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罪から始まる溺愛なんて、ありえないと思っていた。  作者: 無月公主


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第9話 ただ、“お寛ぎください”のために

(か………完食してしまった)


 空になった皿を見つめたまま、ロカルドはゆっくりと天井を仰いだ。

 額に手をあて、静かに自責の念と戦うように眉間を押さえる。


(……まさか、完食するとは。油断だった。腹が減っていたとはいえ……)


 目を閉じると、香りと味が蘇る。

 あの舌の上に広がった濃厚でいて上品な味わい──それが、あのビースト侯爵令嬢の手によるものだと思うと、なおさら混乱する。


 一方、そのロカルドを食い入るように見つめていたヒューナレラは、恍惚とした表情で小さく手を握り締めていた。


(はぁぁ……ロカルド様が……あんなに美味しそうに、私の作った手料理を……っ。ぱくぱくと、丁寧に……はぁ、かっこいい……尊い……尊すぎて死んでしまうかと思いましたわ……)


「貴様、ここへ騎士団が到着したら覚えておけよ」


 食後の余韻に浸ることなく、ロカルドは低く鋭い声で牽制した。


 だがヒューナレラは、まったく堪えた様子もなく、にこりと微笑む。


「では、それまでは……ゆっくりとお寛ぎくださいませ、ロカルド様♡」


「……チッ」


 舌打ちをひとつ。


 怒気というよりは、苛立ちに近い。

 この空間すべてが、まるで自分のために用意された楽園であるかのようで、むしろ不気味だった。


「読み物でしたら、あちらの本棚からご自由にどうぞ」


 そう言われ、渋々と立ち上がる。

 本棚の前に立ち、指先で背表紙をたどると──


「……はぁ。気色が悪い」


 呟いたのは、本棚の中身がほとんど“自分の好み”で埋め尽くされていたからだ。


 軍記物、戦術論、法律書、詩集。そして──彼が好む名将の英雄伝。

 完璧すぎるラインナップに、警戒の色が濃くなる。


 だが手が勝手に動き、気づけば『名将イーサン戦記』を取り出していた。


 ソファに腰を下ろし、ページをめくるロカルド。その姿はどこかくつろいでいるようにも見えた。


(ああああ……ロカルド様……っ)


 対面の壁際、掃除のふりをして立ち尽くすヒューナレラの頬がゆるむ。


(少し乱れた服……リラックスした姿勢……そして知性溢れる読書の表情……尊い……それ全部……全部、写真に収めたいぃぃ……!)


「……おい、見るな。ソナタも何かしていろ」


「まぁっ! はいっ!!」


 びくんと跳ねたように姿勢を正すヒューナレラは、そのまま床掃除という名目で、ロカルドの読書姿を正面からガン見する第二ラウンドに突入するのだった。


◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇


ページをめくる指が止まり、ロカルドはふと、肩を回した。

 少し体を傾けて、大きく──「くあぁ……」と欠伸を洩らしてしまう。


(……はっ。しまった)


 反射的に口元を押さえ、視線を泳がせる。


(私は、監禁されているのだ。なのに……欠伸など)


「ロカルド様、そろそろ湯浴みの時間ですね。こちらへどうぞ♡」


 思考の途中、心地悪いほど明るい声が響く。

 ヒューナレラが微笑みながら指さしている先には──見たこともない形状の椅子が、洗面台の前に設置されていた。


「……なんだ、それは」


「命令です。さぁ、此方にお座りになって」


 ぐっと拳を握ったロカルドだったが、腕輪が淡く光り、全身の力がすうっと抜けていく。


「……くっ、体が……勝手に……」


 ロカルドは椅子へと腰を下ろす。

 次の瞬間──椅子が自動で後ろへと倒れ、仰向けに寝かされた。


「では、頭を洗ってまいりますね♡」


 目元にふわりとかけられる柔らかな布。視界が塞がれ、思わず息を呑む。


「…………」


(なんという……屈辱。貴族の男が、令嬢に髪を洗われるなどと……だが──)


 顔に乗せられたその布は、ただの布ではなかった。

 肌触りが完璧だった。


「……おい。この布はなんだ? どこの商会で買った?」


「申し訳ございません。これはロカルド様のために、私が開発した『タオル』という布ですの」


「……チッ。またか」


 湯の温かさと優しい指先が、頭皮をほぐしていく。

 そして鼻先をかすめたのは──好きな香りだった。


(……この香り……まさか、私の好みの全てを把握しているのか?)


 ぬるま湯が髪を伝い、耳元を濡らす中で、ロカルドは目を閉じて言った。


「ソナタ。これほどの情報を……どうやって集めた。

 私はチョコレートケーキの好みも、飲み物の趣味も、本の傾向すら、一度も誰かに話したことはない。

 どうして……いち令嬢が、それを知り得る」


 ロカルドの問いに、ヒューナレラはまっすぐ答える。


「それこそ、愛の力ですわ♡」


「……愛、だと?」


 眉をひそめたロカルドが、布越しに問いかける。


「その割には、……貴様は一度たりとも、私に求婚の言葉すら向けてこなかったではないか」


 その指摘に、ヒューナレラは少し悲しげな笑みを浮かべて──


「ですから。それは……ロカルド様が“お望みになっていなかった”からですわ」


 ヒューナレラは、まっすぐにそう言い切った。

 その声音には、一片の迷いもない。冗談でも、皮肉でも、虚飾でもない。

 まるで──それこそが真理であるかのように。


 ロカルドは、タオルの下で目を伏せた。


「……今まで、自分の望みを尊重する者など、誰もいなかった。

 与えられた仕事を黙々とこなし、例年通り、伝統を守り──常に公爵家のために動いてきた。

 そこに……私自身の意思など、不要だったのだ」


「はい。存じておりますわ」


 即答だった。

 重く冷えたその事実を、まるで共に背負ってきたかのように、ヒューナレラは静かに受け止める。


「……ならば、私がソナタに求婚するなど、ありえないこともわかっているのか」


「はい。もちろんですわ」


 迷いなく微笑む彼女の横顔に、ロカルドは眉をひそめる。


「先程、“愛がどうのこうの”と言っていたが──それも嘘だったと?」


「いいえ、嘘ではございません」


 ヒューナレラは、頭を洗い終えたロカルドの髪を、そっとタオルで包みながら、やわらかく続けた。


「……愛しているからといって、強引に求婚するのは違うと思っておりますわ。

 愛の形は……人それぞれ。押しつけるものではありませんもの」


 どこまでも、まっすぐな目だった。

 ロカルドは黙してその視線を受ける。だが何も言えなかった。


「さぁ、頭は洗い終わりましたわ。湯浴みをどうぞ。そちらの扉の奥です」


 軽やかにそう促され、ロカルドは無言のまま椅子から降り、示された扉を開ける。


 中には、脱衣所があった。

 空間の一角には、丁寧に置かれた籠と、清潔な布類──そして、貼り紙のような紙が一枚。


「……これは」


 紙には、美しい文字でこう記されていた。


《こちらへ洗濯物をお入れください。

 湯上りの布と、御召し物は右手の棚にご用意しております》


 ロカルドは無意識にその紙に触れた。

 指先に感じたのは、いつもの羊皮紙のざらつきではなく、なめらかな質感。


(……羊皮紙ではない、だと? 紙そのものが異質……)


 その素材がなんなのかも分からない。

 だが、手触りからして、明らかに高級な代物だ。


(これほどの技術や物資……宝の持ち腐れではないか)

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