第7話 お目覚めの、推し様へ
やってしまった。
それは疑いようのない事実だった。
気を失ったロカルド様を“あの部屋”に運び入れた時、手は震えていた。顔面蒼白。心臓は破裂寸前。冷静に見れば一発で“誘拐監禁”だ。推し活どころか、国家反逆スレスレの行為である。
――だけど。
(……もう、戻れない)
ふわふわのソファに身を沈め、ヒューナレラは天井を見つめていた。
最初は「どうしよう」と何度も繰り返した。罪悪感も、後悔も、恐怖もあった。けれど今、心にあるのは――それとは少し違う、妙にすっきりとした“諦念”だった。
(だって……ロカルド様が、誰かと結婚するなんて……)
冷たい窓の外に目を向ける。遠く王都の方角に、彼の社交の場がある。
ロカルド様が微笑む、その先に自分がいないという現実。
王太子のように、理屈も通さず距離を詰めてくる男に、“未来の王妃”とささやかれ続ける日々。
……そして何より――ここはゲームの中のような、現実味のない異世界。
魂だけがぽつりと取り残されたような、不安定で歪んだこの世界で、私は――
(……ねぇ、どうして私が、我慢しなきゃいけないの?)
涙も出ない。心が少し、冷たくなっただけ。
自分が生まれた意味、転生した意味。
それが“彼の幸せを支える”ためだったのなら――
(……もう、いいかな)
何度も何度も、自分にそう言い聞かせる。
これは現実じゃない。ファンタジーで、恋愛ゲームの中のような物語。
だったら私は、私のやり方でロカルド様を幸せにする。
たとえ、それが常識から外れていても。
たとえ、どんなに歪んでいても。
この愛は、決して口にしない。
ただ――この部屋の中で、彼のためだけに。
(ロカルド様、どうか……この空間だけは、安らぎでありますように)
ゆっくりと立ち上がったヒューナレラは、眠るロカルドのもとへそっと歩み寄り、その横顔を見つめた。
――これからは、私があなたの全てを守ります。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「ん……ここは……」
意識が戻った瞬間、ロカルド・ターラントは眉をひそめた。視界に入るのは見慣れぬ天井。淡い香が漂い、寝具は妙に柔らかく肌触りが良すぎる。
「お目覚めですか? ロカルド様♡」
甘ったるい声に反射的に身体を起こす。すぐに視線を巡らせ、部屋の構造、出入口、窓の位置、監視の有無を確認し──その声の主を見た。
「……とうとう、私を拉致し監禁したか。ビースト侯爵令嬢」
金髪の令嬢──ヒューナレラ・ビーストがそこにいた。上機嫌に微笑み、まるで休日の昼下がりのような口調で言い放つ。
「ふふふ♡ ロカルド様はもう、この部屋から出られませんわ♡」
「なんだと……?」
ロカルドはすぐに異物の存在に気づいた。左手首に巻かれた金属製の腕輪。紋様が淡く光を放っている。
「これは……まさか……隷属の腕輪か? これをこの国で使用するのは違法だとわかってやっているのか」
「はい……♡ わかっておりますわ」
即答。なんの躊躇もなく、にこりと微笑むヒューナレラ。
(……はっ。よもや私の貞操も、ここまでか。すまない……エミリア嬢)
ロカルドは布団の上で身構えた。その時――
「はい♡ あーん♡」
ヒューナレラが嬉々としてフォークを掲げた。すくわれているのは――チョコレートケーキ。
「やめろ!!」
即座にフォークをはらいのけ、体を逸らしてシーツの上に転がる。
だがヒューナレラは、床に落ちたケーキの破片をナプキンで片付け、再び同じ動作でフォークを差し出した。
今度は、その声にわずかな圧がこもる。
「命令です。食べてください」
「…………くっ。毒でも食わせる気か」
それでも命令には抗えない。腕輪が淡く光を放ち、ロカルドの身体はしぶしぶ口を開けた。
──ぱく。
甘く、濃厚で、どこか懐かしい味わいが舌の上に広がった。
(うまい……だと?)
信じられない。だが事実だった。香り、舌触り、カカオの深み。完璧なバランス。
(いや、これは……体に異変を及ぼす成分が含まれている可能性が……)
思考を張り巡らせようとするロカルドの口元に、再びフォークが差し出される。
「はい、もう一口♡ あーん♡」
その後、ロカルドは言葉を失ったまま完食した。
「此方、お飲み物ですわ」
差し出されたティーカップ。慎重に睨みつけながら一口。
(……まさか……俺の好みのブレンドティー……)
微かなオレンジピールの香り。やや渋みを残した絶妙な温度。間違いない。子供の頃、母がこっそり用意してくれたあの味だ。
「はっ……気色が悪いことだ」
冷たく吐き捨てるように言ってみせるが、手元のカップはすでに半分以上空になっている。
ヒューナレラはただ、切なげに微笑んでいた。
「ロカルド様。お目覚め後のお手洗いがまだでしたら、此方へどうぞ」
ヒューナレラが導いたのは、別荘内の一室。だが、その扉を開けた瞬間──
「……なんだ、これは……」
ロカルドは目を見張った。
床には不思議な艶のある白い石が敷き詰められ、壁には煌々と光る照明具。部屋の奥には、陶器の椅子のような形状の“何か”が鎮座している。
「此方が、ガードローブです。水洗式になっておりまして、ようを足された後は──このレバーを引くと水で流せる仕組みとなっております。とっても清潔ですのよ♡」
ヒューナレラは満面の笑みで、銀色のレバーを指差した。
「……な、なんだと? これが……これがガードローブだというのか……?」
ロカルドの動揺は隠しきれなかった。これは便器ではない。異国の王宮ですら見たことがない。
「はい。慣れないと思いますが……。それと此方は、排便後にお使いくださいませ」
彼女が差し出したのは、白く巻かれた柔らかそうな紙。
「“トイレットペーパー”と申します。このように……お尻を拭いて、そのまま流せばいいだけですわ。……なんだか、説明するのが恥ずかしいですわね、こんな♡」
両頬をぽっと赤らめながら微笑むヒューナレラ。その一挙手一投足に、ロカルドは眩暈すら覚えた。
(何だこれは……この技術はどこから……)
ビースト侯爵家は、魔道具の開発と研究で名を馳せている。だが、それにしても、これはあまりにも異質すぎる。
「……これは……誰が作ったものだ?」
口をついて出た問いに、ヒューナレラはぴたりと動きを止め、少しだけ目を伏せる。
「あっ……すみません。僭越ながら、わたくしが……」
「……王に献上するためか?」
「王? いえいえ。ロカルド様に、快適にお過ごしいただくために発明いたしました♡」
「……私に、だと……?」
「はいっ♡」
(くっ……その目、その声、その仕草。……嘘は、ない。そこがまた……腹立たしい)
これほどの文明の利器を、己一人のために作り上げたというのか。
常識では理解できない。だが、ヒューナレラの目には曇りがなかった。
「何かわからないことがあれば……。此方の冊子に、写真つきで使い方を説明しておりますの。ご覧ください」
そう言って、彼女が差し出してきたのは、装丁のしっかりした小冊子だった。
ロカルドは受け取った瞬間、その中身を一目見て目を見開く。
「な、なんだこれは……!? 絵ではない……!?」
「はい。あの……“写真”というものでして。実物を、そっくりそのまま映したものでございますの」
「しゃしん……? そんなものが……存在するのか……?」
ロカルドは頁を捲るたびに、現実を捻じ曲げられていく感覚に囚われた。
水を流す瞬間の便器、ペーパーの巻き方、さらには“座りやすい角度”の図まで……全てが精密に記録されていた。
(これはもう……科学だ……魔道具ですらない。……一体、何者なんだこの女は)
トイレで、ここまで世界観を覆される日が来ようとは──
ロカルド・ターラント、二十一歳。
この日、初めて「文明的ストーカーの恐怖」を実感したのであった。




