27話 思惑の孕んだ鍵。
ほっそりとしたうなじを隠す絹のスカーフ。
思わずそれをほどき、線に沿って――
キ、キスを……
「はぁ……ダメだ……
俺は、なんて破廉恥なんだ」
大きな溜め息をつくセオドリック。
その息は白い。
山頂はまばらに白く、眺める遠くの景色は、冬の訪れを告げていた。
「はれんち?
さっきから変だよ……
どうしたの?」
ブラットをふとみると、セオドリックは空を眺めた。
「………坊ちゃんには
わかりませんよ。
この恋心が……」
朝、彼女と二人で朝食をとったセオドリック。
甘くほろ苦い紅茶の味が、まだ胸に残っている。
「こいごころ……?」
「ついさっきまで一緒にいたのに、
放れたとたん、またすぐに会い
たくなる……
そんな想いのことです……」
ブラットは足元の落ち葉を拾うと、枝に刺して肉のように見立て、にこにこと差し出した。
「それなら僕にもわかるよ!
ママと離れると、いつもそんな
気持ちになるんだ!」
「……それは、恋心とは呼びません」
もぐもぐと口を動かし、食べたフリをする。
子供好きで面倒見の良いセオドリック。
今年で四十歳――彼は未婚。
「……こいごころって難しいね……」
「ええ……そうなんです」
「あっ……ママ!」
ブラットは手招きするイネスを見つけると、セオドリックには目もくれず行ってしまった。
「…………」
「そろそろ家庭を、あの御方と……
いや、彼女は夫を亡くした
ばかり…」
働くことしか知らなかった男に、人生で初めての恋が訪れた。
流れる雲も、かすかな花の香りも、すべてが切ない恋心と結びついてしまう。
彼の夢は、愛する女性と家庭を築くこと。
やっと訪れたその機会。しかし、甘美な香りは、後に大きな波紋を立てることになる。
---
ダニエルから聞かされたあり得ない報告から一夜明けた。
睨み会う二人をなだめ、屋敷に帰宅すると、イネスはダニエルに強く抗議した。
しかし、まったく聞く耳をもたないダニエル。
イネスは呆れて物も言えなくなってしまった。
「……エンリケ様の力は健在ね……」
「えんりけさま?」
「なんでもないわ!」
ブラットの鼻を、優しく摘まむとイネスは笑った。
いよいよ新居に頼んでいた家具が一斉に揃う日。
父ダニエルの話を聞き、力仕事を手伝う気で、ブラットは朝早くからイネスを待っていた。
「ブラット、今日は遊んで
あげられないわよ?」
「遊ぶ?平気さ!
今日は僕の男らしさをママに
見てもらう日なんだ!」
「重たいものは僕が運ぶから、
任せてよ!」
ブラットは自慢げに、手のひらにできたたこを見せつける。
「まぁ、頼もしい」
新居は狭く古い。
イネスの笑顔の中に、ブラットがどう思うのか……
その不安はあった。
――しかし、ありのままをみてもらうつもりだ。
「兄さんもくればよかったのに……」
キリアン――あの日以来、イネスを避け続けている。
何度も会話を試みたが、その度にノアが張り付き、理由をつけて機会を奪われた。
「じゃあ次は、キリアンを引っ張って
でも連れてこようかしら?」
「うん、それいい!
絶対来てもらおうよ!」
――
書庫
キリアンはブラットの誘いを断り、朝から書庫にこもっていた。
古びた歴史書の頁に指を添え、ゆっくりと声に出して読み上げる。
「帝国の歴史において……
『マイリー家の功績』……
冬は領民に寄り添い、閉ざされた
雪深い大地で暮らす一族……」
文字をなぞる指先に思いを込め、つぶやくように続ける。
「皇族の流行を作ることを、
“唯一許された血脈”……
皇帝から授与された紋章……」
そこにはマイリー家の紋章と、皇族の象徴・国花ハクリが並び描かれていた。
「キリアン、どこなの?」
驚き、本を閉じるキリアン。
ノアの声だった。
「……ノア、どうしたの?」
「……またその本?」
帝国の成り立ちや皇族、貴族の歴史が詰まった本。
「イネスさんに言われたことが
気になって……」
はっと息を呑むキリアン。
うっかり母の話をしてしまった。
「あの……マ、マイリー家の後継者
としての話で……
あの……
父さんにも叱られたから……」
「…………へぇ……後継者……
御大層な説教ね……
他の男と朝帰りするような
女のくせに……」
ノアは平民の生まれ。
“血”だけが価値を決める世界に、長いあいだ恨みを抱えていた。
望んでも妻になることすら許されなかった現実が、心に深く爪痕を残している。
「貸しなさいっ…!!」
ノアの怒りは頂点に達する。
勢いよく本を取り上げると、キリアンの前に立ちはだかった――
ダンッ……!
本棚に投げつけられた重い本。
整然と並んでいた書物は散らばり、空気に鋭い緊張が走る。
「……よく覚えておきなさい」
ノアの声は怒り。
「皇帝の血も、平民の血も、
同じ赤色よ!
どこに上下なんてあるの……っ!!
貴族なんてね――
たかだか先祖の“金儲けが少しばかり
上手かっただけ”。
ただ、それだけの存在よ……!」
その言葉は一見正義のように響くが、キリアンに向けられたものは、"劣等感と嫉妬"。
キリアンはただ俯く。
「……ご、ごめんなさい……」
ノアの怒りは収まらない。
「こんなことなら、追い出して
おけばよかった……」
血筋を考えれば、ノアの立場はせいぜい愛人止まり。
どんな不満があろうと、ダニエルとイネスを離婚させなかったのは――
イネスがいなくなっても、どうせ新しい“血統の良い後妻”がやってくるからだ。
「追い出すって……?」
「…………」
「それより今後、奥様のいうことを
真に受けたらダメよ!」
「……だ、だけど、僕が服をダメに
しちゃったから……」
「服の一つや二つで怒るなんて……
有り余る財があるのに、なんだって
いうのよ!ケチくさい」
このときのキリアンには、ノアがなぜ本を投げてまで怒ったのか、その理由まではわからなかった。
――けれど、見開いた瞳は怖い。
「……うん。わかったよノア……」
ゴクリと生唾を飲み下し、言いたいことも飲み込む。
手のひらは汗でじっとりと濡れていた。
これまでの経験が教えている――ノアは絶対に曲げない。
反抗しても、怒られるだけ。
「いいこね……キリアン。」
ノアは息を整えると、キリアンを見下げ満足そうに去っていった。
キリアン肩を落とし、散らばった本を静かに戻し、先程の本を手にとった。
正しさと誤りの輪郭を探るように、幼い指先でそっと本を開きなぞる。
"あなたには、この紋章が目には入らないの"!?
母イネスの言葉。
頁に描かれた、"山羊"と、
それに寄り添う"白い花"。
皇帝がマイリー家に寄せた深い信頼の証。
「……やっぱり僕の、あの時の行動は
間違ってたと思う……」
小さな後継者としての芽は、彼の中で密やかに根を張り始めていた。
……
「ママ、ここなの……っ!?」
小さな古びたレンガ屋敷。
蔦の絡まる壁、劣化し欠けた石の階段。
天井にはうっすらとクモの巣まで張っていた。
「ええ……そうよ。」
イネスは少し気まずそうに答えた。
ブラットがどう思うか、その反応が怖かった。
しかし――
「すごいっ!秘密基地みたいだ!」
ブラットは目を輝かせた。
イネスはぽかんと目をくりっとさせる。
「ここ、絶対に誰にも
見つからないよ!
この梯子で上に上がるの?
かっこよすぎる……!」
ブラットは部屋中を駆け回り、古い戸棚を開けたり、窓辺に身を乗り出したりと大忙し。
「ママ見て!蛾の繭だよ!」
「ねぇ、ここ、僕の秘密基地って
ことにしていい?
ジェイコブ先生に自慢したい
んだ!」
窓枠のすみに張りつく小さな繭を、声を弾ませ指差す。
ホコリだらけの床すら、ブラットには“冒険の入口”に見えている。
「じ、自慢は難しいかもしれないわ」
イネスはふと笑う。
胸の不安は、いつの間にかふと溶けていた。
運び込まれる家具。
ブラットは宣言どおり、大人に混じってせっせと荷物を運んでいる。
「ママ見て!僕すごいでしょ?」
「ええ、本当に力持ちね!」
テーブルや椅子はもちろんのこと、食器類に鍋など、生活に必要なありとあらゆるものが、部屋に運び込まれていく。
「こんなにたくさん……
とりあえずの用品を頼んだだけ
だったのに……」
代金の心配……。
イネスは恐る恐る代金の支払いを催促した。
すると――
「もう既にいただいておりますよ。」
これはマルセルに違いない。
「……あの、いえ、それは困ります」
「……門出の祝いだと、マルセル様
から言付かっております。」
イネスは、マルセルに予算を伝え、とりあえず必要になりそうな家具類を頼んでいただけであった。
一つ一つが洗練された家具のようにみえる。
きっと値の張るものに違いない……。
イネスは大きくため息をつく。
「……こんな借り、返しきれない……」
すると、そこにダニエルがやってきた。
「扉を開けたままなんて、
不用心だぞ!」
「父さん!!」
父に駆け寄るブラット。
「楽しそうだな、ブラット」
「うん!」
イネスが口を開こうとすると、男達が部屋に入ってきた。
「ちょ、ちょっと……誰!?」
「扉を直してもらう。
窓には鉄柵をつける。」
防犯。
ダニエルが真っ先に気にしたのは、イネスの身の安全。
常に見張ることはできない。
「強盗やら物騒だろ?
これで、夜も安心して寝られるな」
――ダニエルの気遣い。
「……あ、ありがとう」
ここには、子供たちも来る…
正直、ありがたいわ…
治安については、彼女も不安を抱えていたからだ。
しかし、その喜びも束の間、彼はポケットから嬉しそうにあるものを取り出した。
「ここの鍵だ。」
鍵には青いリボン。
イネスを見つめるダニエルの瞳と同じ色。
「実はこの鍵、俺の部屋の扉も
開くんだ。」
「え…?それはつまり、同じ鍵と
いうことじゃない!」
「そうだ……うっかり俺が、
君の部屋の扉を開けてしまう…
なんてこともあるかも
しれないな……」
口の端をわずかに引き上げ笑うダニエル。
イネスは息を止め、心臓が跳ねるのを感じた。
危険なのは強盗ではない。
他でもない、彼のほうだ。
イネスは言葉を失う。
「俺は後がない……
君が嫌がろうと、これからは
捨て身でいかせてもらう。」
ダニエルはゆっくりと歩み、イネスとの距離を詰めていく。
「どうして近づいてくるの…?」
後ずさりしたイネスの背は、石の壁にぶつかった。
「夜、君は……
この部屋に、鍵をかけても
無駄になるということを
よく覚えておいて欲しい。」
色気を孕んだダニエルの声。
空色の瞳は、自分を真っ直ぐに見据えて離さない。
思わず息を呑み、イネスは身動きが取れなくなる。
キスしたい衝動をグッとこらえたダニエルは、そっとイネスの頭に手を添えた。
指先が髪に触れる。
イネスは目の端でその動きを追う。
その唇には、危うさと抗えない甘さが入り混じっていた。
ダニエルの様子がいつもと違う……
視線は、吸い込まれるように自然とダニエルの唇へ落ちる。
「イネス、愛してる」
封じたはずの気持ち。
それなのに――。
鼓動が耳を振るわせる――どうしようもなく彼の存在を意識してしまう。
………ああ……エンリケ様……
すがるようにネックレスを握った。
心臓の奥で、答えを待ってしまう。
あなた様は、一体わたしに
何を望んでいらっしゃるの
ですか……?
――次話予告
騎士達の涙の理由。
冷遇された妻であっても……。
――明かされたイネスの献身とは。




