第8話 願わくば、この味が心に残りますように
ロカルド・ターラントは、ソファに深く腰を下ろし、分厚い冊子をめくっていた。
それは、ヒューナレラが用意した“この部屋の使い方”を説明する冊子だった。
各設備の説明とともに、謎の技術──“写真”とやらがふんだんに使われている。
(……これは、魔導国家の研究記録でも見たことがない精密さだ。しかも……内容のすべてが、私を基準に作られている)
エアコン、冷蔵庫、衛生器具、ソファの高さやクッションの硬さ、風呂場の湯温まで。
とても偶然とは思えない“最適化”の連続に、背筋がぞわりとした。
その向こうでは、ヒューナレラが先ほどのチョコレートケーキで汚れたベッドのシーツを黙々と交換している。
(……あのビースト侯爵令嬢が、手ずからシーツを?)
あまりに異様だった。
初めて彼女を見たのは、まだ十代半ばの社交界──デビュタントの式典だった。
王太子の隣に並び、贅を尽くした衣装と宝石を身にまとった“氷の令嬢”。
その美貌と威圧感に社交界が沸く一方で──
彼は偶然見ていたのだ。彼女が、自分の前を横切った男爵令嬢に冷たく罵声を浴びせる姿を。
(あの傲慢な侯爵令嬢が、今は自ら布を洗い、ベッドを整えている?)
過去の印象とはまるで別人。
どうして、ここまで変わったのか。何が彼女をここまで動かしたというのだ?
「あ……もう、こんな時間……ディナーをご用意いたしますわね」
そう言って、彼女は壁にかけていたエプロンを軽やかに取ると、備え付けのキッチンへと歩き出した。
「待て」
思わず立ち上がる。
「まさか、ソナタ(あなた)が調理を?」
「はい。わたくしが、ですけれど……?」
ヒューナレラは、まったく悪びれる様子もなく微笑んでいる。
ロカルドは目を細めて、その手つきや動作をじっと見つめた。
「何か……足りないものがございますか?」
「……いや。毒を盛らぬか、この目で確かめさせてもらう」
「まぁ……。はい、どうぞ♡」
エプロン姿のヒューナレラが笑顔で泡立て器を差し出す。その手元では、魔力の込められた自動器具がカチャカチャと音を立て、勝手に動いている。
(……なんだこれは)
ロカルドは思わず眉をひそめた。泡立て器が自動で回転し、生地をまぜている。横の台では、レバーをひねると青白い炎が灯る鉄製の調理台が熱を帯び始めていた。
「おい、それはなんだ」
「こちらはオーブンですわ。えーっと……釜のようなものといえば、伝わりますかしら?」
「……それも、ソナタの発明品か」
「はいっ!ロカルド様にチョコレートケーキを献上するため、二年前に急ぎ設計し、職人に作らせましたの♡」
(……二年前。ソナタが狂いはじめた時期か)
ロカルドは目を細めて調理器具を一つひとつ観察する。それらはいずれも、王城の厨房すら凌駕する精巧さと利便性を備えていた。まるで──異世界の技術のように。
「はぁ……。ソナタ。それだけの知識と技術があるなら、財を成して政略結婚の話にもなり得ただろう」
ロカルドの言葉に、ヒューナレラは一瞬、視線を伏せてから、ゆっくりと口を開いた。
「……それは、ロカルド様が望んでおられないと存じていたからです」
「何……?」
「ロカルド様が嫌だと思うことは、わたくし、したくないんですの」
真っ直ぐに向けられた瞳に、一瞬、ロカルドの心が揺れた。だがその直後には、険しい声で返す。
「矛盾だな。ソナタは私に、十分すぎるほどのストーカー行為を繰り返してきた。観察、盗聴、尾行──すべてだ」
「あら……申し訳ございません。ですが、ロカルド様から“やめて”とは一言も言われなかったものですから」
「言ったら、やめていたのか?」
「はい。残念ですが、その時は……やめざるを得ませんわね。ロカルド様がそうおっしゃるなら」
(……言えばよかったのか。直接。いや、いかん。緩むな。気を抜くな)
慎重に距離を取りながら、ロカルドはふと鼻をひくつかせた。
ほのかに漂う香ばしさと、まろやかな乳の香り。
肉の旨味に、どこか香草の刺激──すべてが一皿の中に溶け合って、胃を刺激してくる。
(……これは)
嗅ぎ慣れぬはずの香りなのに、奇妙に懐かしく、心地よい。そんな匂いだった。
「侯爵令嬢が、調理などできるはずがない」
疑念を込めてそう言い放つと、ヒューナレラはふんわりと笑った。
「……そうですね。この時代では、ありえないことです。でも──ロカルド様のためなら、なんでも学びましたわ」
(またそれか……。すべて“私のため”と)
ため息がひとつ、思わず漏れた。
(この女は、どこまで本気なのだ……)
「味見してみますか?」
「……はっ。毒見だろう」
そう返しながら、小さな陶器の皿を受け取る。
銀のスプーンで一匙すくい、慎重に口に含むと──
「……っ!」
舌が驚いた。濃厚なコクとまろやかな甘み、香草の風味が絶妙に絡み合い、深みのある旨味が舌の奥へ広がっていく。
「なんという料理だ」
「シチューですわ♡」
「私の知るシチューはこうではないが……」
「はい。私のオリジナルシチューですの。ロカルド様のお口に合えばよいのですが……♡」
その言葉に嘘はない。
実際、調理工程を見ていた限りでは、確かに「煮込み料理」としての基本は外していなかった。
だが、味があまりにも豊かすぎる。これは何だ。調味料か? いや、素材の選定だろうか。
どこでこんな味を──
(……まずい。腹が……減ってきた)
胃がきゅう、と音を立てそうになったその瞬間。
──視線に気づいた。
じっと、真正面から見られている。
まるで、食事の一口一口にすら陶酔しているかのような、歪んだ熱を宿した眼差し。
──それはまさしく、“獲物”を見る目だった。
(うっ……まただ)
「……その目をやめろ。せっかくの料理が台無しだ」
「えぇ〜……?」
ヒューナレラは、指先で頬をちょんとつつきながら、しゅんとしたふりをする。
「そんなに見ていませんのに。ロカルド様の“お食事姿”があまりにも尊くて……♡」
(まるで人の食事風景を神殿にでも奉納するかのような口ぶりだな……)
この女、やはり常軌を逸している。
だが──その料理の腕と、こちらの好みに合わせてくる精度の高さが、腹立たしいほどに“完璧”なのだった。




