第4話 恋とは言わぬ愛がある
はぁ……♡
ロカルド様……♡
そのお姿を、柱の陰からそっと覗き見する──それが私の、至高のひととき。
(あぁ……今日も冷たい瞳が最高に麗しい……)
凛とした眼差し、まっすぐに伸びた背筋。無駄のない所作。
その完璧さが、かえって人の温度を感じさせないほどで──だからこそ、触れてみたいと思ってしまう。
私は頬を赤らめながら、柱の影に身を隠し、祈るようにそっと両手を組む。
(神よ……いや、ロカルド様……今日もお美しゅうございます……)
そのときだった。背後から、甘えたような声が聞こえてきた。
「ヒュネ♡」
「ひっ!? な、なんですの!!」
ぎゅ、と背中に回された腕を、慌ててふりほどく。振り返れば、そこにいたのは──
「……王太子、殿下……!?」
アレクシオン・ラドクルーム王太子。
太陽のように輝く金髪と、海のように澄んだ碧眼。そして、社交界屈指の“やらかし王子”でもある。
「探したよ。君はいつもロカルドの近くにいるから、助かるよ」
……あの。探さないでいただきたいんですけど。
「王太子殿下、申し訳ございませんが、ワタクシはすでに王太子妃候補から外された身。このような、過度なスキンシップはお控えくださいまし」
ピシャリ、と礼儀正しく距離をとる。
王子の笑みが、少し困ったように歪んだ。
「それは父上が勝手にそうしただけだろう? 俺は一度だって、君をあきらめたことがないよ」
(……うそぉん)
そう、残念なことに。
この2年間で、私は王太子に妙に執着されるようになってしまったのだ。
別に好かれるようなことは何もしていない。ただ、彼から逃げ続けていただけなのに。
「私には、想い人もおります」
ピシャリと断言する。だが、彼はまるで楽しむように肩をすくめて、悪びれもしない。
「……でも相手には、その気はないようだけどね? 俺にしときなよ、ヒュネ♡」
ヒュネ、って何!? 勝手にあだ名で呼ばないでいただきたい!!
「き、気持ち悪い呼び方しないでくださいまし!!」
──なんだこの地獄は。ロカルド様の神々しさを拝んでいた数分前が恋しい。
私は、これ以上何か言われる前に、その場からくるりと踵を返した。
余計な噂が立つ前に、さっさと帰るに限る。
(くぅ……っ。貴重な観察タイムが、邪魔されたぁ~~~!!)
地団駄を踏みたい気持ちを抑えながら、ビースト侯爵家の馬車へと向かう。
(いいわ。今日は退却。でも、ロカルド様……必ずや癒しを届けてみせますからねっ!)
そう誓いながら、ヒューナレラは会場をあとにした。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
祝宴の喧騒のなか、一際目立つ金髪が、ロカルドのもとへと歩み寄る。
「ターラント公爵」
やわらかな微笑を浮かべたまま、アレクシオン王太子が声をかけてきた。
周囲の視線が一斉に集まる。ロカルドは一礼し、儀礼的な口調で返す。
「王太子殿下。ご健勝にて何よりでございます」
「うん、ありがとう」
笑顔はそのままに、王太子の碧眼がすっと鋭さを増す。
次の言葉は、まるで冗談のような、しかし確かな探りを含んでいた。
「ビースト侯爵令嬢から──求婚されているのではあるまいな?」
場の空気が、ひやりと冷える。
ロカルドは、眼鏡の奥でまぶたを一度伏せる。
呼吸の深さひとつで、感情を見せてはならない場面だった。
「…………いえ。そのようなことは、ございません」
「そうか。失礼したな」
王太子はそれきり、何事もなかったように踵を返す。
──だが、それは“建前”に過ぎない。
(……いや。実際、求婚はされていない。事実だ)
だが、忘れようにも忘れられない存在がある。
毎年、誕生日になると、律儀に──いや、執念深く届く一通の手紙。
内容は形式上、ただの誕生日祝い。
言葉づかいも端正で、恋文とも縁談の申し出ともつかない。
けれど──
その一行一行の行間から、どうしようもなく熱がにじみ出ていた。
たとえば、こんな一節。
「冬の月の12日、午前八時四十二分。公爵様が玄関にて上衣を直すご様子、今朝の青の刺繍が大変お似合いでした」
──それは、“見ていた”者の文体だった。
(……なぜ、それを知っている)
手紙の差出人は、ビースト侯爵令嬢──ヒューナレラ。
控えめな署名の最後には、必ず決まった一文が添えられている。
「いつも貴方のご健康とご多幸を祈っております。心より、ヒューナレラ・ビースト」
おそろしいのは、それほどの密度をもっておきながら、一度たりとも“結婚”の文字が出てこない点だった。
(……何が目的だ)
好意を伝えるでもなく、未来を求めるでもなく、ただひたすらに──観察し、讃えてくる。
まるで宗教的儀礼のように、年を追うごとに精度を増して。
「……どうにも、理解できん。毎度同じ質問をされる」
ロカルドは、ふと袖口を正すように手を滑らせた。
些細な仕草に紛れて、思考をそらすように。
その様子を見ていた、先ほどまで彼と談笑していた貴族が、肩をすくめる。
「また、王太子殿下とビースト侯爵令嬢の話ですか……」
「あのふたり、いったいどうしてしまったのやら。どちらも、かつては王宮の誉れだったのに」
「……この国の未来が、心配ですな」
ひそひそと交わされる声を、ロカルドは黙って聞き流す。
新たなグラスを手に取ろうとして──ふと、指先がわずかに止まった。
そして代わりに、卓上のナプキンを取り、折り目を揃えるように静かに指先で整え始める。
まるで、何かを振り払うように。
何も感じていないふりを、手元の動きに託して。
──たしかに、国の未来も気がかりではある。
それよりなにより、あの“手紙”がまた来るのかと思うと、胃の調子が心配だった。