第3話 推しを見守る柱の民
「……おい、見ろ。まただ」
「……あぁ、ビースト侯爵令嬢か。ほんと、どうしてしまったのやら」
「聞いたか? あれのせいで、完全に王太子妃候補から外されたらしいぜ」
「王太子と言えば……」
──言葉は、そこで途切れた。
まるで、そこから先を口にすることが憚られるように。
貴族が集う春の夜会。きらめくシャンデリアの下、きらびやかなドレスと微笑みが飛び交う中。
その片隅に、また一人。影のように柱に張りついている令嬢がいた。
金糸のような髪に、桃色の瞳。完璧な外見、格式ある家柄、そして“かつて”王太子の婚約候補として名を挙げられた女。
ヒューナレラ・ビースト。今や社交界では、別の意味で有名な存在になっていた。
──「ターラント公爵を“つけ回す”、ビースト家の氷の令嬢」──
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
前世の記憶が蘇ってから、2年。
ヒューナはこの2年間、たった一つの目的のために生きてきた。
それは、ロカルド・ターラントを──ただ遠くから見つめること。
いや、正確には「見守る」でも「想う」でもない。
もはや観察と研究と礼拝。そしてその境地に至った信者の目だった。
(あぁ……今日もお美しい……)
柱の陰からそっと覗くその瞳は、獲物を狙うより真剣で、どこか神聖ですらある。
(やっぱり生のロカルド様は……格が違う……。この世界の“完成形”……いや、神、神よ……)
艶のある青髪は、ぴたりと後ろへ撫でつけられた美しいオールバック。理知を宿した深紅の瞳の奥には、凍てつくような冷徹さが潜む。
鋭利な眼差しの上には、貴族らしい格式を感じさせる細縁の眼鏡。高価で重厚なシルバーの衣装は、彼の品格と威厳をさらに引き立てていた。
冷たく引き締まった口元。無駄のない所作。人を寄せつけない空気。
すべてが、彼の孤高な魅力を際立たせていた。
ヒューナはかつて、ロカルドが落としたハンカチを神聖遺物として自室に額装した。
さらに屋敷に忍び込み、執務室の椅子の“座り癖”を調査中に警備に捕まりかけたこともある。
だが、それには確固たる信念と目的があった。
(私の作る魔道具が、ロカルド様の生活に“本当に役立つもの”でなければ意味がない……!)
だからこそ、彼の行動、嗜好、生活リズム、部屋の気温、筆記具の材質まで──すべてを把握する必要があった。
最初は自力で尾行・記録していたが、半年で体力と貴族のメンツが限界を迎え、現在は専門の情報屋を雇用。
今では、毎週「ロカルド様・観察レポート」が届けられている。
(でも、やっぱり……この目で見る“本物”には敵わないのよ……)
舞踏会の片隅で、ただひとり背を伸ばして佇むロカルド。
その姿を見つめるだけで、胸がぎゅっと締めつけられる。
(その紅い瞳……疲れてるの、わかるわ……癒してさしあげたい……)
──ロカルド・ターラントは、孤独だった。
相思相愛の両親は、誰よりも自由を求めていた。
だからこそ、ロカルドに“早く一人前になれ”と厳しい教育を課した。
愛を注ぐのではなく、責務を教え、感情を抑えることを良しとした。
いつしかロカルドは、喜怒哀楽を表すことをやめた。
褒められることにも、叱られることにも、無関心なふりをするようになった。
彼は、ただ“完璧な公爵”として、生きるだけの人間になっていた。
(でも、私は知ってるのよ……あなたの“好きなもの”)
──甘いもの。特に、チョコレートケーキ。
それは、公式ファンブックの巻末。誰も気づかないような余白に記されていた。
“幼少期、たまたま出されたチョコレートケーキを口にした際、わずかに笑みを見せた”と。
けれど、その笑顔は親に咎められた。
「公爵は嗜好で感情を乱してはならない」と。
それ以来、ロカルドは二度と甘味を望むことはなかったという。
(だから私は前世では……毎年、誕生日に……チョコレートケーキを作って、お供えしていた)
たとえ彼の口に届かなくても、私だけは知っていた。
誰よりも、彼の“甘さ”を、否定されてきたことを。
この世界に転生してからは、まず材料の確保から始めた。
カカオ自体は南方の交易路で流通していたが、問題は調味料。
バニラ、シナモン、上質な塩、洋酒──現代であれば手に入る香りとコクの“決め手”が、ここでは贅沢品だった。
だから私は、各国の商人と交渉し、侯爵家の名を使って輸入ルートを確保。
いまや屋敷の地下倉庫には、チョコレートケーキ専用のスパイス棚がある。
製菓道具も、魔道具職人のコネを使って自作した。
(すべては、ロカルド様に“本当に美味しいケーキ”をお届けするために……!)
もちろん、差し出す予定などない。
これは“お供え”だ。彼の孤独な心が、ほんの一瞬でも甘くなれば、それでいい。
彼の笑みが、この世界にもう一度咲く日を信じて──
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
一方その頃、ターラント公爵ロカルドは、いくつかの貴族と商の話を交わしていた。
内容は都市部の流通整備と関税の改訂について。
静かな声で要点を絞り、的確に言葉を重ねる彼の周囲には、自然と空気の緊張が生まれる。
誰もが彼を“完璧な公爵”と称し、その発言に耳を傾けていた。
──けれど、会話がひと段落したそのとき。
ワインを口に運んだ一人の男爵が、ふと視線を斜めに向けて言った。
「……また、見られていますね」
ロカルドも何も言わずにそちらを一瞥する。
柱の影。その定位置にいる金髪の令嬢の姿は、もはや見慣れた光景だ。
「ご結婚の予定は、閣下?」
「……はあ。……またそれですか」
ロカルドは静かに嘆息した。
この話題が出るたび、同じ返答をするのにも疲れていた。
「あれは……私のしつこいストーカーです。その予定だけは、ありえません」
事実を淡々と述べる声音は冷ややかで、表情にも一切の揺らぎはない。
けれど、男爵は意外な反応を見せた。
「ですが──彼女ほど、相応しい令嬢もいないのでは?」
静かな言葉だったが、場に微かな波が立った。
その一言に、周囲の貴族たちもわずかに反応を見せる。
たしかに、ヒューナレラ・ビーストは王族を除けば筆頭といっていい名家の令嬢。
教養、礼節、魔道具の才能。どれをとっても申し分ない。
あの王太子でさえ、一時は王太子妃にと考えていたほどの存在だった。
それを、ただの“厄介な女”と片づけるには──あまりに惜しい。
「………」
ロカルドは、答えなかった。
だが確かに、返答に詰まったのも事実だった。
あの女が、こちらを見るあの目。
「……あの目が、どうにも」
ロカルドは、低く呟いた。
無垢でもない。恋情でもない。
──あれは、祈りと渇きが入り混じったような、粘性を帯びた熱。
まるで、肌の上を視線だけで撫でられているような錯覚に陥るのだ。
あの金の髪の令嬢が、自分を見つめるときの眼差しは──
敬意や憧れという理性の仮面をかぶってはいても、奥に潜む欲望が濃すぎる。
(……値踏みされているようだ)
それも、品定めというより、
まるで自分という存在を「すでに所有している」と言わんばかりの確信を宿して。
理解できない。けれど、本能が警告を鳴らす。
──あれに、踏み込まれてはいけない。
(……くだらない)
そう心を振り払うように、ロカルドはグラスを口に運んだ。
だがその日は、いつもよりもわずかに早いペースで、グラスの中身が減っていった。