雨の夜、傘を差した
半年前、オンラインゲーム〈Monster Breakers Online〉で出会い、プレイした二人。
現実で初めて会うその日から、少しずつ距離が変わっていく物語です。
ビルの2階、借り切られたレンタルスペースは、すでにざわめきで満ちていた。
テーブルには紙皿とペットボトルの水、お菓子の袋が並び、壁際のホワイトボードには大きく〈Monster Breakers Online オフ会〉と書かれ、その下には落書きのようなギルドロゴが描かれている。
千川朔は、入り口近くの椅子に腰をかけ、スマホを手にしていた。
時刻は開始10分前。参加者はすでに二十人近く集まっているが、肝心の“あの人”はまだ来ていない。
(来るって言ってたよな……)
会場の奥では、同じクランの〈StoneWolf〉と〈Mikan-chan〉が、早くもゲームの話で盛り上がっている。
声をかけられれば混ざるつもりだったが、今はどうにも落ち着かない。
視線は何度も入り口に向かい、そのたびにまだ見ぬ彼女の姿を探してしまう。
窓の外には、細かい雨が斜めに降っていた。
傘立ての本数はじわじわと増え、びしょ濡れで来た人が入口でタオルを受け取っている。
外の湿った空気がドアの開閉のたびに流れ込み、室内のざわめきと混じり合っていく。
そのとき――。
黒髪ロングの女性が、静かに傘立てに傘を挿した。
知らない顔だ。だが視線が交わった瞬間、
反射的にスマホへ視線を落とす。
「……あの、Sakuya?」
顔を上げると、そこに彼女が立っていた。
髪の先から水滴がこぼれ落ちるのに、不思議と服は濡れていない。
初めて見る“彼女”の姿は、ゲームのキャラクター〈Rainveil〉の雰囲気そのままだった。
千川は突然名前を呼ばれて、反応できなかった。
女子と直接話すのは、高校以来だった。
だから一年ぶり、しかもゲームで知り合った相手と会話する状況に、視線を合わせられなかった。
だが彼女――〈Rainveil〉は、真っすぐこちらを見てくる。
恥ずかしさが込み上げ、口元が固くなる。
「……そうです。初めまして」
「なに? なんで敬語?」
目を細め、からかうような声。
「え、もしかして緊張してる? 私のほうが顔を知らない人ばっかりで緊張してるんだけど!」
その声は、ゲーム内で何度も聞いた落ち着いた響きと軽やかさを含んでいたが、確かに微かな震えが混じっていた。
「こっち、お菓子置いてありますよ」
千川はそう言って、彼女をテーブルへ案内する。
「え〜、また敬語」
小さく笑う声が耳に残る。
紙皿の横にはポテトチップスとチョコ、そしてペットボトルの水が並んでいた。
そこへ、会場奥から二人組がやって来る。
一人は〈StoneWolf〉――本名・佐伯祐真、26歳のシステムエンジニア。落ち着いた雰囲気で、いつもクランをまとめる兄貴分。
もう一人は〈Mikan-chan〉――本名・高橋亮太。千川の高校時代の同級生で、当時ハンドボール部の試合写真をよく頼んできた男だ。
「お、Sakuyaじゃん。……で、こっちが噂のRainveilさん?」
亮太がにやりと笑い、祐真が軽く会釈をする。
「はい。……初めまして」
澪――いや、Rainveilは、口角をわずかに上げて二人に挨拶を返した。
千川は、この小さな輪の中で、ゲームと現実が重なり始めているのを感じていた。
「初めまして、〈Mikan-chan〉です!」
相変わらずいい笑顔で、亮太が挨拶する。
「〈Mikan-chan〉って名前だから、てっきり女の子なのかと思ってました」
Rainveilが口元をゆるめると、亮太は胸を張った。
「でしょ。チャットしてても気づかないでしょ? こいつ、話題の範囲が妙に広いんですよ」
妙ってなんですか、その言い方はないでしょ、
|亮太が苦笑し、視線を祐真へ向ける。
いや亮太、お前はやり手だよ、
祐真が三人の輪に加わり、口元に軽い笑みを浮かべる。
「誰?」
Rainveilがそっと顔を近づけ、小声で朔に尋ねた。
「〈StoneWolf〉――本名は佐伯祐真さん。うちのクランのリーダー」
紹介すると、祐真は片手を上げて「よろしく」と一言。
***
オフ会が終わるころ、参加者たちはぞろぞろと会場を後にしていった。
傘立てから傘が減っていき、残ったのは数本だけ。
「Rainveil? 傘、取られちゃった?」
〈StoneWolf〉が一本の傘を手にして振り返る。
「どんな傘だったんですか? これじゃ……ないですよね」
〈Mikan-chan〉が傘立てをのぞき込むが、Rainveilは小さく首を横に振った。
「大丈夫です。それに駅までちょっとですから」
その声には、もう先ほどの震えはなかった。
「じゃあ、駅まで僕の傘で一緒に行こう」
〈StoneWolf〉が自然に彼女の隣へ立ち、二人は並んで歩き出す。
「鍵、締めた?」
「あ……うん」
朔は二人の背中を目で追いながら答えた。
「でもまさか、朔と同じ大学に通ってる先輩とはな」
亮太は何に感心しているのか、うんうんとうなずいている。
「彼女も同じ駅で降りるかもよ。そのときはしっかり相合傘しろよ!」
やれる度胸がないことを見透かされている気がして、朔は内心、少し腹立たしかった。
「おつかれさまです」
亮太を見送り、電車は雨の中を滑るように進んでいった。
終点へ向かう車内には、朔と彼女の二人だけ。
「座らないの?」
彼女が空いた席を軽く顎で示す。
朔は吊革を握ったまま、答えに迷った。
今さら隣に座るのは、このガラガラの車内では妙に勇気がいる。
かといって、離れて座るのも違う気がした。
「まぁ、あと一駅なんで」
そう言うと、彼女は肩をすくめて前を向いた。
「ずっとしゃべってましたね」
「Sakuyaは全然話さないで、食べてばっかりだったけどね」
電車が停まり、開いたドアから彼女が軽やかに降りる。
朔は慌てて後を追い、階段を駆け上がった。
改札を出ると、まだ雨は細く降り続いている。
「家まで送りますよ」
傘を傾けながら声をかけると、彼女は笑って首を振った。
「私は大丈夫!」
そう言って手を振り、雨の中へ歩き出す。
腕時計は十一時十二分。
この夜更けに女性を一人で歩かせるのは、やはり心配だった。
朔は別方向の道へ歩き出すふりをして、足を止めた。
――彼女は雨と戯れていた。
子どものように無邪気に跳ね、髪や頬に雫を受けるその姿は、ゲームでの彼女を想起させる。
その光景に、千川は思わずシャッターを切った。
「あれ、なんであっちに行ったんじゃないの?」
振り返った彼女が、不思議そうに首を傾げる。
「いや……やっぱり一人は危ないかなって」
「あ、あの相合傘はどうですか?」
彼女は少し考え、はにかみながら「お願い」と言った。
「あんまりくっ付くと濡れちゃうよ?」
からかうような声色。朔は視線を前に固定したまま、隣を見られない。
「……もう、私たちって大人なのかな?」
さっきまでの軽さとは違う、少しだけ沈んだ声。
朔は歩みを止め、傘を閉じた。
「少なくとも、僕はそうは思いませんよ――先輩」
二人は静かに、雨に濡れた。
次話では、彼女の前のバイト先で耳にした何気ない会話から、物語が少しずつ動き始めます。
明日更新予定です。お時間がありましたら、ぜひお立ち寄りください。