにマルセルの前を横切ると、イネスを一目見ようと、外から工房を覗いた。


男だらけの職場に、金色の長い髪を縛り上げ、大きな布を整頓するイネスの姿が映り込む。

 

  「もう、そろそろいいでしょう

   お帰りください」


後ろから様子をみていたマルセル。

たまらず声をかける。


  「……とるに足らない

   雑用ばかりしているな……」


ダニエルの表情は、重く沈んでいた。

これ以上、彼女に苦労をさせるつもりはなかった。


家の雑用ひとつ、使用人に任せればいい。

彼女が手を汚す理由など、本来どこにもない。

それだけの財も、立場も――自分にはある。


それなのに、彼女はそれを選ばなかった。

「離婚」をつきつけ、差し出した支援にも、迷いなく背を向けた。


  「今だけだ……」

 

ダニエルは、独り言のようにマルセルへ向かって呟く。

 

  「……こんなことを、いつまでも

   許せるはずもないだろう?」  

  「彼女の気が済めば、ここはすぐにでも  

   やめさせるつもりだ」

 

視線が、鋭くマルセルを射抜く。

 

  「この業界は厳しすぎる」  

  「経験もない彼女が、簡単な気持ちで

   立ち入っていい場所じゃない」

  「君もわかっていて、雑用を

   させているんだろう?」

  

微かに鼻から息をもらし、マルセルはその言葉に何も返さなかった。

ただ、ほんの一瞬―― 

口元が、わずかに歪む。


  「…………」


  ――愚かな男だ……

 

胸の内で、そう断じる。

彼は知らない。

布を前にしたときの、イネスの集中した眼差しを。

指先に宿る確かな感覚も、縫い上げる瞬間に見せる、あの静かな美しさも。


 「彼女の手掛けた作品を、ひとつでも

  手にとり、みたことがありますか?」


 「……作品?」


彼女の良さなど、自分さえわかっていれば良かった。

――しかし、イネスをバカにされたようで、マルセルは黙っていることができなかった。


  「彼女の百合のドレス……

   そして、子供達のために

   繕った服です」


  「……百合のドレスだと?」


マルセルとの関係性が疑われる百合のドレス。

今はその話題さえ、ダニエルは重く聞こえた。


 「身に着ける人間が良ければ、

  布など、勝手に映える」


そう言い放った瞬間、胸の奥で、何かが小さく軋んだ。

百合のドレスも、それを見にまとったイネスも息をのむほど美しかった。

だが、認めてしまえば自分が負ける気がして、言葉だけが攻撃的になる。

  

  まさか、あれをイネスが?

  いや、そんなはず……

  彼女に、そんな才があるわけないんだ……


  「彼女の手掛けた作品は

   デザイン性もさることながら、生地を

   這わせた百合が絶妙な位置に――」


食い下がるマルセルに、ダニエルは冷笑の目を向ける。


  「あぁッ!聞きたくない!

   だからなんだというんだ!

   たかが、私用で着るドレスだろう」


  「彼女の才能に気付けないなんて……」


ダニエルは沸騰しそうな怒りが沸いた。

イネスのことを、さもわかっているように話すマルセルの口振りがどうにも堪えられそうになかった。


 「才能だと……?

  彼女は屋敷の隅で、黙って

  薬草を摘んでいただけだ」 

 「……俺の知らない彼女を、君が語る

  資格はない」


ダニエルはこの時、まわりがまったく見えていなかった。

イネスを貶すつもりも、傷つける意図も、本人にはなかった。

ただ――許せなかったのだ。

 

  「……なんにせよ、伯爵様は、

   彼女の選択を尊重してください」

 

突き放すような言葉だけが残された。

マルセルは振り返らずに去り、ダニエルもまた、その背を見送ることなく歩き出した。

 

しかし、彼らは知らない。

二人の会話を、イネスはすべて聞いていた。

 

外から覗くダニエルの姿に気づき、思わず足を止めた、その先で――

耳に届いたのは、聞き覚えのある声だった。


"彼女は屋敷の隅で、黙って

薬草を摘んでいただけだ"


その言葉が、ひどく静かに胸へ落ちた。


息を吸ったはずなのに、肺に空気が入らなかった。 

怒りよりも悲しみ。 

でも、涙は出なかった。

ただ、胸の奥で何かが、音もなく崩れた。

 

――ああ。

この人は、ずっとこうだった。

 

屋敷の隅で、黙々と手を動かしていた時間。

頼ることも、甘えることも許されなかった日々。

 

それらすべてが、彼の中では「その程度」だったのだ。

最近になって、ほんの一瞬だけ浮かんだ考えが脳裏をよぎる。

 

――もしかしたら。

――この人と、やり直せるのかもしれない、と。

 

その考えは、今、綺麗に消えた。


 「……やっぱり許せそうにない……

  彼は、わたしを裏切って

  屋敷の隅に追いやった人……」

 

根深く、辛い過去――それは、些細な彼の言動によって再び鮮明となった。

足元の感覚が薄れる。

イネスは、静かに踵を返した。


胸に残ったのは、怒りでも悲しみでもなく、ただ――冷え切った納得だけだった。



 

 ――次話予告

これは、愛ではない?

なら――これを愛と呼ばずに、

何と呼ぶのだろう。

早速、独り言です。

娘の大好きなトマトを買いました。値段は奮発して400円。

思ったより高くて少し迷いながらも、結局カゴへ。

あとはソーセージ、きゅうり、鮭。

とにかく三日分、カゴに放り込みレジを済ませました。

ところが帰り際、二つに分けたはずの袋が、ひとつ見当たらない。

え?カートに乗ってるのは一つだけ。

トマトもキュウリもない…


「……」


あの買い物袋、まじでどこへ行ったの?

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