35話 ーーレッド・ニヴァレス
「マ、マルセル様……っ!?」
上着も羽織らぬまま、青白い顔で工房へ戻ってきたマルセルを見て、ジャネットは息を呑んだ。
反射的に駆け寄り、膝に掛けていた掛布を差し出す。
「大丈夫だ……」
「ですが、お体が冷えております」
マルセルは短く首を振り、掛布を押し返した。
「それより、例の件は
どうなっている?」
「……ベルローズ家の件で
ございますね」
ジャネットは引き出しから資料を取り出す。
マルセルは歩みを止めることなく、視線だけを紙面へ落とした。
説明を続けながら、彼女は早足でその隣を進む。
「先方も前向きなご様子です。
ただ、本当によろしいので
しょうか……」
「問題ない」
「あ、あの……
マルセル様、何かござ――」
「ここから先は立ち入り禁止だ。
そろそろ工房へ戻れ」
淡々と告げられたその言葉が、胸の奥に突き刺さる。
気づけば、目の前は彼の私室の扉だった。
「あ……失礼いたしました」
一礼して下がりながら、ジャネットは唇を噛む。
仕える者として、越えてはならない境界を越えようとしたあの日から、マルセルは明らかな一線を引いていた。
それでも彼女は、傍にいる時間だけは許されていると、どこかで信じていた。
扉が閉まりかけた、その瞬間。
視界の奥に、壁に掛けられた一枚の大きな布が映り込む。
百合の花をあしらった、柔らかな色合い。
「……黄色の百合」
喉の奥で、言葉が震えた。
――夫人への贈り物を選ばれていた時も……確か、これに似た柄を……
胸の奥が、ひりつくように痛む。
マルセルがその布を大切にしていた理由を、ジャネットはようやく理解した。
――自分は、最初から比べられる場所にすら立っていなかったのだ。
仕える相手として。
想われる相手として。
その差は、あまりにも残酷だった。
俯いた視界の奥で、名を呼ばぬまま、ひとつの感情が静かに輪郭を持つ。
“伯爵夫人”……
彼女さえ、いなければ――。
――彼の心が、最初から夫人のものであったと知り、
ジャネットの胸に芽生えた嫉妬は、もはや抑えきれないほどに膨らんでいった。
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その日の夕食後。
三階――子供部屋。
「ほら、母さん。
あのアゲハの蛹だよ!
蛹が赤いなんて、
変わってるだろ?」
「寒木に、よくこれが付いていて
不思議に思っていたのだけど
アゲハの蛹だったのね!」
箱の中には、無数の赤い蛹が並んでいた。
ブラットはイネスを招き、自慢げに箱を差し出す。
「寒木?」
「あなたの傷を治す、あの薬。
あれにも寒木の樹液が
使われているのよ」
この木は粘度のある樹液を滲ませる。
イネスはそれを原料に、傷薬を作っていた。
「レッド・ニヴァレスだな」
箱を覗き込みながら、ダニエルが言う。
「うぁっ……!びっくりした!」
「はは、でもノックはしたぞ」
「……レッド・ニヴァレス?」
イネスは、その言葉が妙に引っかかり、思考が曇る。
「この蝶の通称だ。
雪の中で、赤い蛹を木に
残すだろ?
メッカでは、そう呼ばれている」
「ニヴァレス……
聞いたこと、ある気がするわ」
「それより、君の薬は寒木が
原料なのか?」
「あら、バレちゃった?
秘密だったのに。
でもね、調合は教えないわよ。
母方に伝わる、とっておきの
レシピなんだから」
「君のレシピを奪おうなんて
思ってないさ
騎士達が君に感謝していたから」
「そうだよ!
母さんの薬は良く効くんだ!」
三人の和やかな空気に、とうとうキリアンは限界をむかえた。
――バンッ!!
分厚い本が机に叩きつけられ、それまで満ちていた和やかな気配が、音を立てて砕け散った。
「騒ぐなら、他へ行って
くれませんか?」
「おい、キリア――」
イネスはダニエルの腕を掴み、制止した。
キリアンは勉強中だったのだ。
「ごめんなさい、キリアン……」
「でも、少し休んで。
一緒に楽しみましょ――」
キリアンはペンを乱暴に机へ置き、振り返って三人を睨みつけた。
「こんな狭くて汚い場所に、
突然連れてこられて……
楽しめるわけがないでしょう。
いい迷惑です!」
キリアンの頭は、ノアのことでいっぱいだった。 なぜ彼女を置いてここへ来たのか。
なぜ皆が、こんなふうに笑っていられるのか。
募る不信と苛立ちは、やがて言葉の刃となって、父と母へ向けられる。
「 ノアのお腹には赤ちゃんが……」
「ノアをのけ者にして……
可哀想でたまらないです……」
涙を堪える。
泣きたい気持ちはきっとノアの方が強い。
キリアンは無力な自分が憎かった。
「ノアのお腹に赤ちゃん!?」
ブラットの声が弾む。
「勘違いするな!
はっきり言う。
彼女の腹には子などいない」
まだ二人とも子供だ……
理解などできないだろう……
「なーんだ……いないんだ」
「いや、ノアはいるっていってた」
言い合いがしばらく続き、黙っていたイネスがゆっくりと口を開いた。
「赤ちゃんがいるのかいないのか、
まだ、それはわからない。
でも、もしお腹に赤ちゃんが
いるなら、それはちゃんとお祝い
してあげなくちゃね」
イネスはキリアンの手を握り、震える小さな肩が落ち着くようにと、静かに声を落とす。
「春になる頃、会いに
行きましょう。
赤ちゃんの用品をたくさん
お土産にーー
ねぇ、キリアン?」
「……うん……うん……
ありがとう……っ……」
不安で押し潰されそうだった心は、イネスの言葉に救われた。
キリアンは涙を拭うと本を開き、再び勉強を始めた。
――が、やはり輪には加わらない。
これはきっとキリアンなりのノアへの献身。
もどかしい気もするけれど、イネスは同時に心優しいキリアンが誇らしくも思えた。
「旦那様、片付けも終わりました
ので、わたしはそろそろ
失礼させていただきます。」
「ご苦労だった。明日もたのむ」
「明日から、子供達のことも
お願いしますね。」
明日からは、イネスも朝から仕事でカイロへ出向く。
イネスが頭を下げると、ヘレンは慌てた。
「お、奥様……
頭などお下げにならないで
ください」
もうなん十年も、貴族の暮らしなどしてこなかった。
誰にたいしても丁寧に接するのは、イネスにとっては当たり前のことだった。
「あっ……それと、奥様の部屋に
ありました旦那様の上着……
濡れていましたので、あちらに
掛けておきました。」
ダニエルが頼んだ手伝いは、三階部分と子どもたちの世話だけだった。
だがヘレンは気を利かせ、二階にあるイネスの部屋まで掃除を済ませてしまった。
その際、イネスがしまっていたはずのマルセルの上着が、ヘレンの勘違いによってここへ運ばれてきてしまったのだ。
気まずそうに、イネスはそっと視線を伏せた。
「濡れた上着……?」
目を移すとそこには、自分の趣味ではない、男物の上着が掛けられていた。
頭をよぎるのは、"あの男"。
ダニエルの眉間にシワがよる。
イネスの様子から、ただ事ではない気配を感じとる。
「………」
この日、子供達が寝静まると、ダニエルはイネスの部屋の鍵を開けた。
仕事を控えていたイネスは、既にこの時夢の中。
「……無邪気な寝顔だな…」
ダニエルはイネスの頬を指の先で小さく撫でた。
憎らしいのに愛らしい。
彼女の寝姿は、まだあどけなさの残る可憐な少女。
心配でため息が漏れる。
今日、ここへあの男が
やって来たのか……?
二人で、何を話していた……?
いつもとは違うイネスの表情。
何かあったのは間違いない。
彼女は明らかに気まずそうにしていた。
「……こんなにも、耐え難いもの
なのか……。
愛する人が、他を見ているという
現実は……」
イネスにとって自分は、離婚を切り出され、縋りつくように妻を追い掛け、住む場所まで変えた情けない男に違いない。
ダニエルは、イネスの額に優しくキスをした。
「たとえ情けなくてもいい
格好つける必要なんてない
俺は俺のやり方で……」
「とりあえず明日、君の"雇い主"に
きちんと挨拶へいかないとな。」
――彼女が、いったい誰の妻なのか、
あいつに思い知らせてやる。
ダニエルは、捲れた布団を整え、静かにイネスの部屋を後にした。
――次話予告
ダニエル、マルセルの工房へ。
百合の布が、すべてを物語る――。
長くなります。
苦手な方は、どうかスルーしてください。
ここまで作品を読んでいただき、本当にありがとうございます。
更新を続けながら、誰かがこの物語を読んでくれていると思うだけで、日々の励みになっています。
ここまで読んでくださる方がいることが、書き続ける大きな力になっています。
もともと人と話すことやSNSがあまり得意ではなく、それでも誰かと気持ちを共有できたらいいなと思って、小説を書くようになりました。
書いているうちに、「商業的に」「もっと広く」
そんな考えが頭をよぎったこともあります。
でも今は、それは違うと思っています。
この作品に付き合ってくださっている方に向けて、
誠実でありたい。
それが、今のいちばんの気持ちです。
実は、書き始めた頃、句読点の付け方さえよくわからない状態でした。
それでも、幼い頃から好きだった空想を、少しずつ言葉にしてきました。
これからこの後書きでは、物語の外側で、日々の小さな独り言を書いていこうと思います。
合わないと感じた方は、どうか気にせず読み飛ばしてください。
ここまで読んでくださって、本当にありがとうございました。




