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21話 心に体温ーーそれはきっと錯覚。


イネスの胸の奥にくすぶる背徳心と不安――その感情に呼応するかのように、エンリケの石が微かに光を揺らした。

 

瞬間――荒れ狂っていた雨や風。

そして、空気が凍りついたように止まった。

 

まるで嘘のような奇跡。

その石は、静寂の中で愛を乞う男に微笑んだ。


驚くマルセルの前で、ダニエルはふと笑みを浮かべる。


 「ここに、とどまる理由は――

  なくなったな。」

 

イネスは一瞬ためらった。

しかし、差し伸べられた手にそっと歩み寄る。

その指先は、冷たく湿り、わずかに震えていた。

 

合わさる、ダニエルとイネスの指先。

マルセルの視線が重く光る。

雨の匂いに混じる嫉妬――理性を押し殺し、心の奥で叫ぶ。

 

  彼女に触れるな!

 

  奪ってやりたい……

  壊してでも、この手に……。

 

  けれど今、それを口にした瞬間、

  彼女はもう戻らない。

  

イネスの瞳の奥。

夫の登場で、それが揺らいでいることを、マルセルは感じていた。

 

 “天は彼を選んだ。”

そんな皮肉が脳裏をかすめ、喉の奥に苦味が滲む。


 「マルセル兄さん、せっかく食事を

  用意してくれたのに、

  ごめんなさい……」


イネスの黄色の瞳が、灯りに照らされ儚く揺れた。

マルセルはその光景に、怒りよりも、哀しみに似た痛みを覚える。


 「また今度、ご馳走を用意する。

  気をつけて行くように……」


 「伯爵様、よろしくお願いします。」


ダニエルは口を開かなかった。

開けば、感情の棘がこぼれてしまうのを知っていたから。


マルセルは、ほんの僅かな余裕を装い、鼻で嗤う。


  ――今は引くしかない。

  まだ、先がある。


扉に掛けていた小さな灯りを取り、マルセルは差し出した。

ダニエルは軽く頷き、その灯りをイネスの足元に向ける。


 「……馬も荷物も、明日うちの

  ものに取りに来させる。」

 

  「イネス、君は俺の馬に乗ってくれ」


 「……ええ。」


申し訳なさそうに、イネスはマルセルに視線をやる。

気まずさが、心に残る。

 

  「……マルセル兄さん、行くわね。」


 「……ああ、気をつけて。」


自分を見つめるマルセルの野心が孕んだ眼。

あれは、勘違いでないことは明らか。

イネスの胸に、かすかな安堵が広がる。


  ――ここへ泊まっていたら……


彼のベースに呑まれ、"ひょっとする"と……。

心も決まっていない。

そんな状況で、いい加減なことはしたくはなかった。

 

"堕ちなくてよかった"。

そんな思いを胸に、彼女は闇へと消えた。


 

――


 

細い道。

倒れた木々が散乱するぬかるみ。

風は冷たく、夏の終わりの匂いがした。


自分のために、危険を冒してまで来た――ダニエル。

彼に裏切られた事実は変わらない。

それでも、彼に同じ痛みを返そうとした自分に――イネスは罪悪感を覚えた。

これはダニエルへではなく、自分への"尊厳"。

 

乗馬に慣れたダニエルの馬に共に跨る。

濡れた衣服が触れ合い、背中越しに冷たさが伝わる。

その冷たさは、ダニエルの体からではなく――

自分の胸の奥にある罪の感触のようにも思えた。


ドレスが水を吸い、肌に張り付く。

それでもイネスは、文句ひとつ言わず、静かに揺れに身を委ねた。

冷たさに耐えることで、その罪の痛みが、少しは和らぐような気がした。


  

――



マルセルは、屋敷の前で立ち尽くしていた。

イネスの姿が消えた道の先を、じっと見つめる。

ランプの灯りが雨上がりの地面に滲み、彼の足元を照らす。

そう自分に言い聞かせても、胸の奥で何かが焼けついていた。

彼女の笑みだけを、記憶に映したい。

 

  焦るな、これは終わりじゃない。

  イニーは、あいつを愛して

  いるわけじゃない。

 

  妻としての義務を、重んじているだけ……

 

  ……もし本当にあいつを想っているなら、

  あの時、あのドレスを、着たりは

  しなかっただろう……


頭に言い聞かせる。

しかし、その隣に並ぶ男の姿が浮かぶ。

 

目の前の灯。

マルセルはそれに息を吹きかけ、忌まわしい男の姿を払拭した。


苦く、静かな笑み。

それは、敗北と欲望の境を曖昧にする。

彼の夜は長い。

 

マイリー伯爵――。

ダニエルを追い詰めるため。

そして、この帝国での自らの力をより確かなものにするために、静かに計画を練りはじめた。

 

――

 

貴族にとって、領地ごとに屋敷を構えることは珍しくない。

ダニエルもまた、その一人だった。

 

そこはカイロの古びた屋敷。

辿り着いてみると、そこに人影はない。

嵐のせいで、誰も夜の帰宅を予想していなかった。

 

鍵を持たないダニエルは、迷うことなく窓を割った。

硬い音が闇の中に響く。

イネスは思わず肩をすくめた。

しかし、その手際は驚くほど冷静で――

まるで昔からそうしてきたかのようだった。


 

ほどなくして、内側から扉の錠が外れる音。

ゆっくりと開いた扉の向こうで、ダニエルが息を整え、微笑んだ。


 「イネス、さあ中へ。」


一瞬、躊躇したイネスだったが、雨に濡れた髪を払いながら、足を踏み入れる。

その瞬間、胸の奥がかすかに脈打った。


初めての場所――

湿った空気、古い家具の影。

まるで見知らぬ世界に迷い込んだような、ほんのわずかな冒険の気配があった。


順に灯されていく火の明かりが、暗闇を少しずつ押しのけていく。

イネスは、炎に照らされるダニエルの横顔を見つめた。

そこには、彼の知らなかった一面――無骨で、どこか孤独な姿があった。

  

  「くそ…っ」


暖炉に火をつけたいのに、その薪がなかった。

部屋は寒いまま。

濡れた衣が、肌を一層冷やしていく。


 ――ダンッ!!…ガンッガンッ!


 「きゃっ…」

 

突然の大きな音。

イネスは小さな声をあげた。

ダニエルが、床に椅子を打ち付ける。

何度も何度も。

突然の奇行に、イネスは驚き身を縮めた。


 「ハハッ ごめん、イネス

  少しだけ我慢してくれ。

  これを燃やせば、少しは部屋も暖まる。」

 

 「古びたアンティークの椅子だ。

  どうせなら処分してしまおう」


ダニエルはふと笑う。

細かく細工の施された椅子はあっという間にへし折られ、不恰好な薪へと変わった。

ダニエルは、それに火をつけた。

 

 「着替えるものをもってくる……」

 

一瞬、暖炉の火がぱちりと鳴った。

その音が、彼の呼吸の乱れを際立たせそう言うと、ダニエルはフラッとその場に倒れた。

 

額を触ると、熱い――かなりの高熱だ。


 「あなた、酷い熱じゃないっ!」


 「……大丈夫、服を…」


それでも、立とうとするダニエルをイネスは静止した。


 「動かないで!」

 

 「もう……いつからこんなに

  無理をしていたの?」


イネスはそう言うと、ダニエルを暖炉の前へ寝かせた。

そして濡れた服を脱がしていく。

肌が炎に照らされて、ダニエルの筋肉に曲線を映し出す。

炎のせいなのか、熱を帯びているからなのかは曖昧。その肌は赤く、熱い。


 「……待て、自分でやる。」


少しの恥じらいと、イネスに弱いところはみせたくないという意地。


 「……待ってて。」


――

 

屋敷を駆け回り、イネスは、掛布や飲み物など手に持てるだけ持ち、ダニエルのもとへ戻る。

高熱で混沌としている彼は、先ほどまで椅子を割り暴れていた男とは思えないほど、弱々しく、静かだった。

 

心配と、少しの笑いがこみ上げながらも、イネスは彼の体を拭いて服を着せてやった。

全身を震わせるダニエル。

吐く息は荒い。


  「……」


自分を裏切った夫――ダニエル。

ノアのことを、彼は今でも愛している。

それでも、今日この嵐で、彼は来た。


 「……借りを返すだけよ。」


暖炉前の床。

暖炉の前の床。

ここはベッドでもなく、ただ絨毯が敷かれただけの固い場所。

――それでも、今はここが一番あたたかい。


イネスはそっと掛布をめくり、静かにドレスを脱いだ。

肌着一枚になると、ためらいを押し殺すようにダニエルの背に身を寄せる。


体調を崩した彼の身体を、少しでも温めたくて。

――そう自分に言い聞かせながら。

 

するとダニエル。

朦朧としながらも寝返りをうち、イネスを抱えるように抱き締めた。


 「ダ、ダニエル…?」


彼に意識はない。

イネスの胸の鼓動が暴れ出す。

静寂の部屋。

ダニエルの腕に触れた肌の感触が、冷たさと暖かさの両方を含んで、心を揺さぶる。

 

指先の感触、背中に伝わる熱、香り――すべてが意識を奪っていく。


  ――ダメっ……!

 

イネスは、ダニエルをはね除けようとした。

けれど、彼の体があまりにも震えていて、それは可哀想にも思える。

――いや違う……

懐かしいこの香りが、イネスにそれをさせなかった。


  本音で語るなら……

  今日は、来てくれたことが

  ――嬉しくもあった。


薄い衣が触れるたび、肌が触れ合うような錯覚に、胸が高鳴る。

だが同時に、心の奥で釘を刺す――これは、決して許されない瞬間だと。

 

――そして彼が今、熱に浮かされて抱き締めている相手は、彼の本当に愛している女ではない。


  これは、間違い。


これは、想いが通じ合っていた、あの日の記憶を"ここ"が思いだしているにすぎない――。

 

胸を押さえようとすると、ヒヤッとした金属に指輪が触れた。

 

 「……エンリケ…」


  惑わされてはいけない。

  彼も、ある意味被害者……。


この腕の中のときめきは、所詮、過去のもの。


短い文脈の手紙と、離縁状を置いて家を出たあの日。

荷物は最小限に届めた。

どうせ、もっていく物などなかったけど、布一つでも、マイリー家を感じる物を持っていきたくはなかった。

これは意地。

 

――けれど、指輪。


  困ったら売ればいい。

  体の言い"いいわけ"をならべたものね……

  本当は、そんな気はなかったくせに……。

 

  でも、そろそろおしまい。

  彼のことも、解放してあげよう。


イネスはネックレスを握りしめて瞳を閉じた。

嵐の去った闇夜。

それぞれの心を映すように、夜は更けていく。


熱に侵されたダニエル。

彼は、このとき知る由もなかった。


 

――その朝。

 

差し込む朝陽に照らされたイネスの肌が、どんな絶景よりも美しく、胸を焦がすほどに儚いということを。



 ――次話予告

白い肌。

脳裏に焼き付いて離れない。

君は気高く、そして――残酷。

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