第5話 ただ、あなたの人生に必要でありたい
──ターラント公爵家は、由緒正しき名家である。
少なくとも、外から見ればそう思われているだろう。
だが、実情は違う。
私の曾祖父の代を境に、家の“誇り”は音を立てて崩れていった。金ではない。
落ちぶれたのは──血筋だ。
本来、この家には王家の遠縁の血が流れていたはずだった。
だが、時を経るごとに異国の血、平民の血が交ざり、かつての“高貴”は霧散していった。
(──何が、世継ぎだ)
私の母は、平民の出身だ。
彼女はよくやってくれた。品も教養も身につけた。
だが、それでも「平民」という出自は、貴族社会において永遠に拭えぬ烙印だ。
──だからこそ、私は貴族の誇りを選ばねばならない。
私が結婚する相手は、政略の相手でなければならない。
……それが、唯一の答えだった。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
朝。
いつものように、書斎の扉を開けると、先にそこにいたのは父──ロルフ・ターラント前公爵だった。
艶のある長い青髪を一つに束ね、眼鏡越しの瞳は、どこか穏やかに見える。
「お呼びでしょうか、父上」
「ああ。すまんな、朝から呼び立てて」
父は机の書類に印を押しながら言った。
「爵位はもう譲った。お前は何も問題なく、公爵家を継いでくれた。私の役目は終わった。そろそろ……下の子たちを連れて、隠居しようと思ってな」
「…………そう、ですか」
正直、驚きはなかった。
父はもともと早く公務を手放したがっていた。自由人でありながら、公爵という鎖に縛られ続けた人だったのだ。
「すまないな、ロカルド。……お前には弟たちより随分厳しくしてしまった。本当に、悪かったと思っている」
「いえ。問題ありません」
答えは短く、感情もない。
父は一瞬だけ目を細めたが、それ以上の言葉は口にしなかった。
……そして、唐突に話題を変えた。
「それでロカルド。……君は、ビースト侯爵令嬢と結婚する気はないのか?」
「……………ご冗談を」
ロカルドは眉ひとつ動かさずに、言いかけて──一拍遅れて口をつぐむ。
「……あんな気狂いを……おっと。失言でしたね」
父は肩をすくめ、苦笑する。
「そうか。だが私は……彼女以上に理想的な令嬢も、そうはいないと思っていたがな。家柄、教養、そして……あの執心ぶりだ」
「それが問題なのです」
溜め息すら出そうだった。
社交の場で、どれだけ私が敬遠されているか──父も知らぬはずがない。
(……もはや、“彼女のせいで”誰も私に近寄れない)
若い令嬢は誰ひとり、私に近づこうとしない。
舞踏会では、ダンスを申し込む相手さえ現れない始末だ。
今や、“ターラント公爵に近づけばビースト侯爵令嬢に目をつけられる”というのが、貴族社会の常識になっていた。
「では、私の友人──エルド・ヴァーゼル子爵の娘はどうだ? 一度会ってみないか?」
「はい。……よろしくお願いします」
(子爵家か。妥当だ。問題はない)
むしろ、早く婚約してしまえばいい。
そうすれば、あの“ビースト侯爵令嬢”も諦めるだろう。
(──少しでも、“普通の人生”を取り戻せるなら、それでいい)
そう信じたかった。
たとえ、その婚約が──彼の中で何も動かさない“空っぽの選択”だったとしても。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
──なんですってぇ……!?
「ロ、ロカルド様が……ロカルド様が“お見合い”……?」
ビースト侯爵邸の一室に、雷が落ちた。
ヒューナレラ・ビーストは、手にしていた銀のスプーンを取り落としかけた。
息を呑み、何度も耳を疑う。けれど、それは事実らしかった。
あのロカルド様が、婚約相手候補と“会う”というのだ。
この二年、社交界の誰とも深く関わらず、冷徹にして孤高を貫いていた、完璧なる推しが──
(な、なぜ……?)
うまく呼吸ができない。胸が苦しい。
だがそれは、嫉妬とか怒りとは少し違っていた。
(推しの……結婚……? どう受け止めればいいの……)
胸の奥で、誰かがぽつんと呟いた。
けれど──追い打ちはさらに続いた。
「お嬢様! 王太子殿下が、また……」
あわてた様子の侍女が部屋に駆け込んでくる。
「“具合が悪い”と伝えて、帰っていただいて」
「そ、それが……もうお部屋に……」
見れば、扉の向こうに既に“その人”の姿があった。
やわらかく笑う金髪碧眼の美貌。
堂々とした立ち姿に、どこか演技じみた優雅さ──
「やぁ、ヒュネ」
「…………っ」
ヒューナは息を詰め、深く一礼した。
「王太子殿下に、ご挨拶申し上げます」
「いいから、頭は上げて。今日はちょっと大事な話なんだ」
にこにこ笑っているその笑顔の裏に、どこか底冷えのする“圧”を感じる。
「ターラント公爵が“お見合い”すると聞いた。……ヒュネの耳にも、もう入っているだろう?」
「……たった今、知ったばかりですわ」
「そうか。じゃあ──“もう邪魔者はいない”って思わないか?」
その言葉に、ヒューナはすっと目を細めた。
「いいえ。陛下はきっと、お認めになりません。王家としての……品位がありますから」
すると、王太子の微笑が、ほんのわずか、角度を変えた。
「父上か。……だが、父上が病気になり、俺が即位すれば、話は別だ。そう思わないか?」
「……な、何をおっしゃって……」
「“ペルロジア”がな。……最近、異国から入り込んでいるらしい」
「…………ペルロジアですって?」
(それって、確か……梅毒のことよね。前世の日本でも歴史の教科書で見たわ)
「それが、どうかしました?」
「うちの父上、遊び好きでね。……かかってしまうんじゃないかって、心配でさ」
「…………」
「まぁ、身内しか知らないことだから、口外は無用だけどな」
ぞくり、と背筋を冷たい指でなぞられたような感覚が走る。
「それって……もしかして、陛下の弱みを握ってるとでも……?」
「まさか。そんな物騒な話じゃないさ。ただ──もし俺が即位したら、そのときは」
──ふ、と顔を近づけ、耳元に甘くささやいた。
「君が王妃だよ、ヒュネ♡」
「……っ!」
頬にふれた唇を、すぐさま払いのけるように、ヒューナは距離を取った。
「お帰りください。今すぐに」
背筋をぴんと伸ばし、冷ややかに言い放つ。
けれど、王太子はそれすらも余裕の笑みに変えた。
「あぁ、将来の王妃のために……俺も、真面目に働いておかないとな」
そう言い残し、満足げに去っていくその背中が、やけに遠く感じられた。
扉が閉まると同時に、ヒューナは床に崩れ落ちそうになりながら呟いた。
「邪魔された……」
唇を噛む。
ロカルド様のお見合い。
王太子の執着。
そして、この時代に渦巻く、政略結婚という名の現実──
「……ロカルド様……」
ヒューナは、ゆっくりと窓辺に歩み寄った。
レースのカーテンを指先でそっと押しのけると、遠く、街の灯が揺れていた。
その先に、あの人がいるのだろうか。
冷たい瞳で、また誰かと向かい合っているのだろうか。
決められた“誰か”と、無表情で未来を交わしているのだろうか。
(どうして……あなたの幸せを願っているはずなのに、胸が痛むの……)
まるで、胸の奥に小さなナイフが差し込まれたような、じんわりとした痛みが広がっていく。
それでも、泣くわけにはいかなかった。
だって私は、彼の幸せのために生きているのだから。
「……だったら……誰よりも、あなたを知ってる私が……」
窓に映った自分の瞳を、ヒューナはじっと見つめた。
「誰よりもあなたに“ふさわしい環境”を整えて差し上げたい…。」
その視線に、迷いはなかった。
想いは切なく、けれど熱をはらみ、ゆらりと狂気と紙一重の光を灯していた。
──ロカルド様。
あなたを、手に入れるとは言わない。
でも、あなたの人生に必要な“すべて”になりたい…。