第16話 この誓いが、すべてを変える
「あの……ロカ……ルド、様?」
鼓動が、耳の奥で鳴り響いている。
どうして自分は、今──推しの腕の中にいるのだろう?
(これって……どういう状況? 私、ロカルド様に、抱きしめられて……)
ロカルドの瞳が、深紅の光を湛えて揺れる。
「……愛してほしいなら、愛してやる」
「へ……?」
思考が停止した。その言葉の意味を理解するには、時間が必要だった。
「ロカルド様、いけません、そんな……っ」
けれど──その抗いは、彼の手がそっと顎に触れた瞬間、ふっと力を失った。
「ロカルドと……呼べ」
「い、いけません……! そんな、私は……」
言い切る間もなく、唇が触れた。
「んっ……!?」
視界が揺れる。触れただけのはずなのに、頭の中が真っ白になっていく。
「……ロカルドだ」
「……っ呼べません、そんな……あ、ん……っ」
二度、三度と重ねられる口づけに、言葉を奪われていく。
「呼ぶまで、何度でも」
「……ロカ……ルド……」
「そうだ」
低く囁かれるその声が、鼓膜を震わせた。
ふいに体が浮き上がり、驚きの声がこぼれる。
「ロ、ロカルド様っ!?」
「……ヒューナ」
再び唇が触れた。
そのまま、ふわりとベッドの端に降ろされる。
「……愛している。ヒューナ」
静かに、まっすぐに向けられた告白に、胸の奥が熱くなる。
「ロ……カ……ルド……様……っ」
涙が溢れた。どうしてなのか、自分でもわからない。ただ、こみ上げる何かが止められなかった。
その涙を、彼はそっと指先で拭った。
まるで、触れれば壊れてしまいそうな宝石のように、やさしく──確かに。
「……私に感情を持たせた責任を取れ。嫌なら、命令しろ……」
低く、喉の奥で響くような声だった。
それは懇願でも命令でもない。ただ、心の底からこぼれ落ちた本音だった。
ヒューナレラは、ただ息を飲むしかできなかった。
“命令”という言葉。
もし、それが唯一の逃げ道だったとしても──彼女の唇は、動かなかった。
(命令なんて……できない……)
(だって、私は……ずっと、ずっと……)
心臓が張り裂けそうだった。
罪を知りながら、それでも愛してしまった。
叶わぬと知っていて、それでも欲してしまった。
ロカルドの手が、ゆっくりとシャツのボタンを外す。
その仕草に、下心も衝動も感じなかった。
ただ──彼の決意だけが、静かに伝わってきた。
「……もう、後戻りはできない。私も……お前も」
静かな呟きに、ヒューナレラの喉がかすかに震える。
次の瞬間、ふたりは、まるで引き寄せられるように抱き合った。
貴族でも、侯爵令嬢でも、公爵でもなかった。
ただ、一人の男と女として。
ヒューナレラの細い腕が、彼の背に回る。
ロカルドの指先が、そっと彼女の背中をなぞる。
ふたりは確かめ合うように、何度も互いの名を呼んだ。
言葉はもういらなかった。
触れ合う鼓動、重なる呼吸、指先が交わす熱だけで──
心が繋がっていくのが、わかった。
それは、長い追走の果てにようやく届いた“答え”だった。
愛している。
それだけで、すべてが報われると思えた。
世界が止まってしまえばいいと、心から願った。
このまま、ふたりの世界だけが閉ざされたままでいてほしいと。
互いのすべてを委ねるその夜は、
奇跡のように静かで、あまりにも温かかった。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
まぶたの裏に、まだ彼女の温もりが残っていた。
甘く、柔らかく、何もかもが優しく包み込まれていた夜。
だからこそ、目覚めた瞬間、ロカルドは疑わなかった。
隣に、彼女がいる。
そう、あの無邪気で、狂おしいほどに愛おしい彼女が。
「……ヒューナ」
優しく名を呼びながら、彼は目を開けた。
──しかし、そこにいたのは。
「お目覚めですか!? ロカルド様!」
涼しげな声が耳に飛び込んできた瞬間、背筋が凍りつく。
視界に映ったのは、見慣れた天井。
重厚なカーテン、整然と整えられた家具。
そして、自身の執事であり、幼少期より常に傍にいたダリの姿。
「……ここは……」
思わず、重く分厚い布団を跳ねのける。
指先で、自分の手首を探った。
──ない。
そこにあるべき“隷属の腕輪”が、どこにも──ない。
「嘘だ……嘘だ、嘘だ嘘だ嘘だっ!!」
シーツが皺になるほど手を握りしめ、ロカルドは荒い息を吐いた。
目を閉じ、もう一度開いてみる。
それでも、現実は変わらない。
夢ではなかった。
確かに、ヒューナと交わした、あの夜は“あった”のだ。
温もりも、愛の告白も、すべてが……。
「ヒューナ……っ」
それは、誰に向けたとも知れぬ呟きだった。
だが返ってきたのは、容赦ない現実だった。
「ロカルド様!? どうかなさいましたか!?」
ダリが心配そうに顔を覗き込んでくる。
だが、その声すら遠い。
まるで心が、どこか別の空間に取り残されたようだった。
(なぜだ……どうして、ここに……?)
(あれは……夢だったのか? いや、夢であるはずがない。あれは……)
ロカルドは歯を噛みしめた。
失った──ような気がした。
手に入れたはずのものを、唐突に、残酷に引き剝がされたような。
彼はベッドに座ったまま、ふと視線を落とした。
胸元には、まだ、彼女が触れてくれた痕跡が──淡く、熱く、残っていた。
「ダリ……私は……どうなっていた? 十四日ほど、失踪はしていたか?」
問いかけは静かだった。
だが、その言葉の一つひとつに張り詰めた糸のような緊張が宿っていた。
「は……はい。ですが、ご安心ください。あの忌々しいビースト侯爵令嬢が、ロカルド様を連れて──」
次の瞬間、空気が変わった。
ロカルドが立ち上がり、ダリの胸倉を無言でつかみ上げた。
「……ッ!? ろ、ロカルド様……!?」
ダリの声がひきつる。
冷徹で理性的なはずの主君が、今、確かに怒っていた。
それも──凍てつくような激情で。
「貴様……ッ!! ヒューナレラを“忌々しい”などと、二度と言うな!!」
鋭い声が部屋に響く。
その一言には、あらゆる立場や秩序を超えた感情の重さがあった。
ダリは狼狽えながらも、ロカルドの瞳に宿る色に凍りついた。
紅玉のような双眸が、迷いなく燃えていた。
まるで、何者にも侵せぬ“誓い”をその奥に宿しているように。
ロカルドは一拍の沈黙の後──静かに告げた。
「……彼女は、私の妻になる」
「は……はいっ……!?」
信じられないというように、ダリの目が見開かれる。
「いいか、ダリ。私は十四日間、あの女に囚われていたわけではない。自ら、囚われていたのだ。……そうすることを、選んだ」
その声には、誇り高きターラント公爵の威厳と、男としての確かな決意があった。
「私は、彼女に情を抱いた……などという言葉で済む話ではない。心も、理性も、誇りすらも……全てを渡した。彼女を“妻”と呼ばねば、私の生きる意味が、もう見つからん」
ダリは何も言えなかった。
長年仕えてきたが、これほどまでに強い言葉を彼の口から聞いたのは、初めてだった。
まるで何かに取り憑かれたように、あるいは──
本当に、恋に落ちた男の顔だった。
ロカルドは手を離し、ゆっくりと窓の方を見る。
(ヒューナ……どこにいる? 何故、何も告げずに……)