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12話 熱と孤独の間。


ダニエルは、イネスの細いうなじに、手のひらを滑らせ、長い髪を掻き分けた。


少し強引に――けれど優しく、イネスを引き寄せる。


指先は微かに震え、そこに余裕などない。


 「――ずっと欲しかった…

  君のことが……」


そっと重ねる唇。

その甘さに、胸が溶けるようだった。

撫でるように、包むように。

イネスのことを傷つけないように……。


ダニエルは、焼けるような熱情と同時に、かつて冷たかったイネスの体温を思い出し、胸が締めつけられた。


  生きていてくれて

  ありがとう……


触れるイネスの肌や唇は、温かく柔らかい。

その熱が、彼女が生きていることを、教えてくれる。

いつの間にか、頬を伝って涙が流れていた。


――すると

イネスの瞳からも、静かに涙が伝っていた。


ダニエルは、その涙の意味を知りたくなった。

でも、その涙が、“拒絶”を意味するのだとしたら――

怖くて、思わず唇を激しく重ねて誤魔化した。


唇はやがてイネスの首筋から下へと落ちていく。

擦れる布の音。

思わず漏れる吐息。

そして、自らの心臓の音が、静寂を埋め尽くしていた。


――しかし。


 「ごめんなさい、ダニエル……

  ――やめて」


イネスの両手には力がこもり、離れようとする。

それが惜しくて、ダニエルは、さらに強く抱き寄せた。


熱い抱擁とキス――けれど、イネスはただ泣いていた。

この時、彼女の胸を埋め尽くしていたのは――


  エンリケによって“好きだ”と

  錯覚している、"憐れな男"……。


体を重ね、一時の満足を得たところで、それは愛とは呼べない。

イネスが欲しいのは、“愛”。


それに、自分がダニエルを愛しているのか、それすらわからない。


憎しみと、孤独が絡み、心を蝕んでいた。


ダニエルの唇が、あまりにも甘く、それが恐ろしいほどに怖く、彼女の目を醒まさせた。


空虚が静かに身体を覆っていく。

熱に溺れ、激しさを増すキスでさえも、すべては偽りの戯れ。

氷のように冷たくなっていく心。


――違う、これは愛じゃない。


何をどう足掻いても、このままダニエルと一つになることはできない。


――イネスは、ダニエルを拒んだ。


 「はぁ……っ……

  お願いだ……愛してる……」


縋るように、イネスの頬に唇を寄せる。


 「ごめんなさい」


 「イネス……頼む、

  拒まないでくれ。」


ダニエルは切実に、祈るように抱きしめた。

だが、イネスは何も返さない。

その沈黙こそが、答えだった。


強張っていたイネスの身体は、脱け殻のように力を失っていた。

心は頑な。


――そしてダニエルは、ゆっくりと腕をほどき、静かに部屋を出ていった。



――



悪いのは夫――。

心にそう言い聞かせながらも、彼の心や痛みがイネスにも伝わり、胸の奥が苦くくすぶっていた。


残された静けさの中、イネスは枕を濡らし、そっと目を閉じる。


花の匂いがほのかに薫る――“エンリケ”。

その石は、イネスの静かな寝息に呼応するように、淡く光を放つ。

 

そして二人の運命に、

また新たな試練を忍ばせるのだった。

  


――



朝……。

部屋から覗く、庭のように広がる鍛練場。

そこに息子たち二人の姿はない。

昨夜の夕食でのことで、イネスは二人と

話がしたかった。


アリーナに確認すると、常駐の騎士たちと共に、二人も体を鍛える場所にいるらしい。


そして朝食の時間。

やはり二人の姿はない。


ダニエルは早朝から領地の視察に出かけ、イネスは三日ぶりに、一人で朝食をとる

ことになった。


――三人から避けられている。

イネスの心は重い。


そんな中、アリーナがイネスにある提案をした。


 「ダニエル様が、

  ご用意なさったお衣服ですが、

  奥様のお体には

  合っておりません。」

  「新たにドレスや靴を、

  お求めになってはいかが

  でしょうか?」


そんな気分にはなれなかった。

けれど、ダニエルが用意したという「手当て金」を、アリーナが預かっているという。


貴族の妻は、夫から与えられるこの金で、服飾費や娯楽を賄う。

今回、ダニエルが用意した月の金額は、平民の家族が、一年優雅に暮らせるほどに相当した。


それに比べ、過去。

これまでイネスがもらっていた

“生活費”は、それに遠く及ばない。


  あの人は、わたしを

  こんなにも嫌っていたのに、

  なぜ、離婚を

  切り出さなかったのか…。


過去はわからない。

ただの気紛れか、面倒だったぢけなのか。


でも、“好きか嫌いか”――

それだけの理由で、ここまで差をつけるものなのか。


イネスは改めて、ダニエルに苛立ちを覚えた。

そして、ここまでの手のひら返しにもぞっとした。


――ダニエルは、気持ち一つで女の人生を大きく変えられる、権力と金、そして冷淡さを合わせ持っている。


突然、現実に引き戻されたように、イネスは過去の惨めさを思い出し、金の入った袋を握りしめた。


 「そうね……欲しいものは

  全部買いましょう。」



――


  

馬車はゆっくりと街の中心へ進む。

――前は、馬車を借りることすら叶わなかった。


イネスの顔馴染みが多くいる――「ナイロ街」。

採集した珍しい薬草や花を、彼女はここに卸しに来ていたが、移動はいつも山道を歩くしかなかった。


 「――あら、イネちゃん!

  今日はどうしたの?

  綺麗な装いね!」

 

付き人を伴い、小綺麗な衣服に身を纏ったイネス。

街の人々は、いつも通り親しみを込めて「イネちゃん」と呼んだ。

彼女がマイリー伯爵の妻であることなど、誰一人として知らない。


 「今日は買い物に来ました。」


イネスは愛らしく笑った。

そして、アリーナの勧めるブティックではなく、平民たちが集う服飾屋で、たくさんの服を依頼した。

時間をかけて買い物をし、お世話になった人たちに声をかけ、多めに買った衣類や食べ物を置いていく。


馬車に乗り込む寸前。

振り返る街並みは、何も変わらない。

けれど――今の自分が、かつて憧れた“見下ろす側”にいることに、

イネスはかすかな居心地の悪さを覚えていた。


――すると、

イネスをいつも気遣い、昼食をご馳走するなど、世話を度々焼いてくれた、肉屋のナンシーおばさんが、イネスの手を握った。


 「イネちゃん、

  あんた、今は幸せかい?」


硬くシワの寄った手。

夫に先立たれたナンシーおばさんの、苦労や悲しみは底知れない。

だからこそ、彼女はいつもイネスを気遣ってくれていたのだろう。


装いや様子が普段とは違うイネスに、何かを感じ取ったのか、心配そうに見つめる。


イネスはその視線に、胸の奥がじんわり温かくなるのを感じた。

 

――生きて、その機会を得られた喜びは、確かにあった。


 「えぇ、幸せよ――とっても!」


イネスの声には自然な明るさがあり、胸の奥に小さな安堵が広がった。

辛かった日々も、今の自分がここにいることで、少しずつ意味を持ち始める。


ナンシーおばさんはにっこり笑い、イネスの手を優しく握り返した。

 

 「そっか、それならよかった。

  あんたの笑顔が見られるだけで、

  わたしは嬉しいよ。」


街の人々は変わらず、温かくイネスを迎え入れてくれた。

それは――人としての信頼と愛情の証だった。


――そのとき、ふと大事なことを思い出す。


 「ネックレス……!!」


採寸の際、髪が金具に絡み、イネスはネックレスを外していた。

そのまま置き忘れてしまったことを、今になって思い出す。

慌てる気持ちが、胸をぎゅっと突き上げた。


アリーナを馬車に残し、イネスは足早に衣装店へ向かった。

石畳を踏む音が、緊迫感と焦りを帯びて響く。

風を切るように走る足に、胸の高鳴りが重なる。


幸い、衣装店はまだ閉まっておらず、イネスは無事にネックレスを受け取ることができた。

手に触れたその冷たさに、ほっと息をつく。


――すると、


「イニー!?」


ふと振り返ると、見覚えのある男が立っていた。

微笑む姿は以前と変わらないのに、年月が、彼に深みを与え、かつての面影とともに、より魅力的な輝きを宿していた。


 「なあ、イニーだろ……?」


胸の奥がふっと温かくなり、懐かしさが

静かに広がった。


イネスの愛称――「イニー」。


その名を呼ぶ人は、世界にただ一人しかいない。

懐かしさと驚きが入り混じったその瞬間、世界が一瞬、静止したかのようだった。


 「マルセル……兄さん?」


イネスの声が、街の喧騒の中でひっそりと響く。

 

彼女の胸元で、エンリケの石が、夕刻の陽光を静かに反射した。

 

その光は美しくも、どこか危うい――。

過去に交わることのなかった運命の悪戯を、まるで愉しむように、そっと映し出していた。




 ――次話予告

初恋の男。

名は――マルセル・モンテリオ。

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