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第19話 もう、あんなお嬢さんは見たくないんだ……

 夜の帳が落ち、王都の空にわずか星の瞬きが滲んでいた。

 ビースト侯爵家の一室。光の届かぬ薄闇の中、ヒューナレラは一人、椅子に身を預けていた。


「……名前って、なんだったかしら」


 ぽつりと漏らした声は、誰にも届かないほどか細い。

 指先をじっと見つめる。自分の手のはずなのに、まるで誰かのもののようだった。


 この十四日間、食事もほとんど摂れず、眠りも浅い。夢と現の境は曖昧になり、記憶の糸は絡まり始めていた。

 ヒューナレラという名も、前世の自分も、曖昧に溶け合っていく。


 そんな中で、不意に扉が開いた。


「お嬢さん!」


 飛び込んできたのはラカンだった。息を荒くしながら、焦燥と、どこか希望の混ざった顔で。


「ロカルドの奴が……もうすぐ来ます! お嬢さんを迎えに!」


 その言葉を聞いた瞬間、ヒューナレラの身体が微かに動いた。

 椅子から立ち上がり、ふらりと、クローゼットへ歩いていく。


「そう……やっと、来てくれるのね」


 囁く声に、現実感はなかった。夢をなぞるように、ヒューナレラは白いネグリジェを取り出す。

 床には、彼女が切り落としたままの金の髪がまだ落ちていた。


「罪人に相応しい服……これでいいかしら」


 ラカンが小さく息をのむ。だが、言葉にならない。

 彼は、彼女のその表情が、何よりもつらかった。


「違います……お嬢さん。迎えに来るんじゃない。裁きに来るんじゃないんだ」


 それでも、ヒューナレラは顔を伏せたまま微笑んだ。


「……処刑されるの。ロカルド様の手で。だって……それが私の罰だから」


 ラカンは叫びたかった。目の前の彼女を抱きしめ、すべてから遠ざけてしまいたかった。

 けれど、それは彼にはできない。彼女の本当の笑顔が、自分の手ではなく、ロカルドの隣にあると知っているから。


 ヒューナレラは、ラカンの視線などまるで気にする様子もなく、淡い白のネグリジェに腕を通しはじめた。


 その様子にラカンは慌ててくるりと背を向けた。顔が熱い。だが、見てはいけない。これは彼女の、最期の覚悟なのだ。


 だが次の瞬間、屋敷の廊下から微かに足音とざわつきが聞こえた。


 ──来た!


 希望がひと筋射したかのように、ラカンは飛び出すと廊下を走る。そして、遠くに見える青髪の男の姿を認めるやいなや、全力で叫んだ。


「ここだ!! ここにいるぞ、ロカルド!!」


 その声を聞いたロカルドは、一瞬ためらうこともなく駆け寄ってくる。黒い外套が翻り、真紅の瞳がまっすぐにこちらを射抜いていた。


 ラカンは膝をつき、頭を下げた。今にも泣きそうな、けれど必死にこらえた声音で、ぽつりとつぶやく。


「頼む……もう、あんなお嬢さんは見たくないんだ……」


 この痛みは、本物だ。何度「気のせいだ」「勘違いだ」と笑われても──それでも、彼の胸に残るのはあの日の出会いだった。


 ──ラカンとヒューナレラが初めて出会ったのは、一年半ほど前。


 その日は、突然だった。


「兄貴!! 妹さんの容態が!!」


 部下の声に、ラカンは思わず立ち上がった。


「何!? まさか、また悪化したのか!?」


 「いえ……いえ、逆です。すっかり良くなってるって……」


「──は?」


 信じられない。あの病が、完治するはずなどない。


 ラカンは馬に飛び乗り、息せき切って自宅へ戻った。


「ラーナ!」


「お兄ちゃん!」


 ベッドから身を起こした少女は、ぱっと花が咲くように笑った。


 褐色の肌に、光を弾くような白銀の髪――その面影は、兄のラカンによく似ていた。けれど、兄の鋭さとは異なる、どこかあどけなさと柔らかさが残る顔立ち。まだ年端もいかぬ細い体には、つい先ほどまで病に伏していた影がうっすらと残っていたが、それでも、彼女の笑顔は眩しかった。


 そして、その傍らには、いつもの主治医が控えていた。


 ──もうひとり。


 見慣れぬ少女が、やや下を向いて立っていた。


 フードを深くかぶり、顔の下半分を覆う不思議な布。だが、その金の髪と、桃色の瞳。


 一目でわかった。目の前にいるのは、ビースト侯爵家の一人娘、ヒューナレラ・ビーストその人だ。


「な、なんで貴族がこんな場所に──!」


「やめて、兄ちゃん。お姉ちゃんが、ラーナを助けてくれたの」


「え……?」


「い、いえ、私は助手でして。この方が治療を……」


「えー!? だってお姉ちゃんが、ずっと先生に教えてたもん!」


 ラーナの無邪気な声に、ヒューナレラの肩が小さく震えた。視線をそらし、表情が曇る。


「……わ、私はこれで……」


 それだけ呟くと、彼女はくるりと背を向け、足早に部屋を後にしようとした。


「待て!」


 思わずラカンはその細い腕を掴んでいた。


 ──か細い。どこか壊れそうで、それでいて、どこまでも自分の信念に忠実な手だった。


「あの……礼なら、このお医者さんに……」


 そう言って笑う彼女に、ラカンはしばし視線を落とした。


 (どうせ、身元なんてとっくに判明している。なら、今は追うべきじゃない)


 ラーナのことが最優先だ。そう判断し、ラカンは静かに手を離した。


 ヒューナレラが去ったあと、彼は医師の肩を軽く叩いて問いかける。


「で? どうやって治したんだ?」


「……それが、ですね」


 医師は戸惑ったように眉をひそめると、奥から器具の詰まった袋を取り出してきた。


「“点滴”というものを、あのお嬢さんが持ち込んでいまして。それに“抗生剤”と呼ばれる薬の知識も……」


「抗生剤……?」


「はい。菌を殺すらしく、初めは半信半疑でしたが、近くの患者に試したところ……完治したんです。驚いて、他の患者にも慎重に試したのですが、三人とも改善が見られて。これは本物だと確信しました」


「……勝手な判断は褒められないな」


 ラカンは低くつぶやいたが、すぐに目を細めて苦笑した。


「だが、結果は良好だ。今回は不問にしてやる。ラーナを助けてくれたこと、感謝する」


「ありがとうございます。それと……彼女が、少し妙なことを言っていました」


「妙?」


 医師は躊躇いがちに言葉を継いだ。


「“妹を助けたら、きっと兄は何でもいうことを聞いてくれるはずだから”、と。それで、ロカルド・ターラント公子の情報が欲しいと──生活の細部、癖や好み、行動パターンまで、すべて知りたいと頼まれました」


「……は?」


 ラカンの眉がぴくりと動いた。


「侯爵令嬢が……ターラント公子に恨みでもあるってのか?」


「いえ……その、むしろ逆のようで。どうにも、熱烈な恋心のような……」


「……ぶっ……」


 ラカンは思わず吹き出した。そして、喉の奥で笑いを噛み殺すように、肩を震わせる。


「はははっ……そんな馬鹿な。あの氷の令嬢だぞ? 以前、依頼されて何度か調べたこともあるが、彼女は王太子に寵愛されていたはずだ。常に冷静、恋など無縁の──」


 ──だが。


 ほんのさっきの、あの背中。あの言葉。あの視線。


 すべてが、腑に落ちない。


(いや、まさか……)


 ラカンは一瞬、息を詰めた。


 ヒューナレラが見せた行動が、ただの気まぐれではないと──直感が告げていた。


「……調べてみるか」


 その呟きは、まだ確信には至らない、けれど確実に何かが動き始めていたことを意味していた。






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