1話 妻にも母にもなれない。
大人のロマンスファンタジーを描きます。
人間の世界に干渉し、愛すら嗜む
奇怪な石。
その名は――《エンリケ》。
選ばれし者にのみ力を示し、
誤れば、破滅をもたらす。
これは、その石に翻弄された者たちの、
狂おしい愛の物語。
北端の町。
春も夏も短い、雪に閉ざされた北の大地。
そこに、愛されることを諦め、心を凍らせた女がいた。
夫が愛人を選んだとき、彼女に残されたのは、凍てつくような誇りと、沈黙だけだった。
それが、イネスにできる最後の抵抗。
彼女がすがったのは、愛する息子たち――
それだけが、生きる意味だった。
けれど、その小さな希望さえも、容赦なく踏みにじられた。
息子たちの乳母として、この屋敷にやってきたノア。
本来なら、陰で支える立場だったはずの彼女は、次第に正妻のように振る舞い始めた。
息子たちを抱きしめ、夫の隣で微笑む。
策略に嵌められたイネスは、屋敷の隅へと追いやられた。
その結果、母と子のあいだには、取り返しのつかない深い溝が生まれた。
――孤独な年月。
イネスは今年で結婚二十年を迎える。
大きく成長した息子たちにとって、母イネスは、もはや他人も同然だった。
十八歳で嫁いだ彼女の、憧れた結婚の夢は砕け、“母”にも“妻”にもなれない虚しさだけが、静かに胸に残った。
――
ある日、街を隔てていた雪の壁が崩れ、柔らかな風が吹き込んだ。
そのぬくもりには、まだ冬の名残があった。
澄み渡る空を仰ぎ、湿った空気をゆっくりと肺に満たす。
雪解け水の匂い、遠くで揺れる鐘の音。
イネスはそっと瞼を閉じ、呼吸を整えた。
――今日も、一日が始まる。
戸を閉めて振り返ると、暖炉のそばに夫がいた。
イネスの表情は一転し、重く曇る。
「どこへ行っていた?」
新聞をめくる音と、掠れた声が耳に届く。
「……薪を取りに」
会話は、必要最低限。
夫がイネスの暮らす“罰部屋”を訪れるのは、月に一度。
わずかな生活費を手渡す、その日だけだった。
「受け取れ……無駄遣いはするなよ」
「……」
無駄遣い?
――生きるだけで、
精一杯なのに。
イネスは唇を結び、袋の中身を確かめもせず棚に仕舞った。
不満を“出さず”、夫を“構わず”。
そのまま暖炉に薪をくべ、静かに火を見つめる。
夫が、不満げに口を開いた。
「――使用人のような手だな。
少しは見た目を気にしたら
どうだ?」
脳裏に、着飾ったノアの姿がよぎる。
夫の目には、彼女こそが理想の女なのだろう。
だが、イネスにも“言い分”があった。
この屋敷は、ノアの“城”。
夫から嫌われた妻の扱いは苛酷だった。
言うことを聞かない使用人たち。
身の回りのことは、すべて自分。
我慢の水が溢れ、息ができない。
薪を放ると、イネスは外へ駆け出した。
夫の蔑んだ視線が、心を蝕む。
もう限界だった。
走り止まり、振り返る。
白い息の向こうに、虚ろな光景が滲んだ。
豪奢な屋敷の片隅に、貼りついたように建つ古びた小屋。
そこが、イネスの居場所――
人々が“罰部屋”と呼ぶ、鳥かごのような檻だった。
袖で涙を拭い、視線を上げた。
そこには、青空に流れる美しい雲。
「もういい……っ」
愛していると熱く口説き、借金まみれの自分を救ってくれた男は、もう――どこにもいない。
残ったのは、冷たく空っぽな現実と、
静かに老いていくしかない未来。
「こんな家族、わたしだって……
ここを出よう、今すぐに。」
声にならない声が、唇からこぼれ落ちる。
嗚咽を押し殺し、強く足を踏み出した。
――衝動に駆られた、イネスの逃避行のはじまり。
胸元で揺れるネックレスの石。
それは、静かに見ていた。
鼓動に呼応して、石はかすかに光を宿す。
イネスにはわからない――
冷たい空気が心の奥まで震えを伝え、何かが反応したことに。
その瞬間から、運命の歯車は動き始めていた。
彼女の選択は、愛を渇望した女と――
男の運命を、弄ぶように、
そして愛に狂うようにつき動かしていく。
――
陽の届かぬ片隅。
薄暗く、冷たい空気が漂う罰部屋。
そこには、置き手紙と離縁状が残されていた。
私物はほとんど手つかず。
イネスの気配だけが消えていた。
椅子に腰掛けた夫ダニエル。
紙片を握りしめ、硬直する。
部下の騎士が声をかけた。
「旦那様、何かお命じになりますか?」
「捜せ……屋敷の外も含め、
すべての道筋を探すのだ。」
冷たく響いたその声の奥に、微かなひっかかりがあった。
嫌悪していたはずの妻の家出――
それなのに、胸の奥で得体の知れない感情が渦を巻いた。
――何かがおかしい……
なんだ、この胸の重さは……
何かを見落としているような喪失感が襲う。
――そして、息子達。
「あの人が、出ていったって本当?」
「馬にも乗らずに……?
外はこんなに寒いのに。」
二人が、母の部屋に訪れたのは何年も前。
視線が互いに交わり、言い様のない後ろめたさが募る。
父の眉はひそまる。
「騒ぐな。」
「みろ、ろくに身支度もせず
出ていった。
根をあげ、すぐに帰ってくるに
決まってる。」
――糧を得る力もない。
無力な女に、いったい何ができる?
イネスを、馬鹿にしたような思考が次々に頭を巡る。
――しかし同時に、
心臓は早鐘を打つように煩く跳ねる。
心と体が噛み合っていない。
それに近かった……。
「こんな、みすぼらしい部屋
だっただろうか……。」
伯爵夫人なら、銀や金の花瓶や装飾。
洗練された家具のひとつでもあってしかるべきである。
この部屋には、そのどれをひとつとってもない。
ダニエルはただ立ち尽くしていた。
そして何故か、この部屋を出る気にはなれない。
手紙の上に残された、ひとしずくの涙。
黒墨と混ざり合い、まるで時間までも滲ませたようだった。
それが、彼女の“さよなら”の跡――そして、すべてを狂わせる物語の“始まり”でもあった。
――次話予告
指輪の日焼け痕――夫の涙。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
この物語は必ず最後まで紡ぎます。
続きも楽しんでいただけたら嬉しいです。




