24話 待ち続けた夜のーー答え。
胸騒ぎが走った。
ダニエルは、重さのこもった仕草で振り返る。
帰る方向は同じはずなのに――
イネスの姿がどこにも見当たらない。
朦朧とした視界の端で、ノアの顔が揺れる。
「……放れろ……っ
イネスに……誤解される……」
「だめよ。あなた一人じゃ歩けないわ」
「……騎士を……呼べ……」
突き放そうとする腕を、ノアは必死に押し戻した。
焦りを滲ませながら、それでも離れようとしない。
「……ママいたの……?
どこ……?無事なの?」
ブラットの震えた声が、空を探すように揺れる。
「……無事よ、ブラット」
「ほんとに……?どこなの、ママ…?
ママーー!」
「無事だって言ってるでしょ!!」
ノアの声が鋭く跳ね、ブラットの肩がびくりと震えた。
「……ブラットを……なぜ怒る……?」
荒い息の中で、ダニエルは絞り出すようにノアを咎めた。
「ご、ごめんなさい……
あなたがこんなだから……
取り乱しちゃって……」
ノアは慌てて表情を整え、ブラットへ微笑みを向ける。
「……お父様が具合が悪いの。
まずはお部屋にお連れしなくちゃ
いけないわ」
「……うん」
「キリアン、ブラットを連れていって」
キリアンはうなずき、ブラットの手を引いた。
――鍛練場へ行けばいい。
そこなら、母の無事を確かめられる。
そう思ったのも束の間。ノアの声が、落ちるように続く。
「……昨日の嵐で、中庭が荒れているわ。
危ないから近寄らないで」
“中庭”――イネスがいる場所。
つまり、近づくなという牽制だ。
ノアは、すべてを見透かしたように、あくまで“さりげなく”釘を刺した。
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書庫
高い天井に、ブラットの模造剣が風を切る音。
キリアンが捲るページの音だけが、落ち着きのない空気を誤魔化すように響く。
「兄さん……なんでノアは、
ママを嫌うのかな?」
「……俺たちのためだろう」
「どうして……? ママと仲良く
しないことが僕らのために
なるの……?」
「そんなの……わからないけど……
なんとなく、わかるだろ……?」
ブラットは眉を寄せ、手のひらを見つめる。
「……痛っ。マメ、やぶけた……」
掌には小さな努力の傷。
「大丈夫か?見せろよ」
「ママの薬なら、すぐ治るのに……
ねぇ、キリアン。
ママのところ行こうよ……!」
ガァンッ!!
キリアンは剣を奪い、壁に叩きつけた。
迷いを断ち切るように。
「……バカなこと言うな!!
あの人のことは……
信用しちゃいけないんだ!」
「……ママは優しいよ……?」
「違う!! 勘違いだ……!」
震える指で髪をかき上げた瞬間、額の大きな傷が露わになる。
「これを思い出せ、ブラット……
僕にこの傷をつけたのは、あの人だ!」
ブラットは息を呑む。
「ノアがいいって言う時しか、
会っちゃだめだ……
俺たちの安全のためにも……」
沈黙が書庫に落ちる。
「……わかったな……?ブラット……」
屋敷の者たちは皆知っている。
“母は父との喧嘩の腹いせに、幼いキリアンを階段から突き落とした”――と。
イネスが閉じ込められていた理由も、それだと。
キリアンはもう何も言わず、ブラットの視線を避けた。
棚の影で、ブラットは小さくうずくまる。
すすり泣きは、母を恋しがる声。
「……僕は、それでも……
ママのことが好きなんだ……」
その呟きが、キリアンの胸奥をざわつかせた。
そしてキリアンは、ブラットに聞こえないように呟く。
「そんなの、僕だって同じだ……」
でも僕だけは、ノアの味方で
いてあげないといけないんだ……。
閉じる本。
キリアンはそれを抱え、小さくうずくまった。
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工房
濡れたドレスを脱ぎ捨てるように着替えると、イネスは何かを振り払うようにカイロへ向かった。
キリアンとブラットの服を仕上げるために。
昨日の馬はそのまま。
イネスは胸を撫で下ろす。
“使い”は来ていなかった。
きっとダニエルは、それどころではないのだろう。
御者には帰りは馬で帰ると言い、迎えを断った。
イネスの姿を見た途端、マルセルは目を瞬かせた。
「……イニー?」
驚きのあと、彼の表情はすぐ曇る。
頬の強張り、ぎこちない笑み――
イネスの“何か”を、誰よりも敏感に察していた。
だが、問い詰めはしない。
代わりに作業台へ案内する。
「手を貸すよ。今日は人手もある。
遠慮するな」
癖のある縫製盤は扱いにくい。
職人たちは気を利かせて寄ってきてくれた。
マルセルは軽く指示をしながら、イネスのそばには“近すぎない距離”を保つ。
――必ず仕上げる。
イネスが針を走らせる音は、工房の雑多な音に紛れつつも、なぜかマルセルには一度聞けば分かった。
焦りも不安も決意も、あの針音に宿っていた。
彼は道具の位置を整え、糸を結び直し、照明をわずかにずらす。
“言葉にしない応援”だけを送って。
嵐の夜から一日。
イネスの変化に、胸騒ぎがした。
けれど、寄せ付けない気配が、事情を問うことさえ拒んでいた。
夕日が沈み、工房は静寂に包まれる。
「……イニー、もうこんな時間だ。
帰らないのか?」
ようやくマルセルが口を開く。
「……今日はここで、徹夜させて。
あの子達の服を、どうしても
仕上げたいの……。
今は、この集中を途切れさせたくない」
「心配して、伯爵が怒鳴り込んでくるぞ」
軽く言うが、目の奥は笑っていない。
イネスが追い詰められていることを感じていた。
マルセルは糸を差し出す。
「……手伝うよ。
糸くらい運べる」
「いいえ。これ以上は……
縫製盤を貸してもらえるだけで
十分だもの」
制止の手。
「いや、手伝う」
「いいのっ!
……ひとりで仕上げたいの。
お願い……」
必死な眼差しに、マルセルは理解した。
今のイネスは“女”ではなく、完全に“母”だった。
彼は飲み物と夜食をそっと置き、扉の外へ出る。
「……マルセル兄さん……
ごめんなさい……」
かすれた声が、背中を震わせた。
徹夜の作業は続く。
目は霞み、視界はぼやけた。
指が擦り切れ、皮膚が糸で切れても止まらない。
――子供たちのために。
針音は、祈りそのものだった。
通わせたかったのに通わせられなかった愛情。
母として何もしてやれなかった無念。
胸に積もっていた想いも、すべて糸へ流し込む。
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夜明け
縫製盤が止まり、イネスは完成品を見つめた。
「……できた……できたわ……」
涙が落ちた瞬間、扉が静かに開く。
「頑張ったな……イニー」
振り向けばマルセル。
扉にもたれ、夜通し見守っていた。
「マルセル兄さん……
寝てなかったの……?」
「君がこんなに頑張ってるのに、
寝られるわけないだろ」
優しさが今は痛かった。
心に踏み込ませたくない。
イネスは視線をそらす。
「帰らなくちゃ……」
「少し休んでいけ……」
「……ごめんなさい。
すぐに帰りたいの」
マルセルはそれ以上言わない。
「……そうか。わかった。
なら見送らせてくれ。心配だから」
馬で並走する帰り道。
イネスがふらつけば、彼は言葉をかけ励ました。
「この国のどこを探しても、
そんな完璧な服はない……
君の子供達は、幸せ者だ」
その言葉が胸に刺さる。
イネスは返事をできず、涙をこらえた。
屋敷に着くと、短く礼を告げる。
手には重い子供服。
「……俺はいつでもあそこにいる。
何かあったら頼れ。
独りで抱え込むな」
イネスは小さく頷き、振り返らずに歩き去った。
マルセルは、その背中が見えなくなるまで立ち尽くした。
ーー
納品
熱した鉄で布のシワをのばし、仕上がった服に最後の息を吹き込む。
イネスは二人の姿を思い浮かべながら顔をほころばせた。
――しかし、これは本当に現実なのか。
昼前、そっと兄弟のもとへ届けに行った瞬間だった。
キリアンはそれを見るなり表情をこわばらせ、
イネスの手から乱暴に奪い取った。
次の瞬間――
バサッ。
床に叩きつけられ、かかとで踏みしだかれる。
普段は物静かで、我慢強いキリアンが。
イネスは息を呑んだ。
「兄さん、ダメだよ……やめて!」
ブラットが叫ぶが、キリアンは止まらない。
追い詰められた獣のように、瞳が揺れる。
ブラットの手を振り払い、服まで乱暴に床へ叩きつけた。
布が落ちる乾いた音が、子どもたちの心の荒れを代弁する。
キリアンの頭の中。
使用人たちの声がこだましていた。
「今朝、見たのよ。
奥さまが男と一緒だったの」
「旦那様が寝込んでるのに、
一晩そっちの男と……ねぇ」
「奥さまは、坊ちゃま達だって
どうでもいいのよ」
意味は全て理解できなくても、裏切りの種には十分だった。
昼下がりの子供部屋。
母に対して、一線を引きつつも抱いていた小さな期待。
そして夜も帰ってこなかった母への心配。
そのせいで夜も寝られなかった。
窓へ目をやり、無事を祈った。
そのすべてが、小さな心臓を張り裂けさせ、無惨に散ったのだった。
足元で散らばる布は、昨夜――ずっと待ち続けた“答え”のようだった。
――次話予告
君を離さない――愛してる。
ダニエルの策略。




