第2話 失礼オブザイヤーは突然に
鏡台の前で、私はおとなしく侍女たちの手を借りていた。
金の髪に香油を馴染ませ、ゆるやかに編み上げていく指先。頬には柔らかな桃色がひと刷けされ、唇には、品のある艶が乗る。
ふと鏡を見たとき、視線がぶつかった。
(……やっぱり、すごいなあ、この顔)
金糸のように光る長い髪、潤んだ桃色の瞳、凛とした眉、きゅっとした顎先。
──まさしく、ゲームの中で「氷の令嬢」と称された令嬢そのもの。
でも、不思議と違和感はなかった。むしろ、自然。あまりにも自然すぎて、逆に戸惑うほどだ。
(これが、“なじんでる”ってやつ……?)
確かに私は、事故で命を落としたはずの、三十路手前の会社員だった。
でも今の私は、この身体に、ヒューナレラ・ビーストの記憶に、あまりにも溶け込んでいる。
(……まるで、私とヒューナレラが一体化したみたい。いや、もしかして……)
この世界に生まれ、育ってきた記憶の方が、ずっと“本物”のような気さえする。
朝陽が差し込む窓辺。お気に入りのローズティーの香り。子供の頃に使っていた魔道具の感触。
どれもこれも、妙に懐かしくて、あたたかい。
……あっちの私のほうが、夢だったんじゃないかとさえ思う。
「お嬢さま、もうすぐ仕上がりますよ。本日は王太子殿下とのお茶会ですから、念入りに美しくさせていただきますね」
「──えっ」
ピタリ、と動きが止まる。
「……王太子って、え、もしかして……アレクシオン王太子!?」
喉がカラカラに乾いた。
しまった。完全に忘れてた。
(そうだ、そうだった!!)
ヒューナレラ・ビースト。
彼女は、王族に深く寵愛されている名門、ビースト侯爵家の一人娘。
魔法具を生み出すことができる、王族を除いて唯一“魔法”の血を持つ家門。
(とはいえ、“魔法”って言っても、こう……思ってたのと違うのよね)
指先から炎が出るとか、空を飛ぶとか、そういうファンタジーなアレではない。
電流を帯びた石が震えることで熱を出したり、水に反応する鉱石が冷却作用を起こしたり。
なんというか……そう、ウナギが電気ウナギになる、みたいな方向性。
科学と自然のハイブリッド、みたいな。
(……って、そんなこと考えてる場合じゃない!!)
うっかり記憶に没入しかけていた自分に、強くツッコミを入れる。
違う違う! 本題はそこじゃない!
「王太子とのお茶会……」
──それこそが、バッドエンドの始まり。
確か、このお茶会で“なんとなく流れで婚約”みたいな空気になるんだった。
このイベントを防がなければ、私の未来は地獄一直線。
(ヤバい、ヤバい。今のうちに釘を刺しておかないと!)
でも、ただ断ったら角が立つ。相手は王族。変に機嫌を損ねたら、それこそ粛清コースだってありえる。
社畜人生で身につけた「空気を読んで断るスキル」、ここで活かさずしていつ活かす!?
(うう、でも……こわ……いや、でもでも!)
──この人生、推しのそばで生きるって決めたじゃない。
婚約して王太子ルートに入るなんて、そんなの絶対ダメだ。
(よし、今日のお茶会で言ってやる!「婚約はいたしかねます」って!)
意気込む私の背後で、侍女がふわりと髪飾りを留める。
「本日のヒューナレラ様も、まるで絵から抜け出た姫君のようです」
鏡の中の自分は、確かに、誰が見ても気品に満ちた貴族令嬢だった。
でもその実態は――
(中身、アラサーのオタク女なんですけどね)
と、心の中で小さく自嘲してから。
私は静かに息を吸い込んだ。
「……行こう。まずは破滅回避からだわ」
推しに近づく未来のため。
今日のお茶会は、最初の戦場だ。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
陽光が差し込む庭園の一角。白いテーブルにレースのクロス、薔薇のティーカップ。
まるでおとぎ話の一幕のようなセッティングの向かい側に──
王太子、アレクシオン・ラドクルーム殿下はいた。
さらりと肩にかかる金髪は、太陽の光を集めているように柔らかく、瞳は透きとおる碧。
白とブルーでまとめられた王子服は彼の整った長身によく映えて、笑顔は、そう、完璧という他ない。
作り物みたいに、絵に描いたみたいに、美しい。
(す、すご……本物の王子様の迫力って……ここまでとは……!)
背筋はピンと伸びているのに、どこか余裕を感じさせるその佇まい。
作法としての笑みなのに、不思議と“自然”に見えるのは、王族としての生まれつきの器なのだろう。
(オペラ……いや、舞台……なんというか……)
そう、それは“俳優オーラ”とでも言うべきもの。
周囲の空気ごと、彼の存在が場を支配している感じ。まさに、主人公そのもの。
(ロカルド様も……こんな感じなのかな……)
思い浮かぶのは、深紅の瞳に艶のある青髪、冷たく理知的なあの横顔。
生で見たら、たぶん正視できないレベルに違いない。
(俳優……どころか、神かもしれない!!!)
「……俺の顔に、何か?」
──はっ。
我に返ると、目の前の王子様が、にこやかに微笑んだまま、鋭い視線をこちらに向けていた。
「い、いえっ! その……ちょっと、“想い人”のことがちらついて……」
言った瞬間、空気がぴたりと止まった。
「……は?」
その一言が、これほど破壊力あるものだとは思ってなかった。
ああ、やばい。これ絶対、言っちゃいけないやつだった。
「も、申し訳ございません殿下! わたくし……なんてことを……!」
慌ててカップを置き、椅子を引く音も雑になる。
どうしよう。頭真っ白。でもこのままじゃ絶対気まずい!
「君に、“想い人”が?」
「え、えっと……っ! 今のはどうかお忘れください殿下っ! わ、わたくし、そろそろ……失礼いたします!!」
カーテシーもそこそこに、スカートの裾を握って、私はその場から逃げ出した。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「やっっっっっちゃったーーーーーーー!!!!!」
ビースト侯爵邸の中庭に転がり込み、私は思い切り芝生に突っ伏した。
「失礼オブザイヤー! 大賞受賞!!! 式典はいつ!? 今!? 今ここで!?!?」
震える両手で顔を覆い、草の匂いを胸いっぱいに吸い込む。
目を閉じても、王太子の微笑がフラッシュバックしてくる。無理。心臓がもたない。
(でも、でも、今日を乗り越えれば……!)
ゲームでは、王太子はこの後ヒロインと出会い、勝手に恋に落ちて、勝手に結婚するルートに進むはず。
たしか、このお茶会は“顔合わせイベント”程度で、婚約確定には至らなかった……はず!
(父親が勝手に決めたわけでもないし! まぁ……家は代々王家に嫁いでるけど……!!)
だけど今はまだ“前段階”。こっちから婚約を明言しなければ、未来は変えられる。
「よし……っ。これから、きっぱりお断りしていけばいいだけだし!」
もう一度深呼吸。顔を上げた。
「……そんなことより、ロカルド……」
いや、ロカルド様。
あの孤高の公爵が、冷えた部屋でひとり執務しているかと思うと、胸が苦しくなる。
肩こりとか、眼精疲労とか、大丈夫なんですか!? 糖分足りてます!?
そんな庶民的な気遣いができるのは、転生者である私しかいないのよ!!
「……ふふふ、そうよ。ロカルド様に、快適な生活を送っていただくための“魔道具”作りに本腰入れなきゃ~~~~!」
魔法×現代知識の融合。
お湯がでるシャワー。マッサージチェア。エアコン。
夢が広がる。世界が輝いて見える。
「ふふ……待っていてください、ロカルド様……っ!」
その日、王子様との茶会に敗北しつつも、推しへの忠誠心で完全復活を果たした私は、魔道具工房へと全力で駆け出したのだった。