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13話 嫉妬渦巻くーー監視と干渉。


彼の名はマルセル・モンテリオ。

幼い頃、父の工房を訪れるたび、面倒を見てくれた初恋の相手であり、イネスにとっては“兄”のような存在だった。


  「ああ……イニー!!」


マルセルの顔が一気にほころぶ。

ためらうことなくイネスを抱き上げ、一回転。

力強く抱きしめるその腕から、どれほど再会を待ち望んでいたかが伝わる。


  「久しぶりだな……

   元気だったか?」


その声には、抑えきれぬ震えと温もりが

混じっていた。

長い年月を越え、ようやく辿り着いた安堵。

再会できた喜びが、全身から溢れ出していた。


イネスは驚き、言葉を失う。

少女だった頃の記憶と、別れの日の寂しさ。

胸がぎゅっと締めつけられると同時に、懐かしい温かさがじんわりと広がった。


  「元気よ、マルセル兄さん……」


マルセルはにっこり笑い、目を細めた。

 

  「嬉しいよ、本当に。

   どれだけきみに

   会いたかったか……」


五歳年上のマルセル。

十年前に別れたあの日よりも、ずっと大人びていた。

低く甘い声が、イネスの心を静かに揺らす。


  「わたしも会えて嬉しい――」


その時、背後から従業員の声が響いた。


  「マルセル様!

   積み荷の受け取りに来た

   商人が到着しました!」


マルセルは懐から小さな紙片を取り出す。

 

  「必ず会いに来てくれ……

   絶対だ!」


去り際も、彼の瞳はイネスを追っていた。


名残を惜しむように振り返りながら――

その背は、ゆっくりと遠ざかっていく。


古びた羊皮紙には住所が記されていた。


彼が去った後も、イネスはその余韻に触れていた。

胸の奥で、喜びと切なさが静かに混ざり合う。


  ――過去、

  彼とは会えなかったのに……。


渡された、小さな架け橋――

イネスはそっと鼻先にあて、目を閉じた。

黒墨の香りが心を満たした。

 


――



 「他に報告はあるか?」


回帰後、ダニエルは、後回しにしていた仕事に一気に取り掛かっていた。

今日は早くから視察に出かけ、収穫状況を確認し、帳簿を整理し、領民の生活や秩序の管理に追われていた――膨大な量の業務。 

 

アリーナには、世話以外に、“イネスの一日の様子を報告する”という役目が与えられていた。


  「……そうですね、

   一つ気になることが。」


帰りの馬車での会話。

アリーナには、それが強く印象に残っていた。

どこか距離を置く、伯爵夫人であるイネス。

落ち着いた声色は、年齢にそぐわずいつも落ち着いていた。

それが珍しくも、はしゃぐように笑みをみせていた。


  「実はね、さっきネックレスを

   取りに衣装店へ戻ったとき、

   昔の知り合いに会ったの。」

  「昔の初恋の人よ。」


その言葉を、アリーナは任務としてダニエルに報告した。


  「初恋……?」


眉間に深い皺を寄せ、ダニエルはアリーナを睨みつける。

アリーナは思わず生唾を呑み込み、視線を落とした。


 「ほんの少し、会話をしただけ

  のようで、特に気にされること

  はないかと……」

 「あっ、いいえ――

  ひとつ気になることが……」


 「なんだ、言え!」


 「住所の書かれたメモ書きを、

  渡されておりました。」


 「住所だと?

  ……馬鹿らしいっ!」

 

ダニエルが手に持っていた書類を乱暴に放り出す。

紙が散らばる音が響き、アリーナとセオドリックは思わず息を呑んだ。


書斎を出ていく背中は、怒りに震えているようだった。

 

 「はははっ……

  やっと滞っていた業務を

  再開したと思ったんですがね」

 

書類を整えながら、セオドリックは苦笑し、アリーナに紅茶の用意を頼む。


「今夜は徹夜かな……」



――



夕食の席にも、キリアンやブラットの姿はなかった。

広いテーブルに並ぶのは、自分の分だけ。


  ――あの子たちのところに

  行ってみる……?

  いや、ダメよ……

  怖がるかもしれない。


「ーー僕たちを捨てた悪魔」

イネスの脳裏に浮かんだのは、あの石に刻まれていた文字。

砕け散ったガラスの破片が足もとで光り、割れた窓から吹き込む風は、あまりにも冷たかった。


無理に距離を詰めれば、怯えられる。

それでも離れれば、また嫌われてしまう――。


イネスには、母としての自信もなければ、共に過ごした時間もなかった。

手を伸ばすことさえ、どうしてこんなにも怖いのだろう。


一人で食事をするのは、場所が変わっただけで、過去と何も変わらない――。


そして、イネスが席を立ち去ろうとしたとき、苛立ちを隠せないダニエルが現れた。


  「……今日は一日、君は

   何をしていた?」

 

唐突なその言葉に、イネスの中でも苛立ちが募る。

 

子供たちから避けられ、夫からの説明もない――

心だけがぽつりと置き去りにされたままだ。

 

夕べ、確かにイネスはダニエルを拒んだ。

 

だが、それにしてもこの仕打ちは、あまりに身勝手。

イネスは怒りを抑えるのがやっとだった。


そしてふと、ずっしりと重い銀貨の小袋が頭を過る。


  落ち着こう……。

  お礼は言わないと。

  

 「たくさんの“手当て金”ありがとう。

  これまで買えなかったものを、

  たくさん買えたわ。」



 「ああ、そうか。

  それはもともと、君がもらうべき

  金じゃないか。

  そんなことはどうってことない。」


 「……そんなこと?

  どうってことない?」


過去、ダニエルに嫌われていたイネスは、わずかな生活費さえ小言を言われながら受け取っていた。

一言でいえば、“惨め”。


 「ならどうして?

  その“もらえて当然”のお金すら、

  わたしは貰えなかったのかしら?」


穴の空いたドレス。

伯爵夫人の面目を保てない装いーー。

恥ずかしくて、潜むように暮らしていた。


イネスの拳が震える。

怒りが滲んだ。

ダニエルは一瞬、目を見開く。


  ――そうだ……俺は、

  イネスに金を渡すことすら

  惜しいと思っていた……。


 「……それは何故なのか、

  よくわからない。

  自分が自分でないようだった……」


 「はっ……!

  それが、本来のあなたよ!」


  石の力がなかったら……

  過去と変わらず、わたしは今頃、

  罰部屋で寂しく過ごしてる。

 

 「わたしのことが

  憎くて憎くてたまらない――

  そう思っていたのが、

  あなたでしょう…?」



 「……たとえそうだったとしても

  ……今は違う!」



 「なら――

  子供たちとわたしの関係を、

  一緒に取り戻す方法を考えて!」

 「お願い!

  あなたには、“あの女”のために、

  わたしからすべてを奪った責任が

  あるわ!」


感情は、堰を切ったように溢れ出す。

イネスは憎らしげにダニエルを睨みつけた。


 「ああ、わかった。

  君の言う通りにしよう。

  子供たちには、

  また俺から話をする。」



 「昨日だって、

  あなたはそう言っていたわ!」


今日は、目まぐるしい一日を送っていた。

ダニエルは少し疲れたように、眉間を押さえる。


 「俺は忙しかったんだ!」 

 「君と違って……領地を管理し、

  守る責任がある!!」


頭ではわかっていた。

たんなる偶然に会っただけに過ぎない。

嫉妬する方が間違い――

けれど、止められなかった。


 「嬉しかったか?

  初恋の男との再会は……」


  ーー違う!俺は、こんなことが

  言いたいわけじゃない!

 

 「アリーナね……。」


彼女は監視のために置かれた。

イネスは悟る。


 「そんなことはどうでも言い…

  子供を大事だと言うわりに、

  頭の中は浮かれているじゃないか。」


イネスの瞳から光が失われていく。


  ――心は、わたしだけのものよ!

  この人にだけは、

  とやかく言われたくない。

 

イネスは、ダニエルを睨み、静かに声を落とした。

 

 「最低よ!

  ――監視するなんて。」

 

  前は、あの子たちに、わたしを

  近づけさせないために

  監視や見張りをつけていた。

 

  この人は変わらない――

  形が変わっただけ。



 「いや、君のことが心配なんだ……」



 「今さら心配?笑わせないで!

  食べるものさえ困っていた時に、

  あなたはわたしに

  何をしてくれたの?」


 「……っ。」


ダニエルが言葉を詰まらせた瞬間、イネスはわざと肩をぶつけてすり抜けた。

 

冷たい沈黙だけを残し、振り返ることなく

廊下の向こうへ消えていく。


 

廊下の奥、揺れる燭火の影の中で、ノアの白い手が欄干を掴んでいた。

その瞳には、興味とも愉悦ともつかない光が宿る。

 

イネスの背を見送りながら、喉の奥で込み上げる笑いを、かろうじて噛み殺す。

  

 「なんだ、仲悪いじゃない。」


ノアの唇が、かすかに笑みを描いた。

 

 「案外――崩すことは

  簡単なのかもしれない。」


ノアは、その夜ダニエルの寝室へ向かった。

 

廊下を進むたび、蝋燭の灯がゆらめき、影が彼女の横顔を撫でた。

そして、あろうことか、ダニエルはノアを部屋に招き入れる。

イネスの心に、より強い“不信”を植え付けることになるとも知らずに。


 


 ――次話予告。

一夜を過ごしたダニエルとノア。

裏切りは繰り返されるのか。

 

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