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34話 父にむけられた切っ先



白い毛糸のリボンで、髪をひとつに結んだ少女――

歩くたびに揺れる金の束に、あの時の俺はすぐに心を奪われた。

 

これは再会に舞い上がり、彼女の心を置き去りにした罰だろうか。

 

冷たい風がマルセルの頬を掠め、ふと我に返る。

 

先程まで胸を満たしていた独占欲が、風に冷まされるように静まっていった。


視線は、ほんの一瞬触れた唇から、赤く潤んだ瞳へと移った。

その瞳の悲しみの深さを作り出したのは、他でもない自分自身だ。

思わず視線を逸らしたマルセルの瞳には、悲しみと悔しさが滲んでいた。

    

尋ねなくてもわかる。

彼女は、俺のことなど……


うつむき、必死に耐えている彼女を前に、言葉はあったはずなのに、最初の一声がどうしても出てこなかった。

彼女を苦しめたいわけじゃない。

むしろ守りたいのに、うまくできない――。

   

  「……イニー」


彼女は小さく首を振った。

その細い顎の動きが、胸を刺すほど残酷だった。

それが意味するのは――“拒絶”。

  

こんなにも愛しているのに……


 「行こう。ここは冷える」


マルセルはイネスを抱き上げた。


 「……っ、じ、自分で……」


 「靴が濡れてる。

  部屋に行って着替えた方がいい」

 

考えるな……今は……

とにかく、彼女の体を

温めるのが先だ……


必死に気持ちを押し留め、無言で階段を駆け上がる。


イネスをそっと下ろすと、マルセルはすぐに背を向けた。

 

 「火をおこす。

  早く着替えておいで」


優しい声色はいつものマルセル。

イネスは寝室へ逃げ込むように向かった。

扉を閉めた瞬間、全身から力が抜け、その場に崩れ落ちる。


 ――マルセル兄さん、

 ごめんなさい……

 

 これからダニエルと

 どうなるのかは、まだわからない

 けれど答えは――

 もうとっくに心の中にあった。


 好きなのは、ダニエル。

 それだけは、ごまかせない。


 一体、わたしは……

 なんてことをしてしまった

 んだろう。

 

 マルセル兄さんの想いを、軽く

 扱ってはいけなかったのに……


 百合のドレスをあの日着たのも、

 ダニエルへの当てつけ。

 

 自立するためだと言いながら、

 打算で動いて、

 兄さんを巻き込んで……

 

 これは自立とは言わない……

 こんな卑怯なやり方、するべき

 じゃなかった……

 

  「……ちゃんと、謝らないと」

  

イネスが着替えを終え、気まずそうに扉を開けると、すでに彼の姿はなかった。

 

暖炉の傍には、一通の手紙。


 『――君を困らせたくないから、

  今日は行くよ。

  明日、工房で待つ。

   ……イニー、俺はあきらめない。

  ずっと、君を愛している。』


薪の前に手をかざすと、赤く悴んだ指先にじんわりと熱が戻っていく。

この熱が、彼の暖かさを思い起こす。


マルセルから贈られた品々。

彼の気配に囲まれながらも、イネスは晴れない罪悪感に押し潰され、ただ火の揺らめきに目を落とした。

 

――

  

イネスの胸に渦巻く後悔とは裏腹に――

メッカでは、別の混乱が動き出していた。


 「なんだって!?

  キリアンの部屋に彼女が――?」


キリアンを連れ帰るため、屋敷へ戻ったダニエル。

 

そこにまた新たな問題が浮上していた。

ノアは窓から侵入し、現在、キリアンの部屋へ立てこもっているそうだ。


 「動向を泳がせていましたが……

  申し訳ございません」


ロイの報告に、ダニエルは奥歯を噛みしめる。


 「……あれほど彼女を近づけるなと

  指示してあっただろう!」


駆けつけた部屋には、セオドリックと騎士たちが待ち構えていた。


 「助かりました。

  頑丈に施錠されていて……」


 「キリアン、開けなさい」


 「……いやです!」


説得を諦め、ダニエルは扉を壊すよう命じた。

扉が何度も揺れ、部屋全体に重い衝撃が響いた。

斧が木を砕く音。

ノアの悲鳴に反応し、キリアンが覆い被さる。


  「父さんやめて!!」

  「お願いですから…っ…

   ノアが怖がってます!!」


家具が積み上げられたバリケード。

その隙間から覗いたノアの顔。

ダニエルに込み上げる殺意が沸いた。


 「キリアン、離れろ!

  彼女は危険だ!」


 「ノ、ノアのお腹には、赤ちゃんが

  いるんですよね……」


キリアンの湿った声には、確かな正義感。

ダニエルの怒りは更に増す。


 「ノア、君はなんてことを……

  ありもしない妊娠をでっちあげ

  利用して……

  子供を巻き込むな!」


 「……キリアンなら信じてくれる

  わよね……?」


ノアの縋るような声に、キリアンは必死に頷く。


 「ノアの赤ちゃんなら……

  僕の弟か妹です……」


その声には、守ろうとする決意が満ちていた。


 「父さんは、ノアのことが好き

  でしたよね?」

 「どうしてこんなことができる

  んです……?」


ダニエルは作業を急がせるように顎をしゃくった。


 「………」

 「キリアン、よく聞け!

  彼女の腹に子などいない!」


扉が破壊され、家具が退けられると、ノアを拘束しようと騎士たちが一斉に囲んだ。

 

――その瞬間、キリアンは覚悟を決め、剣を抜く。

 

 「ノアを……

  追い出すつもりですか?」


彼らは剣を抜かずに、ダニエルの指示を待つ。

 

  「模造でもない剣を、お前は

   騎士達へ向けた。

   覚悟はできているのか?」

 

父の鋭い気迫に押され、キリアンの汗が顎の先まで伝わる。


――そこにノアが、追い討ちをかけるように演技じみた涙をこぼす。


 「キリアン……あなたを巻き込んで

  ごめんなさい……」


縋るようで、どこか欲を帯びた甘い目。

息子に向けられたその目つきが、ダニエルの幼い日の忌まわしい記憶を掘り起こした。

 

 「大人になったら、結婚しましょうね」


それは、ノアの口癖だった。

恋を知らぬ少年だったダニエルにとって、その言葉はただの冗談にも思えた。

けれど、無邪気を装ったあの眼差し――

粘つくようにまとわりつき、子供らしからぬ執着を滲ませた視線だけは、どうしても苦手だった。


好意を一方的に押しつけ、学術院にまで押しかけてきては、勝手に「婚約者」だと言いふらす。

その行為のひとつひとつが、幼い彼には耐えがたい重荷だった。

 

 「時間がたつほど、君への

  気味の悪い記憶がよみがえる……」


その言葉に、ノアの瞳が震えた。


 「――俺の息子から離れろ」


ダニエルは頭を振って記憶を振り払い、近くの騎士から剣を奪い取ると、その切っ先をノアへ向けた。

 

  「父さん……ノアを連れていくなら

   一生許しません……」


カタカタと手を震わすキリアン。


これまで父には、一度も勝てたことはない。

内心怖くてたまらなかった。

 

 「と、父さん……僕は、よく言うことを

  聞くいいこだったでしょ……?

  でも、もしノアをここから追い出す

  なら、これからは勉強も稽古も

  一切しませんから……」


これが少年の彼にできる精一杯の抵抗。

長い沈黙ののち、ダニエルは低く言った。


 「……いいだろう。

  彼女をここに置いてやる」


ダニエルには、別の思惑があった。

彼は構えていた剣を、わざとすんなりと下ろす。


 「……ありがとうございます」


額に汗――キリアンの口から安堵の息が漏れた。


 「すぐにその女から離れろ」


キリアンが剣を下ろすと、二人はすぐに引き離された。


 「キリアン、ありがとう……

  これで赤ちゃんを守れるわ」


 「金は渡した。

  君はこれ以上、何を望むんだ」


ダニエルは鼻で笑い、これでもかと言う程、ノアへ軽蔑の目をやった。

  

 「愛しているから……

  あの時のあなたに戻ってほしいの」


血が逆流するような嫌悪が走り、ダニエルは吐き捨てる。


 「"愛"……?

  そんなもの、はじめから存在

  していなかった。

  君なら、この意味がわかるん

  じゃないか……」


 「……流石に傷つくわ……

  だって、あの頃の私たちは

  “完全に愛し合っていた”

  じゃない……?」


ダニエルは深く息を吐き、怒りの熱を胸に押し込めた。

無言のまま、剣を騎士に返す。

 

 「お前達、屋敷中を調べろ。

  この女について、怪しいものが

  ないか洗いざらい調べあげるんだ!」


目を見開くノア。

「怪しいもの」

きっと灰街へ行ったことがバレている。


  警備が薄かったのは、わたしを

  見張るため……

  ――いや、落ち着くのよ……

  決定的な証拠はない……

  あそこは、顧客の情報を絶対に

  漏らさない……

 

ヴォアから高い金で買った情報。

“媒体となるもの”を壊せば力は断てるという。

彼女から渡された赤い宝石の指輪――それが反応するらしい。

ノアは、守りのようなその指輪をそっとなぞった。

 

 「キリアンを馬車へ乗せろ」


 「……ノアに乱暴はやめてください」


キリアンは憎しみのこもった目でダニエルを睨んだ。


 「……全部、父さんと、イネスさん

  のせいです……」



ダニエルは言葉をのみ込み、遠のくキリアンの背中を見送った。


 「……キリアンはわたしが育てたのよ

  わたし達を、無理に引き離して

  あの子が言うことを聞くと思う?」


 「家族の問題だ。

  君には関係ない!」

 

ダニエルの容赦ない態度に、ノアは、扉が閉まったのを確かめてから静かに泣いた。

演技ではない。

本気の涙。

だがそれは反省ではなく、思いどおりにならない苛立ちの涙だった。

  

  「家族の問題……っ…?」


 ――少し前までは、わたし達は

 “完璧な家族”だったじゃない……


 "媒体となるもの"。

 

 それさえ壊せば……戻ってくる

 ダニエルの心が……



――


ダニエルは、金目の物を地下金庫へ移すよう命じた。

そして――。

 

 「本日より、この"屋敷は空"にする。

  俸給は従来どおり支給する。

  各自、寮で待機するか、この冬は

  好きに過ごせ。」

 

彼女がここに居続ける限り、虚偽の妊娠を盾に、好き勝手に振る舞うことは目に見えていた。


  「そんなにここに居たいなら……

   好きにすればいいさ」


使用人もいない屋敷に、たった一人。

この凍える冬をどうやって越えるつもりなのか――じつに見物だ。


ダニエルの口元に、嘲るような薄笑いが浮かんだ。


剣を下ろしたのは、屈辱を与えるにはその方が効果的だと判断したからだ。

家族をめちゃくちゃにした彼女への、ささやかな報復にすぎない。


 「証拠を掴んだ時こそが本番だ……

  地獄へ突き落としてやる」

 

その無表情に近い笑みを崩さぬまま、ダニエルは黙々と荷を積み込んでいった。

   

混乱と迷いがうごめく中で、一人、セオドリックは鼻歌を口ずさみ上機嫌だった。


本来なら、冬の間は屋敷に残り、当主不在の業務を任されるはずだった。

 

――だが、屋敷を無人にするという突然の決定により、その役目も消えた。


 「この寒い高地で冬を過ごさなくて

  もいいだなんて……

  なんてツイてるんだ。

  彼女と過ごせるぞ……」


冬の間、恋する女性に会えなくなるはずだったが、過ごす場所の自由が与えられた。

それだけで、セオドリックの胸は弾んだ。



 

 ――次話予告

仕舞われた上着とマフラー。

生まれる疑念に夫は――

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