日常の失墜
それは、4時間目が始まってすぐのことだった。
教室中の腕時計型デバイスが同時に震える。
振動に呼応するように、軽快な電子音が教室の至る所から鳴り響く。
霞は聞き流して教科書に視線を戻す。
液晶には『ランキング更新通知』と表示されたメールが1通届いていた。
周囲はこぞって端末に釘付けになる。
High Classは当然の結果だとばかりに、周囲への蔑みを隠そうともしない。
その傍らでMiddle Classは息を呑み、Low Classは項垂れている。
誰もがAIにすがっている。
授業範囲を読み終えた霞が顔を上げると、中央窓側の席でひとりの男子生徒──朝倉が大きく肩を震わせていた。
朝倉はMiddle Classだったはずだ。
「⋯⋯んでだよ、なんで!」
誰にも届かないと思えるほど掠れた呻きが漏れた。
「昨日まで⋯⋯ミドルだったのに」
朝倉は机を握りしめたまま震える。
(そうか⋯⋯朝倉の親はロジクイック物流勤務だったのか)
今日のランキング更新で最も評価が急落した企業だった。
そこに勤めていた従業員全員が“配属評価”の見直し対象となった。
ランキング評価は本人の能力だけで決まるわけではない。
家族や友人、職場の同僚や上司といったあらゆる人間関係が洗い出される。
より評価の高い人間と関わっていることがステータスとなる。
逆に、評価が下がるような人間と関わっていた事実は自分自身に傷をつける。
審美眼すらも格付け項目となっている。
評価の下落する人間は決して不祥事を起こした者だけにとどまらない。
犯罪者──無価値な人間だと判別できなかった。
それ自体が“罪”だった。
AIがある現代社会では、『知らなかった』では済まされない。
あらゆる事態を想定し、常に成功を求められる。
どこか他人事のようだが、確かな現実がそこにあった。
朝倉家の人間は一夜にしてLow Classに落とされてしまった。
朝倉の目からはとめどない涙が溢れていた。
「家も、財産も⋯⋯没収なんて!」
嗚咽が混ざった叫びが、救いのない空間に向かって響く。
霞は黙って見つめる。
感情が動かないわけじゃない。
ここで何を言っても、無意味だと知っていた。
同じように他の人間も授業に戻っていく。
メールを確認して自分が該当していないとはっきりしたからだろう。
こうした“人生の急変”は今となっては珍しくなく、むしろ日常茶飯事だ。
だが、今日は違った。
机に突っ伏したまま震えていた朝倉が立ち上がる。
そして、ふらついた足取りで席を立つ。
突然の不審行動に教室がざわつく。
しかし教員も、生徒も、誰も声をかけなかった。
『関われば自分の評価が落ちる』
全員が本能的に理解していた。
触らぬ神に祟りなし、とはまさにこのことだった。
朝倉は迷いなく霞の席まで歩き出す。
「お前だろ!」
充血した目に更に血が通う。
霞は眉ひとつ動かさない。
その様が気に食わない朝倉が、震える拳で霞の肩を掴んで立ち上がらせる。
「お前みたいな“異常値”がいるから⋯⋯全部、お前のせいだ!」
肩に爪が食い込む。
憎しみがそのまま出力されている。
「俺の家族が、人生めちゃくちゃになってるのに⋯⋯なんでお前は」
霞は何も応えず、ただ相手の目を静かに見返していた。
「離せ」
霞が低い声でそう言って手を払う。
抵抗されたことに腹を立てた朝倉が殴りかかってくる。
霞の反応は早かった。
逆に足を一歩滑らせて懐へ潜り込む。
拳は霞の肩の横を空振る。
勢いのついた朝倉の着地する足を払う。
突然の衝撃に、朝倉は顔を歪めた。
「やめなさい! 何をやっているんだ!」
教員が叫び、AIの監視端末が赤く点滅する。
「校内識別番号1A02、朝倉の問題行動を確認。即時処理を開始します」
放送スピーカーから電子音声が淡々と告げる。
「教室での暴力行為は評価値−30、家庭評価−50、行動係数−20」
冷酷な宣告だった。
「な、なんで俺が!」
それを聞いた朝倉の顔が歪む。
他のクラスメイトたちも動揺を隠せずに各々の反応を見せる。
「そんな⋯⋯これ以上は!」
教室の誰もが耳を塞ぎ、目を逸らす。
教師に連れられて教室を出ていく朝倉の泣き叫ぶ声が廊下から響いてきた。
−−−−−−
先生がいなくなった教室は、何事もなかったかのように喧騒を取り戻した。
霞は改めて一度深く息を吸い込む。
(これが公平な社会、か)
一夜にして巨額の富や名声を得る者がいる。
一方で人生を狂わされ、一瞬で社会の底へ落ちていく者もいる。
日常の崩壊を目の当たりにするのは気が滅入る。
そうしているうちに、教師が戻ってくる。
再びデバイスに通知が行き渡る。
問題行動が決め手となって、朝倉は退学が確定したらしい。
窓の外から射し込む太陽光がただ眩しかった。




